イヴとマリアの子供たち。
真崎いみ
第1話 人魚と、桜へのキス。
僕の故郷は青く澄みわたった海の中にあったらしい。
頭上を扇げば様々な種類の蒼の光がカーテン状に降り注ぎ、海草の森を小魚たちが追いかけっこをしていた。真白い砂は波紋のように広がって、指でなぞると淡く膨れ上がりふわりと舞った。虹色の泡が生まれ、ぱちん、ぱちんと弾けて消える。その海を我々は、空を飛ぶように泳いでいた。
夢のように静かで尊い、この世のエデンだと母は言った。エデンの話を終えると、母は哀しそうに目を伏せて膝の上に座る僕を優しくそっと、力強くぎゅっと抱きしめるのだった。
「ごめんね、ゆえ。」
そして、はらはらと涙を流す。その涙は真珠のように美しく、温かくも冷たく、僕の頬に落ち
た。
どうしたの、と母の頬に手を伸ばしてできるだけ優しく撫でる。その手を取って、母は握り返してくれた。
「エデンを追放されて、ゆえの声が出ないのはお母さんの所為なの。」
僕―…、水嶋ゆえは声から見放されていた。母は足が不自由で、親子二代で身体のどこかを失っていた。
だけど声が出ないだけで、ゆえは野を走り回ることができた。母が乗る車椅子も押せたし、手先の器用さを生かして料理や裁縫もこなした。生活に困ることはない。だからそんなに気に病むことはないと何度も、母に伝えていた。
大丈夫、声は無くてもいい。声で他人を傷つけることがないのは、気楽だった。
「ゆえは優しい、いい子。お母さんにはもったいないぐらいの子よ。」
僕はお母さんを選んで生まれてきたんだ。知らないの?
母の掌にくるくると円を描くように、文字を書く。
本当はね、僕にお母さんがもったいないんだよ。だから、お互い様だ。
最後ににっこり微笑んで見せると、母は涙を拭いてやっと笑ってくれるのだ。
「そうか…。お互い様なんだ。」
こっくりと元気よくゆえは頷いた。
それは優しい共犯の記憶だった。
温かい雪のように桜が舞う4月。木漏れ日が零れる道を歩くゆえがいた。灰色のブレザーに黒いセーター、紅いネクタイを初々しく締めている。靴は新しいスニーカー。真白い紐が眩しい。蒼い若葉が萌え、足元を彩る花々が可愛らしく思わずスマートホンのシャッターを切った。画面を覗き、思い通りの色が写せたことに満足して胸ポケットにスマートホンをしまう。そしてまた歩き出す。山の中間地点、白く大きい建物が見えてくる頃。ゆえと同じ制服を身に纏った男子生徒や、ミニスカートを翻す女子生徒が増えてきた。これから訪れる希望を抱いて、若人は集う。
ゆえはこの春、鈴宮第一高校の美術工芸科に進学した。
入学式は粛々と進む。校長の祝辞は長く、ゆえはうとうとと居眠りをした。隣に座る女子生徒に肩を突かれて起きると、彼女は苦笑していた。
「長いね。」
内緒話にゆえも少し笑顔を作って、頷いた。
「新入生、代表。朝丘景。」
「―…はい。」
凛とした声だった。その声に誘われて、主を見た。
青年と少年の狭間を揺れる男子生徒。自由な校風だからこそ許される、女子と同じくらい長い髪の毛を一つにくくり、横顔は凛々しい。背が高く、きっちり着込んだ制服がよく似合っていた。
最後は新入生の代表が挨拶をして式は終わった。
静寂と沈黙から解放された体育館の渡り廊下。ゆえもまた、ほっと一息つく。入学式前に発表されたクラス割りを思い出しながら、移動する。鈴宮第一高校の真ん中、吹き抜けの階段に差し掛かりゆえは眩しく目を細めた。高い天井から金色の光が差し込んで、チカチカと白い埃が舞っている。手を差し出すと光は温かく、柔らかく肌を刺激した。ぎゅっと掌を握ったり、開いたりを繰り返していたら、ゆえは新入生の大群から取り残されてしまった。
「…。」
うーん、と首を傾げながら考える。
このままサボータジュしたら、バレるだろうか。…案外、平気そうな気もする。
ゆえの悪い癖が出た。彼は自由奔放で、楽観的な性格だった。ここぞと言うとき以外、割と不真面目だったりする。
バレたら、ごめんなさいって謝ろう。
そう決めてしまうと心が軽くなって、ゆえは校舎を出た。目的地は校舎裏にある美術棟に定めた。先輩や教員の作品を見たいと思った。
校舎裏は桜並木が続く。淡く、薄い紅色に染まる花々は目に優しい。穏やかな面持ちで、ゆえは花を見つめた。
冬の厳しい寒波を耐え、生命が溢れて萌える植物たちの奇跡の季節、春。今は小さくて、風が吹けば壊れそうなほど儚い花も、いつかは力強く芽吹き、種が弾けるのだ。そういう命の営みはとても尊いと思う。
ゆえは手を伸ばし、触れた桜の木を折れない程度に引き寄せてキスをした。桜のキセキに、春の訪れに祝福をした。愛と慈しみを込めて、瞳を閉じ、その柔らかな唇で触れた。
刹那、カシャ、と小気味よい音がその場に響いた。
「!」
はっと息を呑んで、音がした方向に視線を注ぐ。そこには、驚いたように目を丸くした男子生徒がスマートホンのカメラのレンズをゆえに向けて立ちすくんでいた。淡い桜の花々に包まれて、漆黒の髪の毛が舞っている。遠目ではわからなかったが、存外背丈があった。
その人物は新入生代表を務めあげた朝丘景だった。
ゆえは向けられたカメラのレンズと先ほどの音の正体に気が付き、パクパクと酸欠の金魚のように口を開閉した。
写真、撮られた!?
顔が熱くなる。恐らくはた目には、朱に染まっていることだろう。こんな子供っぽいところを見られた上に、写真にまで収められてしまった。
「君は、」
「…っ!」
踵を返して逃げようとした瞬間、先を見越した景が一瞬素早くゆえの手首を捉えた。
「待って、逃げないで。」
ゆえの細い手首を一周してしまうほどその手は思ったよりも大きく、熱を孕んでいた。
「~―…。」
振り解くこともできず立ち止り、ゆえは瞳を伏せた。只々恥ずかしくて、目を合わすことができない。
「…桜、綺麗だね。好きなの?」
穏やかで、静かな口調。少しざらついた低音の声が鼓膜に響く。ぎゅっと目を瞑り、ゆえは頷いた。
「俺も好きだよ。温かくて、可愛らしい花だよね。…あれ?」
景が掴んだ手首をそっと引き寄せると、反対の空いた手を伸ばした。
「!」
そしてゆえの柔らかい栗色の猫っ毛についた花びらを取った。
「ほら、取れた。…そんなに怯えないで。逃げないって約束してくれるなら、手を離すから。」
ゆえは耳に髪の毛を掛けながら、様子を伺うように景を上目遣いで見た。景は優しく微笑み、小首を傾げていた。手首を掴んだ手が柔く、返事を催促するかのようにぎゅ、ぎゅ、と握られる。
「―…、…。」
肯定の意味を込めて、こくりと首を縦に振った。
「よかった。」
ほっとしたように笑って、景はゆっくりと手を離してくれた。あまりにも嬉しそうな雰囲気を醸し出されて、咄嗟に逃げようとしたゆえはいたたまれなくなってくる。
「俺は朝丘景っていうんだけど、君も新入生だよね。ネクタイの色が同じだし。」
鈴宮第一高校では学年ごとにネクタイの色が違う。一年生は赤、二年生は緑。三年生は青だ。
「名前は何て言うの?」
「、」
ゆえはしゃがんで膝をつき、落ちていた木の枝を拾って地面に名前を書いた。景も同じようにしゃがみ、ゆえの手元を覗く。
「水嶋、ゆえ?…ねえ、一つ聞いてもいい?水嶋は、声が出ないの?」
「…。」
ゆえは困ったように微笑んで、頷いた。
「そっか。残念、水嶋の声を聞いてみたかった。」
再び、地面に文字を書く。
僕も自分の声を聞いてみたかった。でも、声が出ないことは良いこともある。
「何?」
景は続きを促す。
音楽のテストの時、人前で歌わなくて済む。
ゆえがいたずらっ子のようににっと笑うと、景は目を丸くして、そして吹き出した。
「確かに。それは羨ましいな。」
くくく、と鳩のように笑う。人が笑ってくれるのは嬉しい。自分の所為でその場の空気が暗くなったときは尚更。
「ところで、水嶋。今ってホームルームの時間なんだけど、知ってる?」
ゆえはどう答えるのが正解かを考える。サボりって言ったら怒られるのだろうか。景は代表を務めるほど優等生だ。
んー、と首を捻っていると、景も真似をして首を捻る。
「ちなみに俺は、サボりですよ?」
「!」
今度は、ゆえが驚く番だった。そして、落ちていた木の枝を手に取る。
僕も、サボってここに来た。今、美術棟に向かうところ。
「あ、同じだ。」
景は立ち上がり、背伸びをする。
「じゃあ、一緒に行こうよ。美術棟はもうすぐそこだ。」
手をぐいと引っ張ってゆえを立たせ、景は歩き出そうとした。先を行こうとする景の手を、ゆえは掴んだ。
「何?水嶋。」
ゆえはおずおずと、景のスマートホンを指差した。
「ん?写真のこと?…消さないよ。」
ははは、と笑う景の肩を、ゆえは怒って叩くふりをするのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます