カルメンの夜、ふたたび


 それから5日目の晩、カルメン、イイナが舞台に戻ってきた。

 1幕目の終了時、割れんばかりの拍手を浴びて彼女は舞台袖へと戻っていった。

「あんなに見たがっていたイイナ・カルメンなのに君はそれほど気乗りしていないようだね」

 カルメンが消えた舞台袖から目を離さないで龍之介がつぶやく。文字通り、僕のカルメンはもういない気分だった。


 舞台が始まる直前に田代から聞いた話がまだ頭の中で回り続けている。言葉が直接脳の襞を刺激するように動き回っている。

「今夜からイイナが帰ってくるぞ!」

 僕らの顔を見るなり田代が駆け寄ってきた。

 やはりそうだ!

 この前の夜に見たあの薔薇の花束を思い出す。

「イイナはやはり彼の熱意に心を決めたのか」

 僕がそういうと、田代が「知っていたのか」と目を丸くした。

「まぁ。5日前の晩のことだしもう噂になっているか。国際関係に影響があるとまずいということで記者には詳細を流していないのだけどな」

 記者?カルメンの恋はやはり国際的な注目を浴びるものなのか。

「情熱も情熱。すこぶるロマンティックだ。男が一人彼女のために自分の命を捧げたんだから」


 田代は僕と龍之介の様子に注意を払うことなく話し続けた。

「あの旧帝国の侯爵はホテルの自分の部屋で自死したのさ。ホテルの部屋中に薔薇の花をばらまいてまるで自分の死そのものが彼女への贈り物のようだったとか」


 僕はこの話を聞いているうちに、ある情景を思い出した。占いの夜に、「あなたはこの男より幸せよ」と言って露西亜の男を振り向いたイイナの瞳。イイナの言葉を受けた男の顔。目深にかぶったハットのせいで男の顔はほとんど見えていなかったはずなのに、今の僕にはなぜか彼の表情がよく見える。イイナの言葉を彼はどんな思いで聞いていたのだろうか。イイナに忠誠を誓う彼。僕よりも幸せになれないという彼。イイナの言葉を偽りとせずにイイナの心を手に入れる方法。


「出るかい?」

 龍之介の声で劇場のボックスに意識が戻った。

「いや。最後まで見ようじゃないか」

 そう話している間にゆっくりと幕が上がり始めた。

 僕は少しも幕を見ていなかった。結局、目前のカルメンではなく僕の頭の中にあるイイナと露西亜の男の物語を追い続けてしまう。あの夜見た薔薇の花束に彩られて死に向かう男を。よそう。少なくとも、カルメンの心は今や彼のものなのだから。


「そうかな?」

 幕に集中していると思っていた龍之介が僕に問う。

「どういうことだい?」

 カルメンは恋人を決めたから舞台に戻ってきたのだろう。彼女の永遠の恋人を。

 龍之介は黙って僕らの正面にあたる向こう側のボックスを示した。外国人が5、6人入っていて愉快そうに笑ったり話したりしていた。中心にいる男性が特に快活に笑っている。そして、彼は大きな赤い花束を抱えていた。この前の夜に見たものとそっくり同じような鮮やかな薔薇の花束だ。


 そして、舞台の上のカルメンが、美しい羽扇をひらりひらりとはためかせて微笑むカルメンが、確かにそのボックス席の男に向かって艶然と微笑んで見せた。それは果たして僕が見た幻だろうか。


「カルメンは誰を恋人に定めたか君にはわかるかい?」

 龍之介の言葉に僕は小さく首をふった。僕の様子に龍之介がふわりと笑う。

「安心しろ。僕もだよ」


 最後の幕が終わろうとしている。

「彼女は誰を愛したのか。彼女の愛を得るために自死した男か?生き残って彼女を愛し続ける男か?それとも」


 カルメンの死骸を要したホセが、「カルメン! カルメン!」と慟哭する。


「彼女の愛を得るために相手の男を亡き者にした男か?」


 割れんばかりの拍手に応えて出演者が深々と頭を下げて微笑み合う。カルメンの微笑みは一体誰に向けられているのか。僕は幕が下りて照明がつくまでずっと舞台を見つめていた。イイナを見つめ続けていた。この男を殺したことをなんとも思っていないらしい露西亜のカルメンを。


 その帰り道だった。


 僕と龍之介は近くのカッフェで田代とテエブルを囲んでいた。

「あの占いの夜、君の隣にいた白いジャケットを着ていた男は」

 龍之介はグラスの中にさす薄い光を弄ぶように手の中でカップを転がしながら続けた。

「左手でグラスを掲げていた」

 僕もあの夜の光景を思い浮かべようとしてみたけれどぼんやりとした幕がかかったような思い出になってしまっていて、記憶の端切れをうまくつかむことができなかった。

「僕らがあの夜にあった、薔薇の花束を抱えた男は」

 赤い薔薇の花束が闇の中で大きく振られる。僕が発したgood luckという言葉を受け止めたようにもはじき出したようにも見える動きだった。

「右手を振っていたね」

 龍之介の代わりに僕がつぶやく。

 

 龍之介がコツン、とグラスをテエブルに戻す。それでおしまい、というようだった。

「おわりかい?」

「おわりだよ。僕が気づいたのはそれ以上でもそれ以下でもない。ただ、それだけさ」

 田代がゆっくりとパイプをくゆらす。田代の吐き出した薄灰色の煙が僕らのテエブルを横切り、薄日をゆらめかす。

「イイナはあの晩以来、左の薬指に包帯をしていたのに気がついたかい?」

「そういえば包帯をしていたようだね」

 田代の言葉に僕と龍之介がうなずく。田代はもう一度大きく、パイプをくゆらすと、煙の行き先を確かめるように少し目を細めた。

「イイナはあの晩ホテルへ戻ると、皿を壁に叩きつけてね、そのまた欠片をカスタネットの代わりにしてね、指から血が出るのも構わずに」

「君、そのまま飲んじゃダメだよ」

 僕は田代に注意した。彼が手にとったグラスの中にはまだ小さい黄金虫が薄くさした光の中で仰向けになってもがいていた。田代は妙な顔でじっと黄金虫を眺めてから白葡萄酒を床にこぼした。龍之介はちょうど通りかかったウエイターから赤葡萄酒を受け取り、床を這うように動き出した黄金虫にその赤色を足すように少しだけこぼして見せてつぶやいた。

「カルメンのように踊ったのだね」

 

 そこへ僕らの興奮とは全然釣り合わない顔をした、頭の白い給仕が一人、静かに鮭の皿を運んできた。

 

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