第74話 唇

 ソワソワとしているうちに、ガチャっというドアが開く音が鳴り、誰かがカフェスペースに入ってきた。

 その音の方向を素早く振り返ると、そこにはドアを丁寧に閉め、こちらを振り向き、ヒラヒラと手を振っている綾香の姿があった。

 この後仕事なのだろうか? 大きめのバックを持って、白のシャツに緑のカーディガンを羽織い、ジーンズを履きこなして、帽子を被り、正方形の黒縁メガネをかけていた。


「おはよう、大地くん」

「お、おう、おはよう」

「向かい側の席いい?」

「あ、うん」


 綾香は俺の向かい側の片方の椅子に荷物を置いて、もう片方の椅子に腰かけた。

 帽子を取って、髪の毛を手櫛で直しながら、俺の方を向いてニコっと微笑んでいた。

 俺はどうしていいのかわからず、思わずそっぽを向いてしまう。

 綾香もそれ以降何も発することなく、手鏡を取りだしてメイクのチェックをしてみたりなど自分の身だしなみを整える。


「さ! やろうか、大地くんはどれ終わってる?」


 手鏡をバックにしまい、準備を終えて切り替えた綾香が俺に尋ねてくる。


「へ? あ、あぁ! こっちに置いてあるは終わってるから写してって平気だよ」


 俺は一瞬、間抜けな声が出てしまったが、なんとか取り直して綾香の質問に答えた。


「わかった、ありがとう」


 綾香は、俺が写し終えたほうのノートやレジュメを、自分の手元へ持っていき、バックから用意してきたノートやレジュメを取りだして、写し始める準備をしていた。

 その様子を見ても、綾香の方は先週の出来事などは忘れてしまったかのように、今はノートを写すことだけに集中している様子だった。


 やはり長年女優をしていると、ああいうベッドシーンの演技などもしたりするので、簡単に忘れられるのだろうか?

 俺は改めて、女優井上綾香としての、彼女の姿勢に驚かされる反面、ちょっと忘れられてしまったようで残念な気持ちもあった。


 お互いに話すこともなく、閑散としたカフェスペースでひたすらにノートを写していた。

 俺がきりのいいところまでノートを写し終え、健太から借りたメジュメのプリントを整理している時に、ふと綾香の方を見た。


 机に向かって真剣な表情でノートを写している綾香は、撮影のワンシーンかのように画になっていた。時々落ちてくる前髪を、手で掻きあげ耳に掛け直しながら、俺には目もくれずにノートを書き写していた。


 その表情にしばし見とれていたが、ガチャッという音が鳴り、他の生徒がカフェスペースに入ってきたので、俺は再びノート写しの作業に戻った。


 またしばらく、ノートを写す作業を続けていると、ふと綾香の手が止まっているのが視線の端で見えた。

 綾香の様子を窺うと、綾香は俺の方をじぃっと見つめていたようで、目が合った瞬間、ポっと顔を赤らめて再びノートに目を向けてしまった。


 どうしたのだろうと疑問に思い首を傾げたが、綾香は真剣な表情に戻りノートを写していたので、邪魔になると思い、再び作業に戻り、顔を机に戻した。



 ◇



 無事にお昼前までにノートを写し終えた私と大地くんは、健太くん達と連絡を取り合い、食堂で待ち合わせをすることになった。

 今はカフェスペースの机に散らばっていたノートなどの荷物をまとめて、食堂へと並んで歩いて向かっていた。


 今日大地くんと会ってから、私はまともに顔を合わせることが出来ていなかった。

 最初は作り笑いでごまかしていたけど。その後は、ずっと大地くんとの、この間のホテルでの出来事が何度も何度も頭の中でフラッシュバックしながらノートを写していた。


「そう言えばさ」

「ん? 何?」


 すると、大地くんが思い出したように話を切りだしてきた。


「さっき俺がノート写してる時に、どうして俺のことずっと見てたの?」

「えぇ?!」


 思わず私はドキっとしてしまう。見られちゃったなとは思っていたけども、大地くんの唇を見て、大地くんと濃密なキスをしたらどうなるんだろう……という妄想をしていたなんて、口が裂けても言えなかった。


「それは……その……」

「?」


 私は目を泳がせながらいい訳を考える。その間、大地くんはキョトンとしながら私の顔を覗き込んでいた。


「くち……が……」

「くち?」

「大地くん、口がポカンと開けてたからどうしたのかなと思って見てたの! あははは……」


 思わず出てしまった割には、まあまあの言い訳が出来たとは思う。


「マジ? 俺そんなに口開けながら書いてた?」


 大地くんは思わず自分の口元を手で隠して確認していた。


「え? あぁ……うん。まあでも……そんなに気にしなくていいと思うよ? 口開けてのキスでも私は大歓迎だし……」

「なんか言った?」


 思っていたことが口に漏れていたらしく、私はビクっとなりながら大地君の方を見た。顔が熱くなるのを感じ、プイっとそっぽを向いて


「なんでもない!」


 と答えながら、小走りで大地君の元から私は離れて健太君たちが待つ食堂へと足を運んだ。

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