第5話
カラカラと賑やかな軽い音を立てて扉が開く。その音に反応してカウンター奥にいた店主らしき男性が顔を上げた。
「どうも、ちょっと借りてくよ」
「お好きに」
あのお兄さんはこの場所を馴染みの喫茶店と言っていたが余程気が知れているのだろう。店主と短い言葉を交わすと私を連れて、奥まった席へと向かう。店主の人は黙々と手元のグラスを布巾で磨いていて、私を気にしてる素振りはない。私の視線に気づいて顔をあげたものの一瞬目が合っただけですぐに手元へ顔を向けてしまった。店の一番奥は板で間仕切りされており、縦に割った丸太を組んだだけのシンプルなベンチが二つ向かい合っていて、同じように丸太を割っただけのテーブルがそこにあった。私はお兄さんの助けを借りながらベンチへと腰掛ける。
「すみません、ここまで肩を貸していただいて」
「気にすることじゃないよ。怪我の具合はどう?」
そう言うとお兄さんは目の前でしゃがみ、様子を伺おうと私の顔を覗き込んできたので私は反射的に顔を逸らしてしまった。視線をまじまじと浴びるのが苦手なのもあるが、先程の三人組のならず者たちに物品のごとく扱われたことをつい思い出してしまったのだ。
横目で膝元の怪我に視線をやる。土と血で赤黒く汚れたそこは流血はだいぶ収まっているものの未だに生々しく赤い光りを反射している。酷い擦過傷ではあるが浅い傷なので治すのは容易だろうと判断する。それよりも右手首の痛みの方が気になる。疼くような痛さがどんどん増しているので手袋を外して確認するのが少し怖い。
「そうですね……、少し痛みますけどこれくらい軽いものなら自分で治せると思います。ちょっと疲れてしまったので休んでからにしますが……」
「たしか魔法って言ってたよね。すごいなぁ。俺、魔法使いに会うの初めてだよ」
それを聞いて事情を説明する時についつい魔法のことを口にしてしまったのを思い出した。普段から大杖を背負っているのでバレバレだろうが、自分からそうであると名乗ったり人前で使ったりすることはあまりないのでこんな風に正面から好奇心を向けられることに慣れていない。
「大したものじゃないですよ」
お決まりの言葉を言って閉口する。そっけない返事だが、痛さとだるさで気を遣う気力もあまりなかったのだ。しかし、お兄さんは容赦なく話を続けようとする。
「やっぱり魔法を使うと疲れるものなの?」
「いえ、そういうわけではないのですが、……いつもより強く魔力を込めたので身体への負担が大きかったのかもしれません」
「ふうん、そういう感じなんだ」
しばらくそんなやり取りを交わしていたが、話が尽きたのかお兄さんは不意に立ち上がった。追うように見上げると目があった。私が不安そうな顔をしていたのか、お兄さんはキュッと引き結んだように笑う。つられて私も口元に弧を浮かべながら、なんだかその笑顔は猫や狐の顔によく似ているなと感じた。
「こっちで手当てできそうなものがないか聞いてくるね」
「すみません、ありがとうございます」
手持ち無沙汰の時間を与えられて私はついつい勇者さまのことを思い馳せてしまった。今頃、何をしているのだろう。いや、分かっている。女性の方とそういう行為に至っているのだろう。そういう職業の人をお金で買うと言っていたから合意の上で正当性のある行為だ。勇者さまの言う通り、私に口を出す権利はない。けれど、という言葉が浮かぶがそれに続く言葉を私は形にできない。言葉にならないモヤモヤだけが積もり、自分の心に影が差していく気がして頭を振ってそれ以上考えるのをやめることにした。
おまたせ、と言ってお兄さんはトレーに何やら色々なものを乗せて帰ってきた。真っ白な布巾を何枚かと水を張った小さなたらい、消毒用の小瓶や包帯。それらが乗ったトレーを傍らに置き、お兄さんは再び目の前に膝をついてしゃがむ。
「あの、」
「いいからいいから、動かないでじっとしてて」
自分で手当てします、と言おうとしたところを手で制するとお兄さんはテキパキ手当ての準備を進める。布巾に水を含ませ軽く絞り、血や砂で汚れた私の膝を丁寧に拭い始める。
「あーあ、痛そう……。よく我慢してられたね」
傷に触れるたびに鋭い痛みに襲われて歯をくいしばる。でも、もっと酷い傷を負って痛みで意識を失った経験はある。私は勇者さまを守り癒す役割を担っているというのに、その時は結局勇者さまに庇われてひどい怪我を負わせてしまった。これはまだ耐えられる怪我だけどやっぱり痛いものは痛くて涙が滲む。みるみるうちに白い布巾が赤や黒に染まっていき、それをたらいで綺麗に濯ぐと再び他の砂汚れを拭っていく。細かな擦り傷でもできてるのか、顔を拭われた時にもわずかな痛みが走った。
「うーん、痕にならないといいけど」
「あとで魔法で治しますし、大丈夫ですよ」
「魔法……。魔法で、ねえ」
お兄さんはぼやくように私の言葉を反復して、手元で消毒液を綿に含ませている。直接目にしていないからきっと魔法で綺麗に治っていく様子が想像つかないのだろう。元気だったら実演してみせるのに、と心の中でひとりごちながら消毒液が傷口に沁みていく痛みをやり過ごした。
傷の手当が落ち着いたところでお兄さんは手当の道具が乗ったトレーを持ってカウンターの方へと向かったと思えば、今度は飲み物の入ったグラスを持って帰ってきた。
「助けてもらったお礼にどうぞ」
「いえそんな、手当までしていただいたのに」
「いいよいいよ。それに貰えるものは貰っとかなきゃ損だよ?」
濁りのある濃い黄色の液体からは甘酸っぱい香りがしていて、喉の渇きを自覚させられる。せっかくの好意を無碍にすることもできないと思い、グラスをおそるおそる傾けると様々な果物の風味豊かな味が口いっぱいに広がって、その多幸感に思わず顔が緩んでしまった。
「あはは、そんなに美味しい?」
「はい、とても!」
そんなに顔に出ていたのかな、とちょっと恥ずかしくなったものの美味しいことに変わりない。二口目を煽ったところでベンチに腰掛け壁に背中を預けていたお兄さんがテーブルに肘をついて体をせり出す。
「それで、どうしてぶつかっちゃったのか聞いてもいいかな?」
言葉に詰まる。答えられないわけではないが、自分で招いた騒ぎだったこともあってなんとなく素直に打ち明けるのは気まずい。
「人に追われてしまいまして、何故そうなったのかは話せば長くなるんですが……」
「嫌じゃなければ聞かせてほしいな」
柔和な表情を浮かべて私の返答を待つ姿勢に嫌な気分は湧かなかった。聞いてもらうのも悪くないかもしれない、という思いがふつりと湧いた。話してみたら感情の整理がつくということを見聞きしたことがある。大してありもしない唾を飲みこんで、私は半ば自分のために話を切り出した。
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