5.鉄砲雨
暫く走っていると、急に雲行きが怪しくなる。慌てて雨宿りできるところを探すと、ちょうど少し行ったところにバス停が見えた。
ポツポツとヘルメットに大粒の雨が跳ねるのを感じながら、滑り込むように屋根の下に入る。その数秒後に、ザッ、とバケツをひっくり返したような俄か雨が降り注いだ。
「あっぶなー。でも多分これすぐ行くよね」
「多分。休憩がてら止むの待とう」
ユイは頷いて、リュックの中で生温くなった葡萄ジュースを出す。一口二口恵んで貰いながら、バス停のベンチで雨をぼんやりと眺める。
雨は嫌いだ。彼女の涙を思い出す。
ザァザァと、頭の奥に耳鳴りのように響く雨の音は、目の前のそれか、記憶のそれか。
「また悲しいこと考えてる」
僕の右手を、ユイが握った。ユイを見れば、何もかもお見通しだよ、と言わんばかりに彼女が微笑む。
「さよならするために思い出しているんだよ」
「そう?」
じゃあ仕方ないなぁ、と言って、ユイは視線を正面に──雨に戻す。ユイの黒い瞳が揺れる。
彼女もきっと思い出している。
彼女の終わりの日のことを。僕らの始まりの日のことを。
ザァザァと雨が降る。
***
5年前。高校2年の夏休み。クーラーの効いた自室。ザァザァと夕立が五月蝿くて、集中が欠けてしまった僕は宿題の問題集を閉じた。
自室を出て、特に意味もなく1階に降りた。両親はまだ仕事で帰っておらず、姉のユイは女子バレーボール部の練習に行っていた。家に僕一人。夏休み折り返しを目の前にして、僕はあまりに暇だった。
僕もまだバレーボールを続けていたらもう少し充実した夏休みを送れたのかな、とは思わなくもなかった。だが長くやっていた割に上達の遅かった僕は公式試合では万年ベンチ暖め係だったし、何より中学生になって『男女別』という概念が到来した事で姉と試合ができなくなった事が詰まらなかったのだから仕方ない。
一方僕の真似をして始めたはずのユイはあっという間にバレーボールに夢中になり、またメキメキと上達し、高校ではミドルブロッカーとしてレギュラーにも選ばれていた。
いつだってユイは練習で忙しかったので、結局一緒にいる時間が減った事は僕にとっては残念なことではあったが、バレーをしながら楽しそうに笑う彼女の姿を見るのが心底好きだったから、嫌ではなかった。
廊下のカレンダーを見て、次の試合は来月の春高かな、なんて考えていたら、ガチャガチャと玄関から音がして、ドアが勢い良く開いた。
家族が帰ってくるにはまだ早い時間で、驚いて見に行けば、ずぶ濡れの姉が酷い顔をして玄関に立っていた。
『え、ユイ!? 何で、ちょ、風邪引く!』
慌てて洗面所からバスタオルを引っ張り出していると、乱暴に靴を脱ぎ捨てたユイが大股でこちらに歩み寄り、その勢いのまま僕に抱きついてきた。
思わぬ彼女の行動と勢いに僕は支えきることができず、尻餅をついて彼女を受け止める。受け止めたユイの体は少し震えていて、訳は分からなかったがとりあえずバスタオルを被せた。
『どうした? 何かあったか?』
濡れた体を拭いながら声をかけるが、彼女は何も答えない。どうしたものかと思いながら彼女の頭をタオル越しに撫でていると、やがてゆっくりと顔をあげた彼女は小さく呟いた。
『もう、部活やめる』
震えるような声だった。今にも泣き出しそうな声だった。なのに顔はずっと無表情で、それが逆に泣きたいのを必死に耐えている事を引き立てて痛々しく映った。
『なんか……男とか、女とか、よく分かんなくなっちゃった』
その言葉を聞いて、僕は姉に何が起きたのか、大体の事を察してしまった。いつか起きるかもしれないと危惧し、起きてほしくないと願ったことが、現実になってしまったのだと、理解した。
僕は彼女の体を力一杯抱き締め返して、そして必死に考えた。姉のこの悲しみを慰めるにはどうしたら良いのか、と。
けれど今まで何度この状況をシミュレーションしても、彼女を笑顔にする方法には辿り着けていなくて、僕はユイの冷たい体を擦ることしか出来ない。
そんな時、ふと壁に貼られたカレンダーが目に入った。
『海』
8月のカレンダーには、海の写真が使われていて、気付いたときには僕は言葉に出していた。
『海に、行こう』
何かを考えての発言ではなかった。
ただ何となく、海に行けば彼女が笑ってくれるのではないかと。その時の僕には根拠のないそれが名案のように思えた。
『今から海に行こうよ』
『今から!?』
『そう、今から。行こうよ』
戸惑う彼女に行こう行こうと強く押せば、ユイは暫く逡巡した後に小さく頷いた。
いつもはあまりに突拍子のないことをするのは彼女の方で、逆に僕はそれを止める側だったから驚いたのかもしれない。それとも普段はあまり主張をしない僕の思わぬ強引さに気圧されたのかもしれない。
いつもであれば、もっとはっきりと自分の意見を示すだろうに。こんなに弱り果てた姉は見たことがなかった。これ以上見ていたくなかった。
沸かした風呂に突っ込んで、新しい服に着替えて貰って、ドライヤーで髪を乾かして。
机の上に『ちょっと海行ってきます』とだけ書き置きを残して、携帯と財布だけを手にとって、僕らは家を出た。
当然高校生だった当時バイクなんて持ってはいない。無謀で無計画な僕は自転車の後ろに彼女を乗せて、雨上がりの夕暮れの道を漕ぎ出した。雨で濡れた道が、雲の切れ間から垣間見える赤い空の光で反射して、キラキラと輝いていたのが酷く印象的だった。
***
「雨、止んだね」
んー、と伸びをする彼女の声にハッとする。気付いたら雨は上がっていて、雲の間に青い空が覗いていた。見上げれば近くにまだにわか雨を降らせた暗雲が見えていたが、進行方向とは逆側だった。
「海風に押されてきたのか」
言う間にも暗雲は見る見る遠ざかっていく。海側を振り返れば、そちらは既に快晴の青空が広がっていた。
「あ、ねぇ、ちょっとだけ、ちょっとだけこのまま半袖で走りたい」
青い空にテンションが上がっているらしいユイが、ぴょこぴょこと跳ねながら道を指差す。
「危ないぞ」
「ちょっとだけー」
ねぇお願い、とわざとらしく小首を傾げるユイに、僕は溜め息を吐いた。道を見て、車が来ていないことと、目に見える危険物が無いことを確認して、もう一度溜め息を吐く。
「しょうがないな、ちょっとだけだぞ」
「やったぁ!」
諸手を挙げて喜ぶユイの笑顔が太陽の下で輝いている。その顔を見るのが、とても嬉しい。
僕も薄着のまま行こうかな、とバイクを見ると、運転席にはユイが既に股がっている。
「ヘイ乗りな!」
大いに、既視感。
しかしあんな事を思い出した後だからか、ユイの楽しそうな笑顔に勝てなくて、僕は苦笑しながら彼女の後ろに股がって腰に手を回した。
エンジンを蒸かせて発進すれば、向かいから来る風が肌を撫でて気持ちが良い。
「あぁー気持ちいい! わーたーしーはー風になるー!」
ひゃっはー、と大きな声を上げてユイがはしゃぐ。
「頼むから安全運転してくれよー」
「今の私は元号末覇者! 誰も私を止められはしない!」
思いもよらぬ物騒な言葉に内心慌てるが、走り出したバイクは止められない。運転を任せたのは軽率な判断だったかと少し後悔していると、「わぁっ」と前でユイが声を上げた。
「海だー!」
山沿いに曲がるカーブを抜け、開けた下方に広く広がる青。今回の旅の最終目的地。5年前に訪れた、僕らの思い出の地であり、始まりの地。
5年前に通った時は夜遅く、海が見えることにすら気付かなかった。海は雲間から差し込む太陽の光を照り返し、キラキラと輝いている。朝と夜とでは、こんなに印象が違ったのだなぁと、感慨深い。
「見えたってことはもう少しだね、飛ばすよー!」
「だから安全運転!!」
わはは、と笑う彼女に僕の叫びがちゃんと届いているのかは定かではない。
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