夢日記再編

傍井木綿

あいくれる

 よく晴れた日だった。

 バスに揺られて着いたのはどこかの高原だったと思う。広い公園の片隅に生徒を集めて先生が一通りの注意点を話す。それが済むと自由時間だ。みんな元気よくあちこち駆け出していった。昼休憩には班ごとに集まって弁当を広げた。その後、またみんなで遊びまわる。売店を併設した大きな休憩所までかくれんぼの舞台にして思う存分遊んだ。

 集合時間が近くなったから今のうちにトイレを済ませておこうと、何人かが休憩所の奥に行く。私も一緒に行った。用を済ませて元いた場所に戻ってくると、そこにはもう誰もいなかった。

 賑やかな声が向こうの方から聞こえてきたから、きっとみんなはそっちにいるのだと思って薄暗い蛍光灯に照らされた廊下を抜ける。しかし、そこでは全く知らない団体が集まって昼食を取っていた。もう集合時間なのに私は今どのあたりにいるんだろう?

 とにかく外へ、と開いていた引き戸をくぐってみると、そこは行きにバスが通ってきた道。傾斜の急なこの道を上っていくと駐車場に着いてしまう。どうやら公園の通用口に出てしまったらしい。慌てて薄暗い廊下へ引き返す。切れかけた蛍光灯がしきりに点滅を繰り返す。集合場所はどこだった?

 ようやく公園の敷地内、芝生の緑が輝く外に出てこられた。しかし、そこにも誰もいない。もうみんなバスに向かってしまったのだろうか。ああ、そういえば帰りはバスに集合だと先生が言っていなかったか。言っていたような気がする。バスがあるのは駐車場だ。どこから行けばいい。正面出口より、さっきの裏口の方が早いだろうか。でも戻るにも時間がかかる。

 迷いに迷って辿り着いた駐車場には、もう自分が乗ってきたバスはおろか一台の車も停まっていなかった。

 置いていかれた。

 休憩所の管理人である老人がどんよりと曇った顔でやってくる。バスは行ってしまったと、わかりきったことを言う。ここは山の奥だから帰る手段は無いと言う。電話も繋がらないと言う。

 帰れなくなった私は休憩所に引き取られた。明滅を繰り返す蛍光灯の下で無愛想な暗い表情の管理人夫婦と夕食を囲む。テーブルの上に並ぶのは老夫婦の表情同様に暗い色味の煮物やおひたしばかり。

 帰りたいのに帰れない。もう帰れない。帰れない。帰りたい、帰してくれ家に帰らせて帰りたい帰らせて帰れない帰して


 目じりから耳の方へと涙はとめどなく流れていく。目が覚めた瞬間に溢れ出したのか、起きる前から泣いていたのかはわからないがどうにも止まらなかった。

 仰向けに横たわったまま天井を見上げていても、明かりの点いていない中ではここが自分の家である自信が持てない。起きあがって横を向く。我が家であるなら、そこに彼女がいるはずだった。

 しゃくりあげながら手を伸ばす。布団越しのなだらかな肩に触れた。ああ、我が家だ。

 堪え切れなくなって小さく洩れた泣き声に彼女が目を覚ました。

「どうしたの?」

 驚きとぼんやりが半々の器用な声音で尋ねてくる彼女に、たった今まで見ていた夢の話をした。

「大丈夫、ちゃんと帰れるよ」

 彼女の言葉に私は首を横に振る。

「帰れなかった」

「じゃあ、迎えに行ってあげるから。大丈夫」

 そう慰められながら、彼女の腕に抱かれて私は再び眠りの中へと帰っていった。


 何をしていたのだったか、私と彼女は家の外にいた。

 曇り空の下で彼女は私に何かを言ったかもしれないし、私も彼女に何か言ったかもしれない。その辺りの記憶は曖昧だったが、その後、自分が彼女にしたことははっきりと覚えている。

 どんな流れがあったのかは知らない。私の手の中には鋏だったかナイフだったか、小さな刃物があった。彼女を押し倒して、私は握り締めた刃物で彼女の左足を大腿から切り落としていた。悲鳴も抵抗も覚えていない。無かったのかもしれない。私だけが酷く興奮していた。

 片足を失くした彼女はぐったりして倒れたままだった。私は逃げ出した。彼女を傷つけて、なおもここに留まることは考えられなかった。駆け出した私は何故か彼女の左足、大腿から下をその腕に抱えていた。

 血の感触は無かった。他人の肌に触れる変な感触はあった。そして何より、彼女の足は重かった。足自体の重さで私の指は違和感のある人肌に食い込んだ。食い込んで離れなかった。非現実的な感触を生々しく感じながら、私は家の前の通りを走った。途中、救急車とすれ違った。

 角までやってきた時、やっと私は自分が彼女の足を抱えていることを理解した。

 この足を彼女に返さなければならない、そう思った。返さなければ彼女は死んでしまう。

 急に、ここまで逃げてきたことが恐ろしくなった。来た道を走って戻った。

 家の前には救急車が止まっており、彼女を乗せたストレッチャーがその中に押し込まれようとしているところだった。私は抱えていた足をストレッチャーの上、本来左足があるべき位置に置いた。彼女はぐったりしたままだった。

「ごめんなさい」

 とんでもないことをした。私はその場に跪いた。土下座した。

「ごめんなさい」

 ごめんなさい、と私は繰り返す。それしか言いようが無かった。こうなった今、私に残された言葉は最も単純な謝罪の言葉だけだった。それを馬鹿の一つ覚えのように繰り返すことしかできない。

「ごめんなさい」

 救急隊員たちの目の前で彼女に謝り続ける。

 彼女はどろりと目をこちらに向けたが、ぐったりしたまま何も言わない。

「ごめんなさい」

 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい本当にごめんなさいごめんなさい


 急浮上する意識。普段あまり意識しない瞼の筋肉に全力を注いで、閉じていた目をこじ開けた。

 夢の中で叫び続けた言葉は耳にだけでなく喉にまで残っていた。あの謝罪を現実でも口にしていたのではないかと不安になる。耳を澄ましてから、今更であることに気付く。余韻でも聞こえるというのか。

 抱えた足の感触は、はっきりと覚えていた。指が、掌が手首が腕が脇腹が脇が二の腕が、あの生々しい足に食い込んだ記憶をそれぞれに生々しく残していた。あれは本当に夢だったのか、心の疑い深い部分がしつこく自問する。

 今の私の傍らに彼女はいない。


 真夜中の暗い部屋の中、テレビが点いている。

 彩度の低い光の中でニュースキャスターが読み上げるのは殺人事件のニュース。被害者はぐちゃぐちゃになって発見される。今時ありふれたバラバラ死体なんてものではなく、元の形もわからぬ程にぐちゃぐちゃになって発見される。

 私は布団から起き上がり、寝起きの不安定な足取りで部屋を出た。

 外は薄明るく、朝が近づいているらしい。ふらふらと歩いているうちに街中を抜けて、いつの間にかどこかの地下駐車場に入り込んでしまっていた。視界にあるのはコンクリートの壁と柱、金網のフェンス。薄暗い中、消火栓の赤が鮮やかで目にこびりつく。

 やけに入り組んだ歩行者用通路を進むと、半ば迷路と化したその奥に彼女はいた。

 にこぉり、と笑ってこちらへ歩いてくる。彼女は歩いているのに近づいてくるのが早い。間合いを詰められる一瞬のうちに、彼女が猟奇殺人の犯人であったことに思い至る。気づくのが遅い。

 彼女は私を抱き締めた。抱き締めて、締めて、ちぎって抉って潰して折って外して砕いて。

 自分の表面に溢れてだらだらと流れていくものを、温かくも冷たくもなく感じながら壊されていく。

 私は彼女に殺された。


 夜は払われ、朝が来ていた。朝食を食べるために私は台所に向かった。

 彼女が朝食を作っていてくれるはずだった。しかし、その入口まで来て私は中に入れなかった。

 そこには彼女がいた。彼女と三人の男たちがいた。彼女は彼らに犯されていた。床のフローリングの上に押さえつけられた彼女。死体を貪るカラスのように群がる男たち。汚い床。窓からは外光が差し込んで、部屋は明るかった。

 彼女はどんな顔をしていただろう。悲鳴も暴れる音も聞いた気がするし、聞いていない気もする。私は彼女の方を見ているつもりで見ていなかった。

 その時の私は、ただ思った。洗濯をしなければいけない。

 そして台所に背を向ける。

 脱衣所に向かうと既に洗濯は始まっていた。明るい小部屋の片隅で洗濯の工程はすすぎまで進んでいたが、洗濯機は正常に稼働していない。洗い物を詰め込み過ぎたのだろう。大型の洗濯機はガタガタゴトンゴトンと嫌に派手な音を立てて、縦に横に大きく揺れている。時には内部の勢いを抑えきれず、僅かながらもその重い本体を跳ね上げた。

 暴れる洗濯機に怯えていると何か声が耳に届いた。

 洗濯機の中から歌声が聞こえる。この異常による騒音の中でもはっきりと聞こえる。

 暴れる洗濯機が恐ろしくて蓋を開けるどころか触れることすらためらうのに、私にはわかった。彼女の声だ。散々好き勝手に扱われた彼女は最終的にこの洗濯機にかけられたのだった。

 容量オーバーで暴れる洗濯機の中で彼女は歌う。

 水越しの奇妙にたわんだ声が紡ぐのは、聞き覚えのある歌。子守り歌。

 揺りかごで眠る赤ん坊にカナリアが歌ってやるという歌詞。かつて私の母が祖母が歌ってくれたものではない。本で見かけて歌詞を覚えた。音符を辿って曲を覚えた。私が一人口ずさんだだけで、誰も私に歌ったことのない子守り歌。

 すすぎの荒い水流にもまれながら、おそらく正気を失くし、けれど意識は保ったままの彼女が歌う。

 子守り歌の優しさに私は目を閉じた。


 夢と現の狭間を深みへと沈みこみながら私は彼女を想った。

 被っている布団の感触はやけに遠い。存在しない彼女は私の右肩に重くのしかかる。爛れた顔を私の耳もとに寄せる。もはや人の形も保っていない彼女は焼け焦げた声で愛をささやく。

「たのしかった?」


 人々が逃げていく。私も走っていた。人々とは逆の方向に、彼女に手を引かれて。

 当局の追手が来る前に、と二人で走っていた。自然と足は彼女が私を殺した地下駐車場に向かう。人気が無いからそこが現場になったのだ。人を避けてそこにたどり着くのも不思議ではない。

 前の事件の捜査は終わっているのか、それともそんな事件は存在しなかったのか、かつて事件現場だったそこは相変わらず人気が無かった。前と同じ景色を見ながら、先に待ちうける結末を悟った。

 私は、それを彼女に質そうとした。

「この先は、」

 しぃ、と彼女は顔だけ振り向いて、口の前で人差し指を立てて微笑む。優しさとか愛情とかいった言葉がぴったり合うその微笑み。それで私は納得した。

 入り組んだ歩行者用通路を彼女は私の手を引いて走る。私は彼女に手を引かれるまま走る。逃げようだなんて思わなかった。むしろ彼女と一緒に逃げきってしまいたかった。

 薄暗く広い空間に出た。通路を抜けたのだ。私の手を離し、慣性で二、三歩進んでから彼女が振り向く。

 嬉しそうに、幸せそうに笑って腕を広げる彼女の胸に、私は飛び込んだ。


 かつてない充足感と共に壊される自分を感じながら目覚めたその朝は、とてもよく晴れていた。

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