第3話 染まる桜花鱗

ゆえの身体には、桜花鱗と言われる魚の鱗が一枚生えていた。それは海底のエデンの名残だと母親から聞かされていた。丁度良く左下腹部の服に隠れる部分に存在し、清らかな魚と共に生きた証だから大事にするように教わった。

夜、入浴をしようと服を脱いで、何気なしに桜花鱗を見るとその鱗は前夜とは微妙に違う輝きを放っていた。

「?」

それはほんの些細な違いで、本人でないと気付かないようなものだった。そっと触れてみると、僅かに熱が籠っている。痛かったり、違和感を感じるほどではなかったのでその日は放っておくことにした。


風呂から上がり、髪の毛をタオルで拭いながら自室へと戻る。勉強机に置いておいたスマートホンが、チカチカと着信アリを光で告げていた。画面をタップすると、景のメッセージが届いていた。

『今日は水嶋と話せて楽しかった。ありがとな。明日は、駅で待ち合わせでいい?』

ぺこりと頭を下げる可愛らしいうさぎのキャラクターのスタンプ付きだ。景とのギャップにふっと笑いながら、返信をする。

『僕も楽しかったよ。ありがとう。駅に着く時間を教えてもらえれば、それに合わせるから。』

悩んで、ゆえが持っている中で一番可愛いスタンプを添えた。すぐに既読マークが付き、返信が来た。

『かわいいスタンプが来た。』

笑った絵文字がユーモラスだ。くくく、と笑いながらゆえもさらに画面をタップしてスマートホンを伏せた。

『朝丘もかわいいよ。おやすみ。』


翌日、午前10時。土曜日と言うこともあり駅前は行楽に向かう家族連れや、デートする恋人たち。休日を楽しむ学生で溢れていた。駅のロータリーにある小さな噴水を目印に景と待ち合わせをしている。

ベンチに腰掛けて、待っていると鳩がゆえの足元に餌を求めて集まってきた。何もないよ、と掌を広げて見せるが鳩は諦めず地面をついばんでいる。数分、足元の鳩を見つめていると、不意に鳩が飛び立った。顔を上げると、そこには景が立っていた。かぶっていたキャップのふちを持ち上げて、にっと笑っている。

「おはよ、水嶋。」

おはよう。

ゆえは口を動かして挨拶をした。景は、ほら、とゆえに手を貸してベンチから引っ張り起こした。あまりにも勢いよく引っ張られて、ゆえは景に寄り掛かるように体重を預けてしまう。

「うわ。水嶋、軽。ご飯、ちゃんと食べてる?」

景は驚きながら、ゆえの肩を支えた。姿勢を整えて、景を見る。

「昨日のかわいいって何だよ。」

こつん、と軽く小突かれて、ゆえは笑った。ポケットから小さなノートを出して、文字を書く。

ごめん。可愛かったから。

うさぎのスタンプを思い出して、吹き出してしまう。

「あれは姉貴がスタンプ送ってきたんだよ。俺の趣味じゃないけど。」

「?」

ゆえは首を傾げる。

けど、何?

「何となく、水嶋っぽかったから。」

その真意として、可愛いと言われているような気がした。口を尖らせて、変なの、とノートに書いて見せると景も笑った。

「そうだな。変だね。」

その笑顔を見ていると、まあいいかと思えるから不思議だった。


ゆえの家は住宅街の端にあった。小さな平屋建ての一軒家で、小さな庭には色鮮やかな花々が咲き誇っていた。

「綺麗な庭だね。」

母さんの自慢の庭だよ。それを聞いたら喜ぶ。

筆談で会話をし、ゆえは玄関の錠を落として家の中に入った。景も後に続く。靴箱の上にあった鈴を、ちりん、と鳴らした。それはゆえの『ただいま』の合図だったらしく、奥から車椅子に乗った女性がゆっくりと現れた。キイ、カタン、と車輪が軋む。

「おかえり、ゆえ。いらっしゃい。朝丘くんね。」

柔らかく微笑むゆえの母親は、長い栗色の髪の毛をしているおっとりとした美人だった。笑窪と目元に刻まれた笑いじわが愛らしい。ゆえは母親似だということがわかった。

「はじめまして、お邪魔します。」

会釈をするように軽くお辞儀をすると、ころころと鈴のように母親は笑う。

「かしこまらなくていいのよ。ゆえがお友達を連れてきたのは久しぶりで嬉しいの。ゆっくりしていってね。」

「ありがとうございます。」

ゆえに服の裾をくんと引っ張られる。照れくさそうに頬を紅くして、こっち、と部屋へと誘われた。

「ゆえ、あとでお茶を取りに来てね。」

母親の言葉にゆえはひらひらと手を振って応えていた。

ゆえの部屋は家の一番奥にあり、扉を開くと僅かに絵の具の香りがした。そこには今までゆえが描いたのであろう、絵画が所狭しと置かれていた。

満開の桜、飛ぶ鳥の視点から描かれた空。太陽が沈む瞬間、音がしそうな海。一面の銀世界。

「…全部、水嶋が描いたの?」

景の問いにゆえは恥ずかしそうに、こくん、と頷いた。

四季の景色を切り取った絵画は、空気まで描かれたようだった。

「俺は絵を描かないからよくはわからないけど、すごく素敵だと思う。」

ゆえは目線を横にずらし、気まずそうに、でも嬉しそうに笑った。そして、ありがとうと口を動かした。

勉強机の上には片付け終えなかった絵の具や画材が置かれている。恐らく、慌てて綺麗にしたのだろう。部屋の中心には簡易的なテーブルとクッションが二人分置かれていた。遠慮なく座って、ゆえと二人で反省文の用紙をそれぞれ取り出した。400字詰めの原稿用紙が二枚。それがノルマだった。

「反省文とか、何書けばいいんだろ。」

定型文があればいいのにね。

「それな。」

原稿用紙とノートを行ったり来たりして、会話は続く。文字はノートばかりに増えていった。

「よし。漢字使わないで、ひらがなで埋めよう。」

ようやく何を書くか、どう書くかを決めて、黙々と反省文を書いていると車輪の軋む音と控えめなノックの音が聞こえた。

「お茶請け、取りに来てくれる?」

予想した通り母親の声が響き、ゆえは立ち上がって扉を開けて出ていく。恐らくキッチンに向かったのだろう。残されたのは景と母親だった。

「えーと…、あの。庭の花、とても綺麗ですね。」

「あら、ありがとう。嬉しいわ。気を遣わせちゃったかしら。」

うふふ、と朗らかに微笑まれる。そして改めて、景と向き直った。

「朝丘くん、ゆえの友達になってくれてありがとうね。あの子、とても嬉しそうだわ。」

「そうなんですか?」

「ええ。雰囲気?空気って言うのかしら。随分と柔らかいと思うの。」

にこにこと笑う顔は、ゆえとよく似ていた。

和やかに会話を続けていると、ゆえがお茶と菓子をお盆に載せてキッチンから出てきた。景と母親を見て首を傾げている。

「ん?ゆえと朝丘くんが仲良くなってよかったなって話よ。」

さすが母親と言うべきか、何も言わずともゆえの言いたいことはわかるらしい。ゆえは顔を赤くしながら、頬をむくれさせた。

「照れなくてもいいじゃない。反省文、頑張ってねー。」

ひらひらと手を振り、車椅子を再び操って部屋を後にした。

「…朗らかなお母さんだね。」

景の感想にゆえは苦笑して応えるのだった。


反省文をようやく書き終えて、二人の時間は娯楽に移る。音楽を聴いたり、漫画雑誌を読んだり。いつしか景はうとうとと温かい陽の光を浴びて、微睡み始めた。景の長い髪の毛がさらりと肩から零れ、形のいい唇から吐息が漏れていた。

ゆえはそっとスケッチブックを取り出して、鉛筆を紙の上に滑らせた。シュ、シュ、と軽やかな音が控えめに部屋に響く。白いカーテンを一枚ずつ剥ぎ取るかのようにして、紙の中に景が現れてきた。極端に明暗をはっきりとさせたくて、鉛筆を濃く柔らかいものに持ち変える。デッサンに集中するが故に、何枚も量産し、そして周囲の変化に気付かなくなるのは悪い癖だ。

数時間にも思える数分が過ぎて、景はふと目覚めた。目をぱちぱちとさせて、一瞬、無防備な顔を見せる。恐らく、ここがどこか理解していない顔だ。

「あー…、寝てたか…。」

あくび交じりに呟いて、手を上にして伸びをする。自由にデッサンする機会を失って、少し残念に思いながらゆえはスケッチブックをぱたんと閉じたのだった。

「そろそろ帰るよ。今日はサンキューな。」

駅まで送る。

ノートに書いて見せて、二人は部屋を軽く片付けてから家を出た。

「朝丘くん、またきてね。」

母親に見送られて、景は幾度も頭を下げていた。今まで知らなかったが、家族に対して良く接

してもらうという体験はとても嬉しいものだった。特にゆえと母親だけのような母子家庭という環境だと、より心に沁みた。

帰りは、ゆえが走らせる自転車に二人乗りだった。景とゆえは風に煽られながら、ゆっくりと進む。筆談と、目配せ。読唇術と会話するすべがないために、自然、二人は無言だった。それでも静かで、満たされるような時間に感じられた。柔らかい風が二人の頬を撫で、温かい太陽の光が二人を包む。住宅街を抜けるとしばらく海岸沿いの道が続く。波間に反射した光がキラキラと輝き、瞳を刺激した。

エデンは海底にあったと母は言うが、ここも充分エデンだとゆえは思うのだ。

蒼く澄んだはてしない空。優しく身体を包み込む風。草花の香り。

地上の世界は奇跡に満ちて、美しい。

「水嶋ー。」

景が話しかけてくる。

「ここの景色って気持ちいいな。何か、すっきりするよ。」

僕もそう思うよ、と言えない代わりに自転車のベルを二回鳴らした。


駅前まで来て、人通りが増えてきたので自転車を降りる。ゆっくりと歩きながら、別れを惜しんだ。

「また月曜日、だね。」

景の言葉に、ゆえはこっくりと頷く。寂しいなあと思う。いつもは憂鬱だった月曜日が待ち遠しくなるから、本当に都合がいい。

景が改札口をくぐっていく。ゆえはその姿が見えなくなるまで見守った。

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