第1話 シュレディンガー

 桜の木の下には死体が埋まっている。

 よく聞くフレーズだった。

 しかし、桜の下にあるものが死体だけとは限らなかった。






 多くの桜が花開き、人に感動や不安を与える時期。

 猫川春樹ねこかわはるきが下校で通る桜並木は、見事な八分咲きの桜に囲まれた道を作り出し、通る人を魅了する。

 この並木道は駅までの行く道にもなっているため、通勤帰りの人や学校から下校中の学生。駅前のスーパーなどで買い物を終えた主婦など、多くの人が行きかう。

 そして年齢問わず、そこを通る通行人の多くは、この時期は大抵、首を上に向けて華々しく咲いた桜を目に焼き付けようとする中。

 しかし、春樹は一人だけ大衆とは全く逆のことをしていた。

 多くの人が数多の桜を見比べ、歩きながら少しずつ変わる景色を、日本人の心を昔から奪う桜を見ながら楽しむということをしているにも関わらず、春樹は一本の桜だけに目が止まっていた。

 皆が見上げる中、ただ一人だけ桜の根本だけに視線を向けていた。

 別にその桜が特段他の桜よりも綺麗だとか、幹が不思議な形をしているだとか、春樹がその桜に深い思い出があるとか、そういう訳では無い。

 春樹の視線の先には、小さな段ボールが置かれていた。

 段ボールの口は開かれており、その中に入っているものは隠されることなく露わになっている。

 中からは一匹の子猫が、近づいてきた春樹を見つめていた。

 その真っ白な猫が入っている段ボールには何も書かれていなかったが、状況的に春樹はその猫が捨て猫としか思えなかった。

 桜の下には死体が埋まっている。

 元ネタはから少し変化して、今では良く聞くそのフレーズを春樹は脳内に思いながら、辺りを見渡す。

 周りには桜に見惚れる人ばかりで、不自然なまでに猫を気にする人たちはいなかった。

 普通なら、ここで誰か拾ってくれる人がいないかと、呼びかけるところであっただろうが、無機質な春樹にはその考えを浮かびはするものの、行動に移すほどの気力がなかった。かと言って、面倒なことをしたくないと考え、自分の家に持ち帰るという発想にもなれなかった。

 春樹は、自分の鞄の中に入っていた、帰ったら食べるように、途中で買っておいたパンを袋から取り出して、数切り千切りと、猫が入っている段ボールの中に置いた。

 自分が拾わなくも、きっと誰かが拾うだろう。春樹はそう自分に言い聞かせて、その場を去り、多くの人が行きかう雑踏の中に戻る。




 翌日、春樹は走りながら駅に向かう途中に、桜並木の道に差し掛かると足を止めることなく猫がいた場所を一瞥だけする。

 桜の下には未だに段ボールが置いてあったが、猫の姿は見えなかった。

 もう既に誰かが、猫に気が付いて拾ってくれたのか、ただ単に段ボールの中で丸くなっているため角度の関係で見えないだけか。

 どちらの可能性かと春樹は考えるが、段ボールの方に足を向けとはしなかった。

 足を止めて、少し段ボールに近づくだけ。

 それだけで猫の状態を確認できる。

 しかし、そうするだけのことを春樹はそれをしない。

 電車の時間もあったが、それ以上に今、ここで猫を気に掛けてしまったら、きっと自分は無駄に猫のために何か出来ないのかと考えてしまうと思った。

 無気力に生きる春樹ではあったが、自分の一度気にしたことはとことんハマりやすい性格だと自覚していた。

 だからこそ、春樹は猫が誰かに拾われたという可能性を信じる程度に留め、それ以上深く思考することを止め、無意識に走る速度を少しだけ速くしていた。

 



 昨日と同じ下校時間。

 春樹は再び、猫のいる段ボールに近づく。

 そんなことをする必要はないと分かっていても、春樹は学校にいる間頭の片隅から離れなくなっていた。

 自分でも、どうしようか結論は得られていなかった。

 面倒なことはしたくない、けれど、頭から離れない。

 春樹は葛藤したまま段ボールを覗く。

 中には昨日と変わらない様子の猫が自分を見つめて来る春樹を見つめ返していた。

 春樹は特別猫が好きという訳でもないので、その猫がどういう感情で春樹を見ているのかは分からない。

 だから、春樹は自分が面倒ごとを背負うことをしないように、感情を出来る限る無にして、駅前のスーパーで買ったパンを昨日と同じく食べやすいように段ボールの中に置いてその場を去る。






 それからはというもの、下校中に猫にパンを与えるのは春樹の日課になっていた。

 休日も夕方にスーパーに行く途中に平日と同じようにしていく。

 深い情が湧かないように、猫には触らず。話掛けず。

 あくまでも誰かが拾ってくれるまでに餓死しては目覚めが悪いという大義名分を春樹は自分への言い訳として、いつか誰かが拾ってくれると言い聞かせた

 しかし、そんな春樹の考えとは裏腹に、一向に誰も猫を拾ってくれることはなかった。

 猫もその段ボールから離れてどこかに行けばいいものの、離れようとせずに段ボールに留まり続ける。

 そして、猫は並木通りの桜の散り様に同調しているかの如く、日に日に痩せていった。

 春樹はその猫の変化を当たり前のこと思った。

 猫はその場から動かずに、食べ物を自分で取りにこうとせず、一日一回の春樹持ってくるパンのみ。

 春樹は痩せていく猫を見ながらも、一日一回だけ与えるという習慣を変えることはなかった。

 それを変えてしまったら、自分はきっと猫のために尽くそうとするだろうと考えている。

 傍から見れば、既に春樹は十分猫に尽くしているように見えるかもしれないが、春樹の中では、確固たる線引きがあり、その一線は超えないようにする。

 その理由を問われれば、きっと春樹は困るだろう。

 その感情は言葉に出来なくても明確なものがあった。

 だから春樹は、自分はただこれだけで良いと、自分を納得させる。

 ただ一日一回、パンを与えるだけで良いと考えた。

 自分の習慣の行動の一つに足すだけ程度の、このくらいの距離感のままが良いと。

 



 しかし、その習慣はあっさり終わった。

 桜が完全に散り、最早足を止めてまで上を見上げるものがいなくなった曇りのある日。

 いつもの様に下校中に段ボールを覗いたが春樹は、段ボールの中で横たわる猫を見た。

 普段であれば、春樹が近づくと機敏に反応して、段ボールの中を覗く春樹の目と自分の目を合わせようとする猫が、その日は目を合わせようとするどころか、目を開こうともしなかった。

 春樹、自分の頭に過ろうとする考えを振り払い、きっと寝ているだけだと、自分に言い聞かせて、いつも通り駅前で買ったパンを鞄から取り出す。

 袋を開けて、パンを取り出そうとしたところで、春樹は手を止める。

 その行動は春樹にとっても無意識のものだった。

 取り出そうとしたパンを離し、地面に落ちてもそちらに目もくれず、春樹は猫に向かって手を伸ばす。

 そして、ずっと守っていた一線を超えて、横たわる猫に触れる。

 始めて触った猫の感触は、温かいものとは程遠かった。

 そこに感動という感情が湧く筈が無く、ただただ無感情に春樹は猫の腹部に手を置き、その後息を確認する。

 春樹は猫が息をしてないことを確認すると、今度は両手を使って猫を持ち上げる。

 空き缶でも持っているのではないかと思えてしまう程の軽さに、春樹はとても生き物を手に載せているとはとても思えなくなっていた。

 毛皮で見にくいが、体にはほとんど肉がついておらず、骨の形が分かるくらいに浮き出ており、ほとんど皮と骨だけになっている状態だった。

 春樹はその猫を段ボールの中から取り出すと、段ボールが置いてあった桜の根を掘り、猫が一匹埋められるサイズの穴を作る。

 春樹は猫を穴に入れて、淡々と穴を埋めていく。

 その間、春樹は無表情を貫いた。

 春樹は、自分は過剰に関わってこなかったのだから、悲しみも哀悼の気持ちも表に出す資格はないと自分自身に命令する。

 穴を完全に閉じると、春樹はその場で立ち上がり、猫を埋めた桜の木を見上げる。

 

 桜を木の下には死体が埋まっている。


 春樹は初めて猫を見つけた時に脳内に過った言葉を思い出す。まさか自分がその言葉通りのことをするとは思わなかったと、春樹はふと自虐気味に笑う。

 そして、春樹は猫が入っていた段ボールの一部を破ると、土で汚れた指で文字を書く。

 春樹は文字を書き終えると、それを、猫を埋めたところに突き刺す。

 そこに書かれていたのは名前だった。

 土で書いたゆえに直ぐに流され消えてしまうが、無気力に接していた春樹がパン以外に唯一猫に与えたもの。

 きっと、その名前を見た人は由来に疑問を持つだろう。

 しかし、春樹自身も分からない。

 その名前は、過剰に関わろうともせずにいたのに、まだ生きていてほしかったという猫を埋めている時に、春樹のわずかに湧いてしまった気持ちへの春樹自身の皮肉だった。

 まだ生きていてほしいという気持ちと、もう死んでしまったという考えに板挟みにされた春樹自身への当てつけ。

 春樹は、残った段ボールなどを片手に持ち、その場を去る。

 残ったのは、桜の木の下に刺さった名前の段ボールのみ。

 

 『シュレディンガー』と書かれた段ボールだけが、その場に残された。

 

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