はだしの児

 玄関先で幼い私が泣いている。靴下を履きたくなかった。

「靴下を履かない子は連れていけない」

 外では皆、靴下を履いとるやろ。そう言う母の向こう、先に外へ出て待っている姉が不思議そうに私を見る。妹が何故ぐずるのか、わからないのだ。

 姉の靴下は真っ白でレースと細いリボンがひらひらしている。服は以前ピアノの発表会で着ていた紺のワンピース。よそ行きのおめかしした格好。小学校で描いた絵が町の美術展で入賞したから、今日はその表彰式だった。姉の賞状が、また一枚増える。

「だったら行かない。家にいる」

 靴下なんて履きたくなかった。おめかしなんて、したいとも思わない。絵が描けない代わりに私は留守番ができるから。出掛けたくないから留守番をする、別に何も間違っていないはずなのに。

「一人で留守番はさせられん」

 そう言って母は私に靴下を取りに行かせた。

 祖父は田んぼの世話。祖母はパーマを掛けに隣町の美容室。父は日曜日なのに仕事。母は姉を表彰式に連れていく。小学校に上がる前の私を一人で家においていくわけにはいかないのだ。

 日に焼けた廊下を、べったべったと走る。こうして靴下を取りに行かされるのが悔しくて仕方なかった。それに惨めな気分だった。取りに行ったところで自分のタンスにはろくな靴下が入っていない。

 擦り切れたり穴が空いたりした靴下を母や祖母はこまめに繕ってくれた。だけど繕ってもらう先から、またすぐに穴を空けてしまう。新しい靴下も気がつくと古いものと見分けがつかなくなっていて、足を入れたら親指の先が顔を覗かせる。

 外になんて出たくないのに、靴下なんて履きたくないのに、これ以上ぐずっていたら姉が表彰式に間に合わない。きちんと靴下を履く姉の邪魔をしてはいけない。

 和室に置かれた大きなタンス、下から二段目の引き出しを開ける。

 引き出しいっぱいに詰め込まれた靴下は、どれも穴が空いている。少しでも穴が小さいものを、少しでもきれいなものを、と探しているうちに私の背はぐんぐん伸びていく。足もみるみる大きくなっていく。大事に取っておいた穴空き靴下は、今ではどれもこれも小さくて足が入らない。



 タンスの前で立ち尽くしていたら、部屋の前を通りかかった父がドアから顔を覗かせた。

「どうしたの、靴下履いてどっか出かけるの?」

 時計の針は一時を指している。カーテンを閉じた窓の向こうには夜が広がっているはずだ。手に掴んでいた靴下を引き出しに戻す。学校の規則通りの白いハイソックスだった。

「どこも行かない」

 そう答えながら、まだ履ける靴下があることを確認してタンスの引き出しをしまった。

「何や、今から学校行くのかと思った」

 父は学校嫌いの娘の足元に目をやる。膨らんだ学生カバンがそこにあった。私は何も言わず、カバンをタンスの前から定位置である学習机の横に戻す。おやすみ、と言って父は風呂の方に歩いていった。



 スタッフロールが終わってビデオが自動的に再生を止める。テレビの電源を切って、部屋の明かりも落とした。障子に隣家の明かりが映る。暗くなった部屋で聞こえてくるのは隣で眠る母の寝息。

 かれこれ一週間、毎日同じ映画を再生しておきながら、母は必ず途中で眠ってしまう。代わりに私が結末を見届けてビデオを片づける。毎日繰り返し見るストーリーは目を閉じても頭の中にこびりついている。

 頭の先まで布団に潜り込む。夏場は暑くて、とてもくっついていられたものではないけれど、冬の夜は母の周りの温まった毛布が心地良い。布団を掛けていなかった腹より上を温めるように熱源に擦り寄った。足先が触れ合う。

 冷たい足しとる。

 眠りの中から顔だけ覗かせて母が呟いた。それから私の足を温めるように母の足が伸びてくる。更に身を寄せる。柔らかなものに頭が触れた。布団よりももっと温かいもの。かつて自分が守られて過ごした場所。何かを聞くように耳を押しつけていると、寝巻も柔らかな脂肪も通り抜けて元いた場所に帰っていく。


 予定日を過ぎてもなかなか出てこなくて、生まれてきたのは大きな子供だった。


 明かりのない暗い部屋で一人うずくまっている。

 外の階段を上る規則的な足音、壁の中の配管を流れる水の音。外界の音は閉め切った窓越しに聞こえる。下宿の狭いワンルームは体になじんで心地良かった。

 だけど、もう出ないといけない。予定では休暇はもう終わっている。ただ単位を落としても困らない授業をさぼって、勝手に休みを延長していただけで。生まれる前からの性分なのだ。

 温かな毛布から抜け出して立ちあがり、身支度を整えて靴下を履いた。細い廊下を通って玄関から外に出る。籠って暖かかった空気と違い、外の空気は新鮮で冷たい。

 ああ、と声を上げて一つ深呼吸をすると、途中で欠伸になって涙がこぼれた。

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