第2話 人形師と画家の夢。

辿り着いた美術棟の入り口の扉のノブをがちゃがちゃとひねる。扉には鍵が掛かっていた。

「うーん、鍵がないと入れないか…。」

白木を使った木造の三階建ての建物は大きく、古い。歴史を感じさせるモダンな様式だ。鍵は恐らく旧式のタイプの物だろう。

「残念だけど今日は戻ろう。」

景は扉から振り返る。ゆえはにっと笑って、ポケットを探った。

「水嶋?」

取り出したのは、入学式の時に花を胸元に着けてもらったときに使った安全ピンだ。そしてそれを変形させて、扉の鍵穴に突っ込んだ。

「…。」

訝し気にゆえの動向を見守る景に向かって、しー、とゆえは人差し指を口に当てる。再び、扉に向き直って、鍵穴に細工を施す。物の十数秒で、カチリ、と軽い音が立った。

「まさか。え、本当に?」

意図が分かって、景もまたにやりと笑った。そして再度、扉のノブを捻る。扉は難なく開いてしまった。

「水嶋、すごい!」

二人は、ぱちんとハイタッチを交わす。ゆえは景の手を取って、掌に文字を書いた。

昔、ちょっとした興味で身につけた技だよ。皆には秘密だ。

「趣味悪いなあ。犯罪だぞ、これ。」

そういう景も共犯者の顔をして笑っている。咎める気はないらしいことに、内心ほっとした。

開けることはできるけど、閉めることはできない。だから、少しだけ見学したらこの場を離れよう。

「わかった。そうしよう。」

景も頷いて、意気揚々と大きく扉を開けて二人は内部に滑り込んだ。

室内は天井が高く、大きな窓から差し込む光で明るかった。少し埃っぽく、絵の具や土の香りがした。空気の温かさにゆえが目を細めていると、景が話しかけた。

「さっきも校舎で同じようにしていたよね。俺は、それが気になって水嶋の後を追ってきたんだよ。光を浴びるのは好き?」

ゆえが頷くと、景も「俺も好きだよ」と呟いた。

「さあ、どこから見て回ろうか。」

木の廊下は歩むたびにギシギシと軋んだ。二人分の足音が静寂の中、響く。前を行く景の髪の毛が揺れた。髪型だけなら女の子に間違えそうだが、背丈や所作。雰囲気は適齢の少年らしくはつらつとしていた。体の内側から生命力の光に溢れているようだった。


景は歩きながら、様々な話をした。

季節ごとに変わる木の葉のざわめき。温かい光の柔らかい感触。温度によって違う、粘土の固さ。

「俺は将来、人形師になるのが夢なんだ。」

ゆえは首を傾げる。

「美術工芸科の立体デザインコースに所属する。水嶋は?」

体育科、進学科、普通科、そして美術工芸科がある。景はてっきり進学科かと思い違いをしていた。新入生代表はその年の成績最優秀者がなると聞いている。

あ、でも美術棟を目指していたんだっけ。

立ち止まって、景の手を取り掌に文字を書く。

僕も美術工芸科だよ。コースは、絵画。

「ああ、じゃあ同じクラスかな。改めて、よろしくだね。」

景は自身の掌に残ったゆえの指を取って、ぎゅっと握った。ゆえもまた、笑って握り返した。そして口を動かす。

よろしく。


美術棟の彫刻室、絵画アトリエを中心に回った。彫刻室のレプリカや先輩たちの作品を見て、景はひどく興奮していた。その目は爛々とし、今にも零れ落ちてしまいそうだった。

「見て、水嶋。この鎖骨から胸にかけてのライン。滑らかで、触ったら体温を孕んでそうじゃない?」

触れそうで触れない、手の動きで作品を愛しく思っていることがわかった。微笑ましく見守っていると、それに気づいた景が恥ずかしそうに照れて頬を人差し指でかいた。

「ごめん、つい魅入った。アトリエに行こう。今度は水嶋に付き合うよ。」

絵画アトリエの一角にある、もう数年前に卒業したという生徒が描いた作品があった。

淡いセピアで描かれた優し気な女性の肖像画。その柔い微笑みは、ゆえの母親に似ていると思った。この絵を見学会の折に見て、ゆえは鈴宮第一の入学を決めたのだ。

「…この絵、何となく水嶋に似てる。」

いつの間にか、隣に来ていた景がゆえに囁いた。

「光を浴びて、嬉しそうに目を細めているところ。綺麗だね。」

ゆえは自分よりも頭一つ分背の高い景を見上げた。

「栗色の髪の毛、光を編んだみたいだ。」

髪の毛の質と色は、母親譲り。猫っ毛で寝起きは酷いありさまだ。栗色も中学の時は染めているんじゃないかとよく疑われた。あまりいい思い出はない。光を編むという発想もなかった。

ゆえは口を動かす。

ありがとう、嬉しいよ。

母親を褒めてくれたようにも感じて、二倍にも二重にも嬉しかった。


美術棟を出た帰り道、桜並木を再び歩いていた。景は上機嫌に、歌を口ずさんでいる。

「―…、」

その歌は優しく春をうたっていた。伸びやかに、麗らかに景のアルトのような声がこだましていた。ゆえも心の中でうたい、ハミングをした。

ゆえの声は聞こえないはずなのに、景は桜吹雪を背にふと振り返った。そして笑う。

胸の中にも響き渡る、そんな歌だった。

校舎に近付くにつれて、他の生徒の姿や声が聞こえるようになってきた。どうやらホームルームも終わり、下校時刻らしい。そのころにはさすがに景は口を噤んでいた。先ほどとは打って変わってきゅっと唇を引き結んだ景は男のゆえから見ても格好が良く、道行く生徒たちもチラチラと視線を景に送っている。気づかない景では無さそうだが、それでも堂々と胸を張って歩いていた。ゆえは思わず立ち止って、一歩前に行く景を見つめた。気配で察したのか、景は立ち止まって不思議そうにゆえを見た。

「どうした?水嶋。」

まるで隣を歩くのが当たり前と言った風に、景は首を傾げた。大きな躊躇と僅かな期待を持って、何でもないと首を横に振って、ゆえは景の隣に立つのだった。

「皆、水嶋を見てるね。」

歩いて教室に残した荷物を取りに行きながら、景がゆえに囁くように言う。その言葉に、ゆえは驚いた。生徒たちが見ているのは自分じゃなくて景だ、と身振りで告げると景もまた驚いたようだった。

「水嶋、気付いてなかったの?」

「?」

ゆえは首を傾げる。

「俺はこんな髪型だし、まあ新入生代表も務めたから目立つのはわかるけど。一緒にいると、皆は水嶋の方に視線が行くみたいだと思った。」

そんな、まさか。

ゆえが笑うと、景は至って真面目に首を振った。

「意外と鈍感なんだな。自分の容姿に自覚は?」

景の質問の意味がわからずにいると、まあいいや、と呟かれる。そっぽを向いた景の顔が微かに赤くなっていたのに、ゆえは気付かなかった。

美術工芸科一年の教室に辿り着き、自分たちの席にあったリュックを取る。机の引き出しには何枚かのプリントと、担任教師の手書きのメモがあった。早速、職員室に呼び出された。

メモを読んで景を見ると、景もまた渋い表情をしながら「水嶋も?」と聞いてきたので、ゆえもまた頷いたのだった。

「自ら蒔いた種とはいえ、非常に面倒だね。見なかったふりする?」

ゆえは景の掌に指で文字を書く。

これ以上芽が大きくなっては刈り取るのが難しくなりそうだから、収穫しておこう。

「それもそうかあ。じゃあ、憂鬱だけど行きますか。」

景は、んー、と伸びをして。ゆえはリュックを背負いながら、教室を出たのだった。


その後、担任にしっかりサボりを叱られて、二人は反省文の用紙を持たされ開放された。


「一人だと絶対に書かないから、一緒にやらない?」

帰り道。景がゆえに提案すると、ゆえは目をぱちぱちと瞬かせた。反省文の行方は、ゆえにかかっていると言っても過言ではない。今日は金曜日。土日を使えば余裕で終えるだろうペナルティだが、その余裕こそが命取りになった。

ゆえはリュックからノートを取り出して、シャープペンを走らせた。

いいよ。どこに集まる?

「自分の家だと誘惑が多いんだよなー…。水嶋の家に行ってもいい?」

小首を傾げるゆえ。そして頷いて見せてくれた。

せまい家だけど、それでもよかったら。

ノートに書かれる文字は、少し右上がりで丸っこい。景はその文字を見て、嬉しくて笑って見せた。

「やった。じゃあ、スマホのアドレス交換しとこ。」

景が制服のポケットからスマートホンを出すと、それにつられてゆえもスマートホンを取り出した。ゆえは機械に疎いらしく操作にもたついていた。

「貸して、水嶋。」

ゆえの手元を覗き込みながらスマートホンを弄る許可を得て、景は自らのアドレスを登録した。

「はい。メッセージくれれば、俺も登録するから。」

続きをゆえに促そうと顔を上げると、思いの外近くに相手の顔があって息を呑んだ。ゆえはその挙動に気付かなかったらしく、『ありがとう』と口を動かしてスマートホンに集中してしまう。


ゆえを初めて見たのは、吹き抜けの階段で光と戯れているときだった。柔らかそうな栗色の髪の毛が光を反射させ、その白い肌をより一層際立たせていた。眩しそうに目を細めて、嬉しそうに口元には笑みを浮かべている様子は穏やかで朗らかな天使のようだと思ったと言ったら、笑われるだろうか。一瞬にして視線を釘付けになって、目が離せなかった。彼は新入生の集団から離れると、軽い足取りで教室とは反対の方向へと向かった。興味があり、好奇心で後をこっそりついて行った。ストーキングをバレた時のために、桜の花を撮影している体裁をとることにしたのだがそれが、意外な収穫を得ることになる。

彼は桜に口付けたのだ。

愛おしそうに、心を通わせているかのようなキスは景の心に深い安寧をもたらした。その美しい光景に思わず、シャッターを切っていた。


甲高い着信音と共に、スマートホンの画面にゆえからのメッセージが届いた。

『届いてますか?よろしく。』

生真面目な文体に笑みを零しながら、景もメッセージを打ち込んだ。

『届いたよ。これからよろしく。』

目の前にいながら、スマートホン越しの会話は何故か妙に照れくさかった。

土曜日の午前中に約束を取り付けて、景は電車通学だったために駅で別れた。ICカードを改札にかざして、駅舎内に入る。ふと振り向いてみると、まだゆえが見送っていてくれた。手を振ってみると、気付いたゆえもまた胸の位置に手を挙げて振り返してくれる。それが嬉しくてずっと見ていたかったが、電車の訪れを告げるアナウンスが響いたために断念した。

電車内は帰宅途中の学生でそれなりに混んでいた。景は昇降口付近に立って、流れる景色を眺めていた。移動中に音楽を聴く趣味がないため、只々、電車の揺れに身を任せる。

景色は茜色から深い青に色を変えて、ぽつぽつと白い街灯の光が星のように灯っていく。いくつもの車のライトを追い抜いて、電車は線路を辿って人々をたくさんの思いと共に目的地へと運んだ。


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