山ブドウ

 家族旅行で温泉宿に来ていた。広いロビーには温泉が湧き出していて、立ちこめる湯けむりで周りがよく見えない。じきにチェックインを済ませた父が戻ってくる。白い湯気の向こうに階段があるのが見えた。

 部屋の鍵を手にした父が先頭で、私たちは部屋へ向かう。狭い階段を、家族は一列に並んで上っていった。宿の中は入り組んでいて、階段は一か所にまとまっていない。二階に上がると、三階に上がる続きの階段は大広間の片隅にあった。着物姿の女中たちが夕食の支度をしている。白い足袋を履いた足がぱたぱたと動き回り、畳の上に膳が並べられ、その上に今度は茶碗が並んでいく。目にもとまらぬ速さで支度が進んでいくのに見惚れていたら、父の背中を見失っていた。

「部屋、どこやって?」

 兄に聞かれるが、私は知らない。鍵だって父が持っている。階上から父の声が聞こえてくるが、何を言っているのか聞きとれなかった。

 階段を上り切ると小さな和室に出た。ここでも膳が並べられている。部屋の隅に父が荷物を下ろしていた。どうやら、ここが今日泊まる部屋らしい。

 豪華な部屋食やな、と膳を前に座りながら呟いたら、配膳していた女中が顔を曇らせて首を横に振った。よく見ると、茶碗やコップが茶色の水で濡れている。

「何か汚こい茶碗やね」

 まだ女中がそこにいるのに祖母がそんなことを言うから、ひやひやしながら様子をうかがっていると、女中は特に気にした風でもなく答えた。

「ここらは山湯しか出ませんで」

 山湯の色で茶碗はどれも茶色っぽくなってしまうのだという。

 祖母が鍋から味噌汁をよそってくれる。箸でかき回してみると、薄いアサリのような貝が長く連なったようなものが入っていた。

「山ブドウです」

 女中はそう言うけれど、細長く、硬い殻を持ち、節ごとにくびれてつながるそれは、足のないムカデにしか見えない。椀の中では、火が通って開いた殻からシジミ程の黒くてしわくちゃの身が零れ落ちている。身だけを見れば、干し葡萄のように見えなくもない。

「これは、よう食べん」

 残そうと思って椀を置くと、いつの間にか女中が隣に来ていた。

「せっかくの旅先ですんで、食べてって下さい」

 優しく勧めるような笑顔が言う。椀の中では山ブドウが頭をもたげて、味噌汁の中から顔を覗かせている。

「でも、ちょっとこれは」

「地元の料理なんです」

 旅先で出会った珍しい料理への好奇心よりも、それが想起させるものへの嫌悪感の方が大きかった。どうしても食べられない。しかし女中の笑顔は目だけ真剣で、私が味噌汁を飲むまでこの場を離れそうになかった。私以外の家族はどうかと見てみると、みんな気にした様子もなく味噌汁に手をつけている。私だけが食わず嫌いで、せっかくの旅行に変な緊張を持ちこんでいた。

 観念して椀を持ち上げる。箸で山ブドウを除けておいて味噌汁だけ一口飲んだ。味はシジミ汁に似ていて何も変なところはない。女中がじっとこちらを見ていた。顔が苦るのを何とか口角を上げて頷いてみせる。それで満足したのか、やっと女中は部屋を出ていった。

 どうしてせっかくの旅先でこんな思いをしているのだろう。汁だけを半分程飲んでしまうと今まで味噌汁に沈んでいた山ブドウの姿が浮き上がってきて、いよいよ手がつけられなくなった。山ブドウだけ父に食べてもらうことにした。椀から移そうと箸で持ち上げると、何がそんなに滑るのか山ブドウは箸の隙間をすり抜けてしまう。手間取りながらようやく移しかえた時には、部屋にはもう私一人しかいなかった。

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夢日記再編 傍井木綿 @yukimomen

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