不健康食品

傍井木綿

不健康食品

 うちの洗面台には小さな瓶が並んでいる。透明な液体と白い液体がそれぞれ入った二つの小瓶。私と一緒に暮らしている恵子のものだ。洗顔の後や風呂上りに毎朝毎晩、彼女はそれらを手に取る。肌の手入れに使う保湿液か何からしい。緑色で半透明のビンに白いキャップ、大きさは手のひらに収まる程度。洗面台に並ぶのはいつもこのメーカーのものだ。

 薬局へ買い出しに行った時、恵子に言ったことがある。

「二、三個買っておけば良いじゃないか」

 小さな瓶の中身は、すぐになくなってしまう。そのくせ彼女は買い置きするのを嫌がるから、頻繁に買いにいかなくてはいけない。医薬品や洗剤を買うのはいつも彼女の保湿液を買うついでだった。私が面倒がれば恵子は一人で買いにいく。しかし彼女自身のこだわりとはいえ、自分でも面倒じゃないのかと思ったのだ。彼女は笑って答えた。

「駄目よ。使いきれないもの」

 買った分を使いきったから、こうして買い出しにきているのではないのか。眉を寄せる私に、彼女は手にしていた新しい小瓶の底をこちらに見せた。

「使用期限があるの」

 そこには確かに日付が西暦から印字されていた。化粧品にも期限なんてものがあったとは知らなかった。私が少し驚いて言うと彼女は、ものにもよるわね、と言った。

「保存料が入っていれば、ずっともつわ。でも、このメーカーは無添加が売りだから」

 緑の小瓶に白字で書かれた商品名、その下には同じ字体で、無香料とか無着色とかいった文字が並んでいた。今流行りの無添加とやらには、こういう面倒な部分もあるらしい。


 今日も白いキャップをした緑の小瓶は、仲良く鏡の前に並んでいた。寝起きの口内は何となくべたつく気がして、私は朝食の前に一度歯を磨く。今日も歯ブラシを手に取り、歯磨き粉をつけようとして、そこで気づいた。歯磨き粉が新しいものに変わっている。

 そんなに減っていただろうか。中身が少なくなったチューブは絞り出すのに苦労するが、昨晩歯を磨いた時にそんな苦労をした覚えはない。むしろ、ほんの二、三週間前に新しく出してきたばかりのような気がする。恵子が取り替えたのだろうが、一体なぜ?

 緑のキャップに白いチューブ。見慣れないデザインのチューブから、中身を少量出して歯磨きを始める。しかし新しい歯磨き粉は泡立ちが悪く、すぐに私は手を止めた。泡立ちが良すぎても口の中がいっぱいになって困るが、あまり泡立たなくても物足りない。恵子の化粧品と取り違えたのではないかとチューブを確認するが、裏面の表示は間違いなく歯磨き粉となっている。何だか納得がいかなくて、そのまま歯磨きは切り上げて口を濯いでしまった。

 台所に行くと、恵子はコンロの上の鍋から味噌汁をよそっているところだった。

「歯磨き粉、替えたのか」

 私の問いに彼女は、ええ、と頷く。そして湯気の立つ椀を食卓へと運んできた。

「界面活性剤とかいう成分が舌に良くないらしいの。味がわからなくなってしまうって」

「界面活性剤?」

 味噌汁の椀を受け取りながら聞き返すと、恵子は説明を繰り返す。

「歯磨き粉って、色々なものが入ってるのよ。界面活性剤とか、研磨剤とか。界面活性剤は舌の味を感じる所を駄目にしてしまうし、研磨剤はかえって歯を傷つけてしまうから良くないんですって。新しいの出しておいたでしょ。あれはそういった余計なものが入ってないから大丈夫よ」

 隣の居間のテレビで朝のニュースが流れている。政治家の発言、企業の不祥事、景気の下降、世界情勢。淀みなく話すアナウンサーの言葉と同じように、恵子の説明も淀みなく右から左へと流れていった。大丈夫よ、という最後の部分だけ耳に引っ掛かって残った。

「そんなこと、どこで知るんだ」

 恵子は白飯を盛った茶碗を居間のテーブルに運ぶ。突っ立ったままの私の手から味噌汁を受け取って彼女は言った。

「本に書いてあったわ」

 それからテレビ台の下の戸棚から一冊の本を取り出してきた。白地に緑の文字が書かれた表紙。いくつかある付箋の貼られたページの一つを開いて彼女は言う。

「ほら、ここに書いてある」

 並んでいる文字をざっと目で追ってみると、確かに彼女が言ったようなことが書いてあった。続いて、文章の横に載っている写真に目をやって、ぎょっとした。見慣れた歯磨き粉のチューブ。昨日まで自分が使っていたものが商品名と写真まで載せた上で、健康に良くないものとして紹介されていた。本を受け取って他のページも見てみるが、シャンプーやリンスなど、他のものについても同様だった。健康に害のある成分が何だとか、使い続ければこんな酷いことになるだとか、書き連ねた上で実際にどのメーカーのどの商品が危ないと書かれていた。こんな本を出してメーカーから苦情は出ないのかというのも気になったが、それ以前に気分が悪くなった。

「でもなあ、こういうことを気にしてなくても、別に普通に暮らしてる人だってたくさんいるわけだし」

 今までずっとそう過ごしてきた自分の生活に、細かく口出しされるのは気分の良いものではない。そもそも本に取り上げられている商品は自分たちの親も使ってきたものだが、ここに書かれているような不調に彼らが悩んでいる様子はなかった。

「気にし過ぎだよ」

 苦笑いでそう言ってやると、恵子は真面目に取り合わない私に機嫌を損ねたらしい。もういいわ、朝ご飯食べましょう、と言って本をテレビ台の戸棚にしまいこんでしまった。


 それから一週間の内に、恵子はシャンプーやリンス、洗顔石鹸なども新しいものを使い始めた。彼女いわく、健康に良いというものを。どのボトルやチューブも緑と白で彩られている。多分、あの本はメーカーが自分の製品を宣伝するために書いた本だったのだろう。恵子はそれにすっかり乗せられてしまったわけだ。私はそんな商品を使いたくなくて、彼女とは別に今まで通りの歯磨き粉やシャンプーを置いて使い続けている。

 私が下手に諭したせいか、恵子は少しむきになっていた。化学調味料は良くない、とか言って、忙しいのにわざわざ煮干しの下処理から始めて出汁を取るようになった。酒のつまみにスナック菓子を買ってくれば親の仇を見るような目で睨まれるし、炭酸ジュースを飲んでいるところを見つかれば歯が溶けると喧しい。

 面倒くさくなってきた私は、職場の社員食堂で済ます昼食に加えて、夕食も仕事帰りに外で済ませて帰るようになった。はじめは、外食は脂肪や塩分がああだこうだとうるさかった恵子だが、どうにも私に改める気はないと悟ると諦めたのか何も言わなくなった。そして彼女自身は、何種類かのサプリメントを飲むようになっていた。

 そうして一月も過ぎただろうか。どうせ外食で済ますのだからと、仕事帰りに同僚と飲みに行くことが増えていた。前の晩に飲み過ぎたのか、その朝は起きるのが何となくだるかった。歯を磨こうと洗面台の前に立てば、顔色もどことなく悪く見える。

「ちょっと不摂生し過ぎたかもしれないな」

 朝食を食べながらテーブルの向かいに座る恵子にそう言った。彼女は、それ見たことか、と言わんばかりの呆れ顔で溜息をつき、一旦食卓を離れた。すぐに戻ってきた彼女の手には、銀色の袋に緑の文字が印字されている小袋があった。

「栄養のバランスを整えるサプリメントなの。試しにしばらく飲んでごらんなさい」

 そう言って、恵子は優しく笑った。久し振りに彼女の笑顔を見た気がする。健康志向に熱を上げ過ぎるのは困りものだが、私も毛嫌いし過ぎていたかもしれない。お互いにむきになっていたのだ。彼女が手ずから取った出汁で作った味噌汁を飲みつつ、そう思った。

 一月も不摂生を続けていたのが響いているらしく、なかなか調子は戻らない。少しずつだるさは増していく気がするし、口内炎がいつまでも治らない。酒を控えて、しばらくは彼女の健康志向に付き合うことにした。今の私には摂生も度が過ぎるくらいでちょうど良い気がする。恵子の手料理を食べ、彼女が持ってきてくれたサプリメントは毎食後、欠かさず飲んだ。体に良いらしいから、と彼女が買ってきてくれた外国のお茶を飲み、腹の調子が悪い時には彼女が選んだ漢方系の薬を飲んだ。

 休日、仕事の疲れが取れず、今日はDVDでも見ながらゆっくりしていようとテレビの電源を入れておいて、その下、テレビ台の戸棚を開けた。そこに白地に緑の文字が書かれた表紙の本を見つけて、思わず手にとった。いつか彼女が見せてくれた、あの本だ。

 テレビ台の前に座り込んで、ぱらぱらとページを捲る。ふと、見覚えのあるパッケージが目に入った。胃腸薬のページで取り上げられている漢方薬、それは彼女が腹を下した私に持ってきてくれたものと同じだった。何かの間違いだろうと思ったが、オレンジ色の派手なパッケージは見間違えようがない。嫌な予感がして、お茶のページを開く。そこにも見慣れたパッケージが載っていた。胸のあたりに嫌な感じが集まってくる。それでは、まさかサプリメントも、とページを繰るが、最後まで目を通しても緑色の文字が印字された銀色の袋は載っていなかった。

 考え過ぎだ。以前は彼女に気にし過ぎだと言っておいて、今では私が気にし過ぎている。体調が良くないと気も小さくなるものなのか。そう自分で自分を笑った時、つけたままにしていたテレビでニュースが始まった。

 新たに発覚した製薬会社の不祥事。人体に有害な成分が健康食品に混ざっていたという。嫌なタイミングだと思いながら画面に目をやると、そこに移っていたのは緑の文字が印字された銀色の小袋。彼女が私に勧めた、あのサプリメントだった。

 以前から一部の週刊誌では取り上げられていたとかニュースキャスターが淀みなく話し続ける言葉は、私の耳を右から左へと淀みなく流れていった。

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