6.海

 眼前に青い海が広がる。


「わー、着いた!」


 浜辺に着いて、彼女は波打ち際まで走り寄る。バイクをパーキングに停めた僕も、彼女の後を追った。


「着いた……着けた……生きてる……」


 初めて彼女の運転を知ったが、恐らくこれが最初で最後になるであろう。何故法定速度なのに車体があんなに浮いたのか。何故カーブであんなに傾いたのか。


 彼女の運動神経がなければ死んでいた。いや、彼女の運動神経がこの事態を引き起こしたのか。


 とかく嫌に疲れたと思いながらため息をついていると、強い力で腕を引かれる。先に行っていたはずのユイが、僕の腕をつかんで海を指差した。


「ほらハジメ、海!海!何俯いてんの、海見て海!」

「はいはい見てる見てる」


 顔を上げれば、白い砂浜と、空の先まで広がる青い海。遊泳区域ではないからか、僕らの他には誰もいない。


 ユイに腕を引かれて波打ち際の側まで寄る。ユイは靴をポイと脱ぎ捨てて、寄る波に足を浸す。


「あはは、気持ちいー」


 パシャパシャと波を蹴りながら歩き回るユイに、我に返った僕は慌ててリュックからビーチサンダルを出す。


「貝殻で足切るぞ、ほら」

「はーい」


 僕もサンダルに履き替えて、ズボンの裾を極限までまくる。黒い砂浜に足を進めると、打ち寄せて冷たく撫でる波が確かに気持ちいい。


「ありがと。やっぱりハジメは素敵な彼氏さんだねぇ」

「だからそうだって言ってんだろ。精々惜しめよ」

「惜しいよ、もちろん」


 未練も後悔も無さそうな笑顔で、そんなことを言う。全く、酷い彼女だ。


「惜しむべくー、恋人っぽい事もしておこうか」


 そう言うと、ユイはぐっぐっと軽く屈伸をする。アキレス腱を伸ばす。ふくらはぎを伸ばす。嫌な予感がする。


 顔を上げたユイは向日葵のように明るい、満面の笑みを浮かべた。


「うふふー、捕まえてごらん!」


 言うや否や、ユイは踵を返して走り出した。そう、走り出した。スキップじゃない、全力疾走。一瞬で後ろ姿が遠ざかる。


「え、ま、ちょ!?」


 一泊遅れて意図を察し、追いかける。だが、その一瞬が命取りで、伸ばした腕は彼女に届かない。足に絡む波も、沈む砂浜も、ビーチサンダルも、何もかもが走りにくい。それでも懸命に走る。走る、が。


「おほほほほほほほほー」


 高笑いが遠ざかっていく。ダメだ、もはや追い付けない。


 足を止め、ぜえぜえと息を切らす。何故このバッドコンディションであの速度を出せるのか。本当に彼女の細胞は僕と同じ遺伝子を持っているのか。とりとめのないことを考えながら息を整えていると、ふと違和感に気づいた。


「あははははははははー」


 何故か遠ざかったはずの高笑いが近づいてくる。嫌な予感、再来。


 顔を上げると笑顔のユイが全速力でこちらに走り寄って来る。可愛い恋人、なのは差し置いて、172センチが正面から全力疾走で向かってくるのは普通に怖い。


「く、来るなあああああああああ!」


 今度は僕が踵を返して逃げ出した。


「あはは、待てよぉコイツぅ!」


 束の間の抵抗むなしく、一瞬にして捕まった僕の腰にユイの腕が回る。


「ぐぇっ!」

「つーかまーえた」


 思わぬ力によろけたが、何とか踏ん張って転ぶのだけは阻止する。後ろを振り向けば、はぁはぁと息を切らせながらも満足そうな笑みを浮かべる恋人。


「これの、どこが、恋人らしいって……?」

「砂浜で追いかけっこはドリームでしょ」

「こんなの、ベタな恋愛映画でもやんないって……ハハ、ハ」

「ん、ひひひ」


 安直で、馬鹿らしくて、可笑しくて、僕らはくっついたまま腹を抱えて笑いあった。

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