第4話 神さまの子供。

景の手は魔法が使えると知ったのは、高校の授業が始まって間もなくの頃だった。もちろんそれは比喩表現だ。だけれど景はその筋の世界ではすでに、神童と言われるほどの腕前らしい。彼は、球体関節人形を作ることに特化していた。生き人形と賞されるその人形たちは、瞬きをして呼吸を繰り返し、体温すら宿っていそうなほど精巧に作られていた。頬は赤みを差し、愛らしい唇は柔らかそうに息づく少女人形は景の真骨頂だった。立体デザインのアトリエの隅にスペースを陣取って、景は休憩時間もそこにいて何かしら手を動かしていた。今日はゆえと一緒に人形に生かすというデッサンを嗜んでいた。流石にいきなり実際の裸婦モデルを採用するわけにはいかず、写真集や画集を模写することに明け暮れた。

「水嶋、次はどれを描く?」

景に聞かれて、ゆえは悩みながらポーズの写真集のページをぱらぱらと捲る。今、二人のブームは交互にお題を出し合うことだ。

これ、とゆえが指差したモデルを二人は描いていく。

「この写真のポーズ、指先がとても繊細で綺麗だね。今度、塑像を授業で習うから題材にしようかな。」

景が作るのなら、それはきっと美しいことだろう。

「…水嶋は、手を描くのが好きだよな。」

ゆえが描くデッサンは景の指摘通り、手の描写が多かった。骨筋から筋肉までの流れ、血管まで細かく書き込んでいるとまるで自分が創造主になったかのような錯覚に陥り、気分が良かったのは確かだ。それと共に、手には心が宿るとも思っていた。

傷つきやすく、怪我すると酷く痛い。包み込まれると温かく、癒される。相手を突き放すことも、抱きしめることができるのも手だ。

景の作る手が好きだった。表情豊かな指の表現と、滑らかな肌。関節による皺とか、健康的な桜色の爪など正に理想の手で、カニバリズムは趣味ではないが思わず食べたくなる。そしてそれを実行したならば、微かな興奮を覚えることだろう。倒錯的な思いを抱くほどに、景の創作物は魅力的だった。

授業の予鈴が鳴る。ゆえは慌てて、自らが所属する絵画コースのアトリエに向かうためにスケッチブックを畳んだ。

「今度は、絵画のアトリエに俺から行くよ。また後で。」

後で。じゃあね。

唇の動きで伝えて、手を振ってアトリエからゆえは出ていく。そして小走りに、自分の授業へと向かうのだった。


今日の授業は一色の絵の具だけを使い、水彩画を描くというものだった。着色方法だけ守れば、何を描いてもいい。教員から注意事項を聞き、絵画コースの生徒たちは高校の構内に散らばった。ゆえは何をモデルにするか悩みながら彷徨う。

電線に音符のように止まるすずめ、花壇に咲く花。水を汲んだガラスのコップ。

目に映るもの全てが瑞々しく、生き生きとしていた。今から好きなものを描いてもいいというのは、とても心が高揚した。そして授業中に出歩くことが気持ちいい。ゆえは出ない声で歌をうたった。

途中、中庭に差し掛かったとき。前から校長先生が歩いてきた。

「こんにちは。美工の絵画コースの生徒かな。」

朗らかに笑って話しかけてきてくれたことがうれしくて、ゆえは笑みを浮かべながらぺこりと頭を下げる。

「ん?君は―…、水嶋ゆえくんですね。」

校長先生が入試の面接官を務めていたこともあってか、ゆえの事を覚えていてくれたらしい。ゆえは頷いて応える。

「そうか。授業は楽しいかい?学校生活は慣れたかな。」

慌ててポケットを探って、筆談用の手帳を取り出そうとする。校長先生はゆっくりでいいと待ってくれた。そうして取り出した手帳に、言葉を書き記す。

楽しいです。美術のことで話し合える友人もできました。ありがとうございます。

ふんふん、と頷きながら校長先生はゆえの手元を覗き込んでいた。

「それはよかった。友達は人生の宝で、彩りだからどんどん作ってください。」

ゆえがしっかり頷いたのを見て、じゃあね、と校長先生は校内へと去っていった。課題のモデル探しを、ゆえは再開した。

高校構内を一周してこれだと言えるほどのモデルを見つけられず、初心に帰ろうと思い、美術棟に戻る。途中、既に水彩画に取り組み始めている同級生を見つけ、さすがにちょっと焦りが出てきた。

アトリエに戻る途中、立体デザインコースの景を見かけた。その姿にゆえは目を奪われる。

景は真剣な表情で、粘土の塊に向き合っていた。傍らには休み時間にデッサンをしあったあの写真集が置いてある。恐らく本当にそれを資料に作品を創作しているのであろう。

ああ、魔法の手だ―…。

景の手から、美しい手首から指の爪先にかけて塑像が模られていく。滑らかな肌が表現され、指は表情が付けられて、まるで生きている手だ。

そしてそれを作る景の真剣な顔は神々しいほどの、静謐さだった。

長い髪の毛を後ろにくくり、痛いほどの視線を粘土の手に注いでいる。呼吸すら忘れそうなほど、集中していた。

ゆえは立体デザインのアトリエの中が窺える階段の中腹に座って、画用紙を広げ、筆を滑らせた。


ピピピ…、とスマートホンのアラームが鳴った。ゆえは、はっと我に返る。それは絵画コースのアトリエに集合する時間帯を教えるものだった。

画用紙には海の色、鮮やかなブルーで描かれた景の姿がある。ゆえはもう少し描き込みたいのを我慢して、引き上げる準備をしたのだった。

絵画コースのアトリエに戻ると早速、講評会が始まった。情熱の赤、陽気な黄色、癒しの緑。中には奇を狙ったのか白のみを使ったという水彩画まで集まった。

笑いを含みながら進む講評会は、和やかで楽しくて大好きだ。自分の番が近づくまでは、だが。

「―…、じゃあ、次は水嶋ゆえさん。」

名前を呼ばれて、ゆえは緊張しながら自分の作品を提出した。作品は黒板前のイーゼルに立てかけられる。

「鮮やかな青で、描いたんですね。そうですね、作品の瑞々しさと色の波長が合っています。水嶋さんは雰囲気を描くのがとても上手です。パースは…、少し改善の余地があるかな。」

教員が黒板に見本となるパースを描く。ゆえはそれを真剣に聞き、メモをする。

「まだまだ伸びしろのある作品だと思います。これで満足しないように。ああ、でも。」

優しい目をひた初老の教員は、眩しそうにゆえを見つめた。


「この作品に込めた愛は忘れないでくださいね。」

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