第128話 寝坊と葛藤

「……くん、……大地くん!」

「んんっ……」


 誰かが俺の名前を呼んでいる気がする。しかし、昨日の疲れが残っていて、中々目を開けることが出来ずに、うなって寝返りを打つ。


 近くでは、ため息交じりの声が聞こえてくる。


「まったくもう……そんなお寝坊さんな大地くんには、お仕置きだぞ!」


 楽しそうな声が聞こえてきたかと思うと、顔の近くに、何やら気配を感じた。



「ふぅー……!」


 すると突然、耳元で思いっきり息を吹きかけられ、耳の中にほんのり熱気に帯びた空気が入り込んできた。


 俺はぞくっと身震いして、ばっと目を開けて飛び起きた。

 起き上がった先にいたのは、案の定愛梨さん。


 すでに寝間着姿から、いつもの服装に着替えており、呆れた様子で俺を見下ろしていた。


「おはよう、大地君」

「お、おはようございます愛梨さん」

「随分心地よさそうに眠っていたみたいだけど、大学はいいの?」

「えっ? ……はっ!」


 愛梨さんに言われて、俺はばっと時計を確認する。時刻は朝の九時半を回っている。


 完全に寝坊していた。


「何で起こしてくれなかったんですか!?」


 俺が愛梨さんに尋ねると、愛梨さんは顔を緩ませて両手を頬に当てて身を捩る。


「それはだって……大地くんの寝顔が可愛くて、もう少し見てたいなと思ってたらつい……」

「そこは心を鬼にして起こしてください!」

「まあ大丈夫だって、大学の授業なんて1回や2回休んだところで問題ないし!」

「先輩が俺を堕落だらくした悪い学生へみちびこうとしている!?」

心外しんがいね、私は一般的なことを言ってるだけよ。それに、2年生になればゼミの研究発表やら何やらで、嫌でも強制的に1回や2回授業を休む羽目はめになるわ」


 愛梨さんが当然のように熱弁ねつべんする。なんだろう、大学の授業制度の闇を感じた気がした。


 まあそれはさておいて、今はくだらない話をしている場合ではない。

 急いで朝の準備を整えて、大学へと向かわなくてはならない。


「えっと、とりあえず、歯を磨いて、顔洗って……」


 ぶつぶつ独り言を言いながら、朝の支度の順番を頭の中で整理する。

 どうしたら、手早く準備を済ませられるか、優先順位を付けている間に、ふと部屋の中を見渡して気が付いた。


「あれ? そう言えば愛花は?」


 昨日は確か、愛梨さんの妹が愛花だという、まさかのカミングアウトから一転。

 二人で協力して俺をとそうという、謎の作戦を計画して、そのまま二人と一緒に寝落ちしたはず。


 だが、辺りを見渡しても、愛花気配は感じられない。もしかして、昨日の出来事は実は夢で……


「あぁ、愛花ならもう家に帰ったわよ」


 矢先、愛梨さんが冷酷なまでに現実を突きつけてくれた。


「そうですか、よかった……」


 何が良かったのかは分からないけれど、昨日の出来事が一瞬幻ではないのかと期待した俺がバカだった。


 俺が項垂れて打ちひしがれていると、愛梨さんは気にする様子もなくスっと立ち上がる。


「まっ、これから私と愛花共々、色々とお世話になると思うけど、これからもよろしくね! それじゃあ、私は家に帰るけど、ちゃんと遅刻しないようにするのよー」

「え? ちょっと、愛梨さん!? 俺を寝坊させといて後は丸投げ!?」

「ギリギリ間に合う時間には起こしてあげたんだから、むしろ感謝しなさい」


 胸を張ってドヤ顔で言ってのけた愛梨さんは、そのまま玄関へと向かい靴を履いた。

 ドアノブに手をかけて、こちらへ顔をクルっと向けてふっと柔らかい微笑みを浮かべる。


「それじゃあ、愛花共々これからもよろしくね、大地君」


 そう言って、手をヒラヒラと振りながら、愛梨さんは帰っていった。

 俺はそんなお気楽な様子の愛梨さんを、ただただ茫然ぼうぜんと見つめることしか出来なかった。



 ◇



 愛梨さんが帰って行ってから、超特急で準備を整えて家を飛び出したおかげで、なんとか無事に授業開始時間に間に合った。


 教授と同時に教室に入り、健太達が座っている席へと駆け込んだ。


「ごめん、遅くなった」

「おう、おはよ大地、寝坊か?」

「あぁ……まあそんな感じ」

「おはよう大地って、うっわ、汗ヤバ! タオル貸してあげようか?」

「いや、持ってるから平気……ごめん後ろ通るよ」

 

 健太けんた詩織しおりに挨拶を済ませ、席の後ろを通してもらい、詩織と綾香の間の、空いている席へと座った。


「ふぅー……間に合った」

「おはよう、大地くん。大丈夫……?」

「おはよう、綾香。うん、なんとか……」


 俺は、自分で持ってきたタオルを鞄の中から取りだして、服を仰ぎながらベッタリと掻いてしまった汗を拭きとる。


「あちぃ……」


 思わずそんな声が漏れてしまうくらいに、ドバァっと一気に汗が滴り落ちてくる。

 5月も終わり6月半ば、この教室は大学内でも一番古い建物で、空調機能が建物内で一斉管理されているため、7月までクーラーが使えないそうだ。


 そのため、温度調節は窓を開けて調節しているのだが、生憎俺が今座っている席は教室で真ん中の列、窓側からも廊下側からも遠く、風の恩恵を受けることは残念ながらできない。


 さらにたちの悪いことに、この授業は必修科目のため、多くの一年生で教室内はごった返しており、もわっとした熱気が教室中に充満していた。


 俺は少しでも身体を冷やすため、ひたすら風を自ら起こす為に、服をパタパタと仰いでいると、トントンと右肩を叩かれた。


 視線を向けると、隣にいた綾香が、右手に持っているモノを、俺に当ててきてくれていた。


 綾香が手に持っていたのは、携帯用のハンディーファン。ブーンという心許ないモーター音と共に、微かではあるが、心地よい風が、俺の顔に当たって涼しい。


「よかったら、使って」

「ありがとう、借ります」


 俺は綾香からそのハンディーファンを受け取り、自分の快適な所へ風を当てる。

 身体を動かさずに、一定の量の風が身体に当たるので、とても快適だった。


「よくこんな時期から持ってるね」


 詩織が、俺を飛び越えて、綾香に問いかけた。

 綾香も俺を挟んで、詩織に答える。


「その、楽屋とかでも、結構まだ空調効いてない場所とかもあって、時々暑いときにメイクするときとかに便利なの」

「なるほどねー! さすが綾香っち、意識高いわ」


 意識が高いのかは分からないが、次第に俺も汗が収まり、ようやくいつもの体温を取り戻してきたような気がした。


 俺はもう少し綾香から借りたハンディーファンで身体を冷まし終えてから、ハンディーファンの電源を切り、綾香へそっと返した。


「ありがとう」

「いいえー」


 小声でお礼を言い、俺はようやく鞄からプリントなどを取りだして、授業を聞く体制を整える。


 教授が、前のホワイトボードに書いた文字をようやく写し終えて、今説明している部分に追いついた。


「ふぅ……」


 一息ついていると、トントンと肩を人差し指でつつかれた。顔を向けると、詩織がニコっとした顔で紙切れを手渡してきた。


 俺はなんだろうと思いながら、中身を確認すると、


『明日はよろしくね!』


 というコメントが書かれていた。


 俺はペンをもう一度持ちなおして、詩織に返事を返す。

 書き終えたところで、スっと詩織の方へと紙を渡した。

 詩織はその内容を見て、思わずふふ……っと笑っていた。


『任せろ! 俺が全員手玉に取ってやる』


 もちろん、合コン相手など全く興味が無く、俺はただの人数合わせ要因なので、適当に場のノリで書いただけ。


 それを見て、詩織が何やらまた書き込んで、スっと再び紙を渡してきた。

 俺が受け取ると、


『女ったらし~』


 と書かれていた。


 ぐっ……詩織にごもっともな言葉を返されてしまい、返事に困ってしまう。

 結局、『とにかく、明日はよろしく!』

 と返事を返して、詩織との秘密のやり取りを終えた。


 再び遅れていたノートを取り終えて一息つくと、今度は反対側の肩を綾香が人差し指でトントンとつついてきた。


 俺が綾香の方へ顔を向けると、綾香は手元にあった紙切れをスっと俺の方へ渡してきた。


 その紙切れを手に取って開き、中に書いてある内容を読む。


『今日、私仕事ないんだけど、授業終わったらこのまま泊りに行ってもいいかな?』

「……」


 俺が綾香の方をチラ見すると、綾香は前を向いて真剣な表情で授業を聞いていたが、俺の視線に気が付いたのか、一瞬俺の方をチラっと見て微笑んできた。

 その屈託のない微笑みに、思わず胸がキュンっとしてしまう。


 左側の詩織の方を確認して、気づかれないようにペンを走らせて返信を書く。


『いい……』まで、書いたところで、一瞬躊躇する。

 詩織に言われた『女ったらし』という言葉が尾を引いて脳裏によぎり、昨日の愛梨さんと愛花の、むっとした脹れっ面の表情が顔に浮かぶ。


 愛梨さんと付き合ってはいないが、両想いの関係で、愛花も俺のことが好きだといってくれている。他の女の子をこのまま芋ずる式にホイホイ泊めていたら、彼女たちはどう思うのだろうか……


 俺がそんなことを考えて、返信を書く手が止まっているのを見て、、綾香が心配そうにこちらの様子をチラチラと盗み見ていた。


「……」


 俺は悩んだ末に、消しゴムで先ほどの文字を消して再び書きなおし、綾香の方へ紙をスライドさせた。


『ごめん、今日は厳しいかも……』

「……」


 その返事を見て、表情を暗くする綾香。それだけでも、少し罪悪感で心が痛んだ。しかし、綾香はめげずにまた何か書きはじめた。


 そして、再び俺の方へその紙をスライドさせて渡してくる。


『どうして? なんか予定でもあった?』


 まさかの返答、諦めるかと思いきや、理由を聞いてきた。

 俺が綾香の方を見ると、綾香はチラリと潤んだ瞳でこちらを見上げ、甘えるような表情で俺を見つめてきていた。その表情が、まるで俺の家に泊りたいとせがんでいるようにも見える。


 綾香は女優にも関わらず、時々見せる素のあどけなさというか、純粋さというか……そう言った可愛らしさが心をくすぶられるからずるいんだよなぁー。まあ、それが彼女のいい所でもあるんだけど。


 俺は頭をボリボリと掻きながら、どう返事を返そうか悩んだ。

 もう一度綾香の方を見ると、その視線に気が付いたのか、綾香が再び俺の顔を覗き込んでくる。

 すると、綾香は口パクで「ダメなの?」と甘えるように問うてきた。


 あぁ……もう……! そういうところがずるいんだよ本当に!

 俺は頭をさらにボリボリと掻き、ふぅっと観念したように息を吐いて、再びペンを走らせた。

 書き終えた紙を、綾香の方にスっと渡した。


『わかった、泊りに来ていいよ』


 俺が根負けして書いた内容を見て、綾香がとても嬉しそうに顔をほころばせていた。俺はそれを見て、ますます愛梨さんと愛花対する罪悪感と、綾香の可愛さに気づかされる自分との葛藤かっとうが、入り混じってしまった。

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