7.短夜

 あの日の僕らにこんな笑顔はなかった。



 家を出て、海につくまでのほとんどの時間、僕らは無言だった。ただ、自転車の車輪が回る音と風の音だけが僕らと共に走る。


 漕いで、漕いで、時々降りて自転車を引いては、また漕いで、着くまでひたすらひたすら漕いで。


 電車なら2時間。バイクなら2時間半。でも自転車なら、時々降りて押した時間も含めて7時間半。


 着いたときには疾うに日は落ち、目の前には夜空との境目もわからないような真っ黒な海が広がっていた。


 砂浜へ行ける階段を見つけて、降りる。


『暗いから気を付け……うおっ』


 ユイに気をそらした瞬間、階段に積もった砂に足を滑らせて、転んだ。階段に尻餅をつき、ついでにその勢いのままずるずると下の段まで滑り落ちる。


『うわ、大丈夫?』

『……なんとか』


 駆け足で降りてくるユイは足を滑らせる様子もなく、足腰の鍛え方の違いを如実に見せつけられた。


 気を取り直し、波打ち際まで近づいてみる。思い付きで来たからビーチサンダルなんて持ってきているはずもなく、さすがに運動靴が濡れるのは嫌なので、二人で波の届かないギリギリの場所でしゃがんでみる。


 漕いで漕いで熱くなった体に時折強く吹く海風が心地よい。ユイも僕の隣に腰を下ろす。


 海に来たからと言って傷付いた様子のユイが急激に元気になるなんて、もちろんそんなはずはなく。ただ非日常的な光景に、少しでも気が張れてくれれば良いと思った。それから僕らは何を話すでもなく、真っ黒な海を見つめていた。


 20分か、30分か、はたまた1時間以上か。ずいぶんと長い間そうしていて、少し風が肌寒くなってきた頃。


『あの、さ』


 ユイが僕を振り返る。


『ごめんね、心配かけて……ちょっと、部活で辛いことあってさ、取り乱しちゃったんだけど……ハジメのお陰で、もう、大丈夫だから』


 にこり、とユイはわざとらしい笑みを浮かべる。


 僕らは生まれたときから一緒だった。だからこそ、分からないはずがなかった。彼女の強がりを見抜けないはずがなかった。


『話してはくれないわけ?』


 大体の想像はついている。けれどできれば彼女に話してほしい。話すことで、少しでも楽になってほしい。なのに姉は困ったように眉を寄せる。


『大丈夫だから』


 大丈夫、と、全然大丈夫そうじゃない顔で言う。


 海を見る。さざめく並みが町の明かりを反射している。


 ふと、脳裏にアイデアが思い浮かぶ。


『じゃあ思いの丈を海に向かって叫んでみるとか?』

『……青春映画かよ』


 アイデアはすげなく一蹴された。


 だめかぁ、と砂浜に視線を下ろす。どうしたら、姉は笑ってくれるのか。


 不意に強く風が舞って、背中に何かが当たった。振り向くと、誰かが忘れていったのであろうボールがあって、何となしにそれを手に取る。


 ちょうどバレーボールくらいのサイズで、僕は砂を払ってポンポンとオーバーハンドでドリブルする。しかしすぐに取り零してしまい、砂浜に転がった。


 無言の姉の視線が痛い。


『……しょうがないだろ。ブランクあるし、風もあるし』


 何も言われてはいないけど、何となく言い訳をする。


 ユイは黙ったまま落ちたボールを拾い上げて、トントンとリズムよくドリブルする。アンダーハンドとオーバーハンドを使い分け、体の芯はブレず、海風に泳ぐボールの真下に確実に入る。


『さすが、上手だな』


 7年近くやって来ただけあるなぁ、と言葉に漏らすと、ユイはボールを上げる手を止めて僕を振り返った。


『……上手かな』

『上手だろ、さっきの僕の姿をもう忘れたか』

『上手、だよねぇ……うん、そうだよ。私、上手なんだよ』


 突然の自画自賛に、頷きつつ内心首をかしげていると、ユイはくるりと海に背を向けた。

ボールを高く放り投げ、走り出す。


 腕を大きく振り、伸び上がる。足が砂浜を離れた。


 上がったボールは夜の暗さに紛れてもう見えず、暗い夜の宙にユイだけが白く浮かんで見える。


 ユイはボールがどこに落ちてくるのか分かっているかのように、迷いなく真っ直ぐに腕を振り抜いた。


 破裂にも似た打撃音の後、ボールは力強く風を切る。次の瞬間には防波堤にぶち当たり、鈍い音を立てて大きくバウンドした。


 そんなボールの行く末を見たユイは、くるりと振り向いて海に向かって大きく息を吸い込む。


『皆大っっ嫌い!! バーーーーーーーカ!!』


 ユイは海に向かってあらんかぎりの声で罵倒した。


 言い出したのは僕なのに、あまりの声の大きさにビックリして彼女を見つめていたら、彼女の顔が僕を振り向く。


『青春映画も馬鹿に出来ないね』


 海に来て、彼女は初めて彼女らしい、本当の笑みを浮かべた。


 僕は腰をあげ、彼女の前に立った。


 彼女の眉が、少しずつ寄っていく。笑う彼女の両の目に、じわじわと涙が溜まっていき、決壊して溢れてしまいそうだった。溢れてほしくないなぁと思いながらユイの頭を撫でる。


『例えユイが大嫌いでも、僕はユイが大好きだよ』


 誰よりも大事だよ、と言葉を重ねると、笑った形の彼女の口が、ひきつるように歪んだ。キュッと眉が寄り、耐えるように目を細める。


『…………そんなの、私だってハジメのこと大好きだよ……』


 背に手を回して、ぎゅっ、と抱きついてくる彼女に、僕も頭を撫でる手とは反対の手を彼女の背に回した。


 全く同じ顔。全く同じ遺伝子。身長だって同じで、けれど彼女はこんなにも小さい。小さくて、繊細で、か弱い。


『僕達両想いだね』


 僕はなるべくなるべくいつもの通りを意識して、彼女に笑いかける。


『僕としては、好きな子の心配は出来るだけさせて欲しいな、なんて思うんですけど』


 お願い、と言うと姉は少しの間沈黙して、肩に頭をすり付けるようにして頷いた。


 僕らは海を正面に、隣り合って砂浜に座り直す。


『……ズルいってね、言われちゃったの。バレー部の先輩に』


 膝に顔を埋めたユイは、ポツリポツリと話し始める。


『私は女の子じゃないから、女子バレー部にいるのはズルいんだって。女の子じゃないから、女の子よりバレーが強いのは当たり前だって』

『そうだったんだ』

『最初は先輩も大会前でイライラしているんだって、そう思ったんだ。だから言われた言葉は悲しかったけど、流そうとしたの。けどね、周りを見たら誰も私の味方はいなかったよ。皆気まずそうで、だけど私の味方じゃないって目をしてた』


 声が、震えている。膝を抱える手も。


『なんか、それ見た途端に面倒になっちゃって。だって、皆が今までずっと私の事少なからずそう思っていたんだなって、気付いちゃったんだもん』


 裏返る声に、僕はゆっくりと丸まる彼女の背中をさする。


 嗚呼、と思う。嗚呼。


 僕はずっと、恐れていた。僕たちの世界に【男女別】の概念が訪れた、中学一年生のあのときから。


 誰かが【彼女】を否定するこの時を、ずっとずっと恐れていて、そんな未来は来なければ良いのにと願っていた。


 儚くも僕の願いは天には届かなかったわけだけど。


『バカな先輩とチームメイトだな』


 僕は優しい口調を努めて出す。


『バレーの強さも上手さも、ユイの努力の結果だよ』


 撫でる手とは反対の手で、強く、強く、拳を握る。じゃなかったら彼女を置いて怒りに取り乱してしまいそうだった。


 全部、彼女の努力だ。全部。朝誰よりも早く練習をはじめて、毎日朝夕ランニングをして、家でも絶対にストレッチと筋トレは欠かさない。彼女の誉められてしかるべき、努力の賜物だ。


 そうじゃなかったら、僕はとっくに彼女と同じくらい強くなっていたはずじゃないか。


 だというのに、本来は手本と仰ぐべき先輩が、共に走るべきチームメイトが、彼女の努力を否定するなよ、と、顔も知らない【先輩】や【皆】に詰めよってやりたいその気持ちを、強い理性をもってやり過ごす。


 一番辛いのはユイなのだと、何度だって胸の内で復唱する。


『私って、やっぱり女の子じゃないのかな。でも、男の子でもないんだよ? じゃあ私は一体何なのかな』

『ユイは女の子だよ』


 よく笑って、よく動く。美しくて愛しい、僕の片割れであり、姉。


『僕らはちょっとそっくりすぎただけだよ』


 彼女は僕の双子の姉。僕は彼女の双子の弟。僕達は一卵性双生児。


 彼女と僕の細胞には何もかも全く同じ遺伝子で構成された、全く同じ染色体が収まっている。何もかも。【性決定染色体】も含めて、何もかもだ。


 遺伝子が性別を決める以上、男女の一卵性双生児は有り得ない。僕らは本来有り得なかったはずの姉弟。


 それがこうして有り得ているのは、彼女はY染色体<男性発現性染色体>を持っていながら、それがその身に作用しなかったから。


 体も心も女性でありながら、遺伝子だけが男性である。そんな彼女の在り方を、無粋な研究者は【完全型アンドロゲン不応症】と呼んだ。


『今までは……私はちょっとだけ他人とは違うけど、そんな事はどうでも良い事だって。個性みたいなものだって。でも、違ったみたい。皆にとっては男と女の枠は凄く重要で、私みたいに中途半端だとそこには入れて貰えないんだって』


 濡れる彼女の声に、胸を締め付けられる。僕の目の前まで、ゆらりとボヤける。


『私もちゃんと生まれていれば良かった……本当に、ハジメと全部おんなじにさ』

『ちゃんとって何だよ。もうちゃんと、ユイはユイとして生まれてるじゃん』


 ユイが膝から顔をあげて、下手くそな笑みを浮かべた。その頬は涙に濡れていて、月明かりを反してキラキラと光った。


『【皆】はそれじゃあダメなんだってさ』


 皆なんて知らない。ユイを泣かせる【皆】なんて、どうでも良い。


『私、この先もどこにも入れないのかな。何だか急に一人ぼっちになったみたい』

『僕がいるだろ』


 ユイの掌に僕の掌を重ねる。


『僕がいる。だから、ユイは一人ぼっちになんて絶対にならない』


 【男女別】が到来してから、ずっとずっと考えていた。男とは何か。女とは何か。


 結局いくら考えたところで僕にとっては子孫を残す時に役割が違う程度にしか考えられなかった。


 だって馬鹿馬鹿しいじゃないか。


 中学に上がった途端に体育や部活では分けられて、異性で仲良くしていたらクラスメートから勘ぐられる。姉弟の場合は気持ち悪がられる。


 男は活発だと好感が持たれて女は過ぎると嫌煙されて、男が愛らしいものを好きだと遠巻きに見られて、女が筋肉つけてたら可愛いげがないらしい。


 全部が全部、馬鹿馬鹿しい。


 そう思うのに、先生達はこぞって『あなた達は全く別の生き物ですよ』と繰り返す。


 小学生時代の、【男女】が無かったときの方が、僕らは自由に生きていた。


『どんな形に生まれようが僕は僕でユイはユイだ。【皆】がユイを枠の外に追いやるって言うなら、そんな枠なんてこっちから払い下げてやろう。下らない縛りは放り投げて、僕らは今から二人ぼっちだよ』


 目に見えもしない二重螺旋が、一体僕らの何を決められるのだ。


『二人ぼっちでどうするの?』


 ポケットを探ってハンカチを取り出す。濡れる彼女の頬をそっと拭った。


『好きなことをしよう。何に縛られる必要もないし、縛られている人の目を気にする必要もない。……まあバレーには人数が足りないんだけど……でも二人で出来る事なら、何でもしよう』

『……なんだかそれ、アダムとイヴみたい』

ユイが僕のハンカチをスルリと取って、僕の頬に当てる。

『うん、そう。そうだね。楽園にいたアダムとイヴみたいに』


 ユイが海に目を戻す。動いた拍子に耳からはらはらと黒髪が落ちて、その間から垣間見えた彼女は穏やかに笑っていた。


『良いよ、私達は二人ぼっちのアダムとイヴね。一緒にリンゴを食べる前のエデンに帰ろうか』


 視線をあげたユイが、あ、と声をあげる。天を指差して僕を振り返った。


『見て』


 彼女の指差す先を見上げる。そこには満天に星が広がっていた。


『気付かなかったなぁ』

『気付かなかったねぇ』


 下ばかり見ていて気付かなかった。


 僕達は顔を見合わせて、ふふふと笑い合う。


 笑いあって、星を眺めて、僕らはいつの間にか抱き合いながら眠っていた。

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