第7話
下卑た笑い声に、暗闇をさまよっていた私の意識は引き戻される。全身に纏わりつく気怠さに身を捩ると、頭に脈打つような痛みを感じて情けない声が歯の隙間から漏れた。
「おはよう、よく眠れた? といってもまだ今日の夜にもなってないけどね」
耳馴染みのある軽薄な声に私の気怠さや痛みが一瞬で吹っ飛んだ。声がした方に目を凝らせばあのお兄さんが少し遠巻きに、何事もなかったとでも言うように笑顔でこちらを見つめていた。けれど、お兄さんの周りには柄の悪い――あの酒場で見かけたならず者たちによく似た風貌の男が数人いて、お兄さんの話は本当だったのだと頭に血が昇っていくのがわかった。私が起きる今の今まで仲良く囲んで話でもしていたのだろう。
「あ、あなた……!」
弾むように体を起こして身を乗り出そうとしたところで首に食い込んだ何かに引かれ叶わなかった。それどころか身を乗り出したせいか更にぎちと音を立てて絞まったそれに苦しさを覚え、緩めようとしたが手足は後ろでひとまとめに縛られているらしくもぞもぞと手首から先を揺らすことしかできない。力づくで引き抜くことはできないか、と引っ張ろうとしたところで右の手首に痛みが走り体が跳ねた。思わず細い悲鳴をあげるほどの痛みに血の気が引き冷や汗が噴き出す。
「っは、く……!」
「おうおう、あんまり暴れるとどんどん首が絞まるぞ。死にたくなきゃ大人しくしとけ。まあ、死体になってもそれなりに需要はあるだろうから構わないけどな」
痛みに悶えたせいで首の何かがよりきつく絞まったらしく、私は口をわななかせながら息を求めて身を捩り喘ぐが絞まっていく一方だった。
見かねたのかお兄さんはずりずりと膝で歩いて私の側に立つと首を縛る紐か何かを緩める。指一本分くらいの隙間ができて、私はようやく息苦しさから解放された。溺れた時のように必死に息を取り込もうとする私へお兄さんは細めた目を向ける。
「大人しくしてた方がいいんじゃない? 酔いもまだ残ってるでしょ?」
「うっ、うう……」
あまりの情けなさと痛みに目に涙の薄い膜ができた。きっとあのまま放置されていれば息が止まり、じわじわと苦しみながら死んでいたかもしれない。自分の生死が完全に彼らの手に委ねられているのが悔しくて仕方なかった。泣くのを堪えるため歯を食いしばり、顔を地面に擦り付けて違和感に気づく。
――額当てがない。
当然そうなるだろうと思ったが、あれも私にはなくてはならないものだ。あれがなくては私は魔法が使えない。体質的なものらしく、あの額当てが魔力の放出を補助してくれてやっと魔法が使えるようになるのだ。私のためだけに作ってくれた世界で唯一のもの。それすらも私から奪うなんて、本当に許せない。
顔をわずかにずらして私はお兄さんを睨みつけた。目を糸のように細めてニコニコとしているが私の視線には気付いているはずだ。お兄さんを睨みつけたまま、私は殆どありもしないだろう打開策を必死に考えていた。魔法が使えず、手足も拘束された状況でいったい何が出来るというのだろう。それでも、あがくことなく諦めてしまいたくなかった。
突然、誰かが私の長い後ろ髪の房を引っ張り上げる。
「い、痛い……っ! やめてください!」
体重の殆どが髪の一房に乗り顔が歪む。私は吠えたてながらやめるように訴えた。けれど、そんな反応も彼らは楽しんでいるようで、下卑た笑みを浮かべるだけでやめてくれそうにもない。暴れるとより痛むので私は大人しく釣られるがまま体を持ち上げざるを得ない。
「あん時も思ったけど、やっぱ可愛い顔だよなあ。こいつは高く売れるぞ」
私の髪を掴みながら男の一人が顔を寄せてくる。昼間にもそんなことを言ってる男がいた気がするので、ひょっとしたら同一人物なのかもしれない。湿った息がかかり、私は目をつぶって顔を背ける。
「そしたら売る前に色々と仕込んでやらねえと、なあ?」
会話の内容を理解するまでもなく彼らがいやらしいことを指して言っているのは声色で分かった。勇者さまがそういうことを言ってくる時と似た声色だからだ。
「ほら、水が欲しいか? 上手におねだりできたらくれてやるぞ?」
顔の横に木でできた杯が押し付けられる。ちゃぷんという小さな音が耳に響いて私は唾を飲み込む。喉の渇きは確かにあるがそんなことを言われながら差し出されたものに飛びつくほど私は自尊心を失っていない。
「結構です!」
男の顔を睨みつける。睨みつけるほどに男たちはニヤニヤとした笑みを深いものにするのが腹立たしかった。
「へへ……そんなこと言って、すぐに犬みたいに涎垂らしておねだりするようになるけどな」
「まあまあ。でもかわいそうだから水くらい飲ましてやろうよ」
お兄さんは男の下品な言葉をまあまあと言って諌め、かわいそうなどと言ったがどう考えても本心からの言葉ではないだろう。
私の前に立っていた男を手で軽く押しのけると、男はそこをあっさりと譲る。そうしておもむろにお兄さんは密着するほど体を寄せてきた。何をするつもりなのかさっぱり分からなくて私は恐怖を覚える。
「ほら、顔あげて」
お兄さんは声色も表情もどれ一つと変えずに、私の髪を下に向かって強く引っ張って無理やり顔を上に向けさせた。痛みに思わず声を上げかけた瞬間を狙い、親指を差し込み無理やり歯をこじ開けて私の口を大きく固定する。そうして私の口へ目掛け、お兄さんは男が持っていたはずの杯を手に持ちゆっくりと見せつけるように傾けた。
「っ……! げほ、がはっ……!」
顔を背けることもできず水を喉の奥に直接注ぎ込まれ、反射的に吐き出そうと体が反応する。咳き込んだ際に指を思い切り噛んだ気がするのにそれでも杯を傾ける手は止まらず、その殆どが私の口から吐き出され――あるいは口から外れて――顔から体までびしゃびしゃに濡らしていく。杯の口が完全に下を向くまでそれは続き、ようやく解放されると私は弓なりに背を丸めて思い切り咳き込んだ。咳き込みすぎて思わず胃の中のものを吐き出してしまったが、それでもなかなか咳は止まらなかった。
吐き出したものの中で浅い息をして伏せっていると体を抱き起こされた。お兄さんに力が抜けきった体を支えられて、頬にそっと手が添えられる。
「ねえ、まだ水飲み足りないんじゃない? 結構こぼしちゃったもんね?」
お兄さんは目を見開いたまま口元だけは笑顔を貼りつけて恐ろしいことを告げてくる。あんなの二度も味わいたくなくて私は必死に首を振った。
「だ……大丈夫です、十分です」
「本当?」
「ほ、本当です……!」
お兄さんへの感情が完全に恐怖で塗りつぶされた私は覗き込んできた彼のつり上がった青い目を見つめて何度も頷く。
なら良かった、と糸のように目を細めて笑ったので私もそれに合わせて安堵の笑みを浮かべた。途端、体を突き放されて私は男たちの間で尻餅をつく。飛んできた私の体を受け止めた男たちもニヤニヤと笑顔を浮かべており、私は訳もわからず笑顔を保ちながら恐怖に震えていた。
「じゃあそろそろ移動しようか? ずっとこんなとこにいてもしょうがないからね」
どこへ移動するかも分からないのに私はまた何度も頷く。意にそぐわないことをすれば酷いことをされると学習してしまった私に拒否権はなかった。
手足の拘束が解かれる時に私は手首の痛みに身構えたが、思いの外丁寧に紐を切ってくれたおかげか飛び上がるほどの痛みに襲われることはなかった。次いで、二の腕を持たれて立つように促されるが首の紐は依然として繋がれたままで、紐の先はお兄さんの手中に収められていた。拘束が減ったおかげで逃げだす機会が増えた、という淡い希望を抱く気持ちには到底至らなかった。それでも男たちは私の周りを厳重に取り囲むようにして立ち、紐を持って先に歩き出したお兄さんに続く。お兄さんはこの男たちよりも立場が上なんだろうか、と思ったがそんなこと今はどうでもいいなとすぐに思考を手放した。
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