桜の森の満開の下

紫花

第1話

 人はお花見だと何だと騒ぎ立てるけれど、僕にはその気持ちが理解できなかった。


 それは、何故か桜を見ると寂しくて悲しくて胸が騒いでたまらなくなるからだった。

 得体の知れない寂しさや悲しさを抱えたまま人と顔を合わせるなんて、いたたまれない。

 花見を陽気に心待ちにする友達には、桜は悲しいなんて言えなくて、ただ用事があると言葉を濁して、そして、毎年、僕は人気の無い街外れの桜を見にでかける。寂しくて、悲しいのに、憔悴にも似た気持ちが足を桜の元へ向けさせた。


 街外れの小さな病院の裏手の桜の森には、灯り提灯に彩られた神社や公園の桜のような明るい華やかさは欠片もなく、ただ、白い花びらが静かに静かに舞っていた。


 見事な桜だけれど、病院の近くということに憚ってだろう、人影は少なく、只時折お爺さんやお婆さんが散歩がてらに桜を見上げては、歩み去っていく。

 僕はその真下に寝転がって、ただ桜を見上げていた。

 満天の桜。どこまでも白く、薄紅を一はけ。

 降りてきては鼻先を掠める花びらを見るにつけ、わき上がるのはやはり、捉えどころのない寂しさと焦燥だった。

 なんなのだろうこの感覚は、そう瞼を閉じて考えて見るけれど、瞼の裏にも花びらの舞うような心地がして。


「怖くない?」


 そんな声が急に降ってきて、僕はびくりとして起き上がった。


 声の主を見つける。病院の薄汚れた壁に空いた窓から、女の子が顔を覗かせていた。

 ポニーテールに結った淡い色の髪を揺らして、きょとんとした僕にいたずらっぽく笑いかける。病院着から覗く手首や首筋は線が細くてひどく儚げなのに、表情や仕草は活発な印象な、なんだかちぐはぐな子だった。


「桜の下になんて居て、怖くない?」

「桜が怖い?」


 僕が首をかしげると、女の子はこくりと頷いた。


「桜を見てると自分がどこかに行ってしまいそうな気持ちにならないかな。自分の気持ちが、自分の思ったようにならなくて、なんだか怖くないかな」


「ああ……」


 それは僕の抱えていた憔悴に、なんだか似通って聞こえた。


「なんとなく、わかるかも」


 僕の答えに、女の子はにっと笑って、


「話し相手になってよ、退屈なんだ。キミの名前は?」

「……悠。 浅科 悠」

「私は……」


 それが、僕と櫻井香乃との出会いだった。





 櫻井は有り体に言って我が儘な奴だった。


「こっちに来て」


 なんて当たり前みたいに僕を呼んで、桜はまだ頭上を舞っていたけど、

 僕が立ち上がって窓の方に歩み寄ると、不満そうに頬を膨らませた。


「違うよ、こっち側に。部屋まできてよ」

「どこか解らないよ」

「玄関までなら迎えにいってあげる」


 僕には特に逆らう理由もなくて、病院の玄関に回った。がらんとしたロビーで再会すると、それがまた当たり前みたいに、にっと笑って感謝の言葉もなく、櫻井は僕を病室まで招き入れた。


 ちょっと呆れた。


 掃除は念入りにされていたけれど、老朽化の域まで達している病室はモノトーンに薄汚れていて、ただベッドのシーツと櫻井が肩に羽織ったストールが、雪のように白かった。

 そして、ちょうど病室の入り口から真っ直ぐにのぞく窓に、桜が、ただ一つ色彩を伴って鮮やかに。


「高校生?」

「そうだよ、相高」

「ちょっと遠いな。私は住高」


 僕は少し驚いて、頭一つ低い顔を見下ろした。櫻井は不満そうに、


「どうせ童顔ですけど」


 顔だけじゃなくて、華奢な骨格に、ころころ変わる表情に、何もかも幼く見えた。どんなに頑張っても中学二年生ぐらいに。

 特に病気というわけじゃないんだと言う。ただ体が弱くて、時折熱を出しては、こうやって病院のお世話になるんだと、櫻井はあっけらかんとして言った。だから、学校にもそんなに行ってないしあんまり仲の良い友達も居ないし、なんて。


「なんで一人でなんて、桜を見てたの?」


 櫻井の問いかけに、僕は頬を掻いた。


「あんまり、花見とか好きじゃないんだ」

「桜のことは好きなのに?」

「それもどうなのかわからない。ただなんか、桜が咲くと落ち着かなくて」

「複雑だね」


 ぽすんとベッドの上に腰を下ろして、櫻井は面白そうに僕の方を見上げた。


「そっちこそ桜が怖いなんて、普通言わないと思うけど」

「そうかな」


 ぶらぶらと真っ白くて細くて象牙細工みたいな足を揺らして。


「どこかに行ってしまいそうになるよ、桜を見てると。ここじゃないどこかに、私じゃない自分に、なってしまうような気がして、そんなことあるはずないのに、怖いな」


 そう言って微笑んだ表情だけは、やけに大人びて見えた。


「だけど、ここからの桜の眺めはなかなか最高だと思わない?」


 ベッドから音もなく立ち上がって、窓枠に手をかけて、櫻井はにっと笑う。

 窓一杯の鮮やかな薄紅が白い頬に差して、ひらひらと花びらの舞う、


「悪くないかな」


 僕がそう言うと、素直じゃない、と櫻井は鼻をならした。


「また来る?」


 陽が落ちてきて、帰りがけに、そう聞かれて。


「桜の咲いているうちぐらいは」


 僕はそう答えた。





 そんなのは、ほんの言葉遊びにしか過ぎなくて、

 僕は葉桜の頃になっても、結局櫻井の病室に通い続けた。

 桜の絨毯に地面が覆われるぐらいになった頃、


「葉桜も桜のうちだよね」


 そんな風に、何気なく装いながら言われたときには、言葉遊びもしておくものだななんて思ったりもした。


 相変わらず薄汚れた病室の中で、窓からの景色だけが、いつも鮮やかだった。

 春には、薄くけぶったような空に、若緑に染まる山々、薄桃色の花びらに彩られていたスクリーンが、 初夏には、切ないぐらいに眩しい光に、濃い緑の樹に。


 雨の日でさえ、窓の外は鮮やかに見えた。


「囚われのお姫様といったところかな」


 そんな風に舌を出して笑う、櫻井は大人しいお姫様という柄ではなかったけれど、モノトーンの病室と、窓の額縁に収まった色鮮やかな景色の様子は、それに、冗談めかした言葉の端に覗いた諦めに似た色は、きっとその喩えが本当なのだと、そんな気がした。

 なんだかんだでほとんど毎日、僕は病室に足を運んだのだけれど、他のお見舞いの人と鉢合わせることは無くて、聞いてみたけど、櫻井ははぐらかして笑うだけ。

 気遣われる病人と言うよりは、お城の尖塔に取り残されたお姫様。


「夏の景色は、もう怖くはないけど寂しいね」


 一際鮮やかな晴れの日、休みの日の昼下がり、櫻井はそんな風に言った。


「夏の盛りに寂しいって言う人はそうそう居ないんじゃないかな」

「人と同じことばっかり言ってても仕方ないでしょ」


 相変わらずのちょっと得意げな、にっこり、笑みを浮かべて、


「眩しい感覚は、寂しさに似てると思うんだ。お腹が空く感覚も寂しさに似ていると思うけど。

 どこまでも続く空と入道雲と光はさ、私を置いて何もかもが先に行ってしまいそう。

 この広い空のどこかには、きっと素敵な場所が、素敵な物語がいくつもあって、でも私はそこに行けない。だから寂しい」


 遠くを見る表情で、窓枠に頬杖をついた。


「まぁ、人の数だけ今も何かが起こってるんだろうな。そして僕たちはそこに届かない……か」

「そう」

「普段はそんなこと思いもしないけど」

「色々想像できちゃうっていうのは辛いことだよ。想像する時間だけはあるしね」


 振り返った櫻井は、珍しく本当に寂しそうだった。


「私の知らない幸いは、この空の下にどれだけあるんだろう」


 僕は、思わず、櫻井の小さな頭の上に手をそっとおいた。


「子供扱いするな」


 不満そうにむくれた櫻井を、あやすようになでて、


「櫻井しか知らない幸いは無いの?」

「それは……」


 伏せられた目の、睫が思ったよりずっと長いのに気づいて、少しどきりとした。


「今、こうやって話していられることは、まぁまぁ楽しいかな」


 眼差しを青い空の向こうにやったまま、ぼそりと櫻井はそう言って、 僕は。


「ならまだしばらく付き合うよ。葉桜が散っても」


 そんな風に、そのポニーテールの後ろ姿に言葉を投げかけた。





 葉桜は散るというのだろうか。

 街の夏は短い。秋は坂を転げ落ちるようだ。

 木枯らしがあっという間に、枯葉を全部もっていってしまった。


 櫻井はやっぱり我が儘な奴だった。


 気の進まない委員会の仕事とか色々あって、二、三日顔を出せなかった後、久々に病院に足を運んだ日のことだ。

 受付をしながらもうすっかり顔なじみになった看護師さんと話していた。すぐ後ろで止まったスリッパの音に振り返ると、いつも通り小柄な体。それだけはいつも驚くくらい綺麗に梳られたポニーテールを揺らして、


「何しに来たの」


 底冷えする声で言われて、僕は思わずたじろいだ。声は少し震えていたけど。


「何で来なかったの」

「学校の用事が忙しくてさ」

「……学校なんて無くなっちゃえばいいのに」

「いや、僕も無くなってしまえばって思うけれど……」


 上げられた顔、瞳には涙が溜まっていた。

 冗談なんて、言ってる場合じゃなかった。


「友達と楽しく遊んでたんでしょ」


 薄い唇をきっと引き結んで、


「だから、学校なんて無くなっちゃえば良いって言ってるの、友達ごと!」


 叫ぶように言って、それから自分の言ったことにはっとしたみたいに、櫻井は、きびすを返して、走り去った。

 病室には鍵がかかっていた。

 ノックしても返事もなく、僕は何が何だかわからないまま、とぼとぼと帰るしかなかった。

 それからまた二日間ぐらい、櫻井は会ってくれなかった。


「時々、何かが我慢できなくなってひどいこと言っちゃうのよね、香乃ちゃん。人間誰しもそういうものだと思うんだけど」


 看護師のおばさんがそんな風に話してくれた。


「でもそうなると、しばらく病室に籠もっちゃうの。一人でずっと、自分が言っちゃったことを悔いてるのよ。難しいけど心の優しい良い子だと思うんだけどね、ほんと」


 三日目のノックで、ドアは開いた。

 雪の季節を間近に薄い壁の病室は底冷えする寒さで、暖房も付けずに俯いて、櫻井は言葉もなく。

 ベッドの上にぺたりと座り込んで、口を開いた、白い息が天井にのぼった。


「悠はずるい」


 僕もベッドに腰をかける。驚くくらい冷たい手が、右の手を握った。


「悠はいっぱい幸せをもっててずるい」

「……そうかな」

「そうだよ」


 拗ねたように言って、


「たぶん私だって幸せな方なんだよ……でもそれで我慢できなくて、ひどいことを考えちゃう。最低なこと。考えないように、優しくいられればいいと思ってるのに、それでもひどいことを言っちゃうのは、きっと心がダメだからなんだろうね」

「夏ぐらいから思ってたんだけど、櫻井は複雑に考えすぎだね」

「どうやったらいい人で居られるか、考え続けないと、私はすぐにだめになっちゃうからね」


 ぎゅっと右の手を握りしめられて、冷たかった手は温かくなっていたのに。


「私が誰かの幸せの全てだったらいいのに、って思うけど、この世界の普通じゃ、そんなことは叶わないんだろうね」

「どうなんだろう……」


 おざなりに答えたわけじゃかった。

 ただ、それは言葉にしようとすると逃げていってしまうような、そんなことで。

 今櫻井はどんな表情でいるんだろうと、振り返った、そこにけぶるような微笑み。


「ねぇ、悠」

「何?」

「私のこと殺して、って言ったら、どう思う?




 櫻井を殺す夢を見た。



 春、この街の遅い春。

 満開の桜の下で

 空は薄けぶる曖昧な水色に、雲と空の境さえ曖昧だった。

 一面に敷き詰められたような花びらの上で目を閉じて眠るような、櫻井の喉に手を掛けた。

 白い喉に柔らかく指が沈んで、視界の隅を、花びらが舞う。

 殺そうなんて、本当に思っていたのだったっけ。ただ戯れだった気がしたのに、力を込めようなんて思って居ないのに、指は吸い付けられるように細い首から離れない。


 櫻井は、静かで、首を絞められていることにさえ気づかないように。

 ただ、最後の刻に、うっすらと目を開いて、その澄んだ瞳は僕ではなく、僕の後ろの、たぶん桜を見ていた。


「きれいだね」


 ひらひらと舞った一枚の薄紅の欠片が瞼の上に落ちて、櫻井は諦めに似た微笑みと一緒に目を閉じた。

 一陣の冷たい風があたりに吹きすさぶ。


 肌に触れるあらゆるものが、櫻井の首も、いつのまにか頬についた花びらも、何もかもが怖ろしく冷たくなって、僕は終わったことを知った。


 櫻井と並んで、花びらの上に横になる。

 悲しくはなかった。怖くもなかった。

 ただ、心の中に何かを引き抜いたような、寂しさだけが残った。


 寂しさはあたりにも満ちていた。それは耐えられないほどではない、ただ肌寒さとして感じられた。


 無くなったものの正体を確かめようと、櫻井の手を探した。


 だけど、手は空をきる。そこにあるはずの櫻井の亡骸はなく、ただ一面の花びらが最初より分厚く降り積もっているだけだった。


 ため息をついて、僕も目を閉じた。

 そうすると、僕も消えてなくなる。


 誰かが桜を見ていた。桜だけがそこにあった。春の陽と未だ少し冬の名残のする風に揺られて、桜だけが、しんしんと花びらを降らせていた。



 目が覚めた。

 悪夢とは思わなかった。

 ただいつもの通りに体を起こして、いつもより少しだけ、現実感が戻るのに時間がかかった。



 病室を訪ねた時、櫻井が居なくて、僕は心臓を締め付けられるような思いをしたけれど、


「驚いたー?」


 僕が必死になって狭い病室と窓の外を探し始めた途端、小さく舌を出してベッドの下から小憎たらしく櫻井は姿を現した。


「居なくなったと思った?」


 意地悪く笑う櫻井に、僕はどうしようもなくて、ただ情けないことに、泣きそうになってしまって 。


「ど、どうしたの」

「……うるさい」


 握った櫻井の手は、指は、本当にほそっこくて、それでも温かくて、漸く夢の残滓が溶けきる気がした。


 慌てていた櫻井は、しばらくすると諦めたようで。

 僕の肩にあごをもたせかけて、囁くように言った。


「桜を見にいこうよ、悠」



 病院の裏の桜も、満開だった。

 二人で横になって桜を見上げていた。

 夢の中と同じように、ただ、手を握ってきたのは櫻井の方だった。


「手を離さないでね。怖いから」

「桜は、怖いままなんだね」

「たぶん、ずっと怖いままだよ」


 見上げる桜は風にどこまでも白に揺らぐ。桜は薄紅と人は言うけれど、僕には桜はましろで、あたりの縁取りが、薄紅に染まるように、感じられた。


「ねえ、悠」

「うん?」

「……私を殺す夢を見た?」


 心臓がまた跳ねた。

 横を向くと、櫻井は夢見るような微笑みで僕を見ていた。


「……見たよ。今朝」

「感想は?」

「……ひどいことを聞くね、櫻井は」

「殺した方が、ひどいとおもうけどな」


 握った掌を、小憎たらしくくすぐられて、僕はため息をついた。


「寂しかった。心の中も、回りの世界も……

 櫻井が居た時、本当に良かったと思ったんだ。夢の中のことだったのに」

「ふふ……私のおまじないは成功かな」

「なんだよ、それ」

「私が生きていることが悠の幸いの全てになりますように、って」

「ああ……」


 珍しくはにかんだ笑みを浮かべた櫻井に、僕は諦めてため息をついた。

 あれは確かに夢だったのだけれど、夢の中には僕と櫻井と桜しかなくて、櫻井が消えてしまったら、僕も消えてしまった。

 ここにも、僕と櫻井と桜しかなく、泡沫の夢の中でのことでのはずの気持ちは、ずっと僕の心にはりついたままだった。


「きっと私を殺したのは桜の下だったでしょう」


 僕は答えなかった。


「桜はやっぱり怖いね」


 櫻井はそう冗談めかしていって、眠るように目を閉じた。

 自分が戯れにでも、本当に櫻井の喉を絞めてしまわないか、自信が無かったけれど、 櫻井の手が僕の手を握っているから、それも出来ないだろう。


 僕はまた、桜を見上げた。


 春の風はまだ肌寒く、一抹の寂しさに似ていた。


 もしかしたら、夢のように、櫻井の手はするりとほどけて、桜の花びらに変わってしまうかもしれない。そんなこと起こりえないのは解っていたけど、そんな想いは頭から離れなくて


 そうなったらきっと、僕も花びらに変わってしまうのだろう。



 そう思った。

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桜の森の満開の下 紫花 @lavandula

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