第10話 裁判官が被告人に謝罪した話

 大学の講義で聞いた話である。


 大学1年生のとき、教養で刑法入門の講義をとっていた。私はミステリー好きだったので、何だか面白そうだと思ったのと、知っていたら役に立ちそうだと思ったからである。

 ところが、実際の講義は「罪とは何か、刑法とは何か」という非常に抽象的な内容で、正直に言って面白くなかった。私としては、もっと具体的な内容、現代日本における刑法のあれこれを想像していたのである。そう思ったのは私だけではないようで、講義が始まって30分ほどすると、多くの学生が教科書を枕にしていた。悪いことに、その講義は午後の一番目という、もっとも睡魔が襲ってきやすい時間にあったのである。


 真っ白な髪の毛の教授は、そんな学生の様子などお構いなしに、自分が著した教科書を淡々と読んだり、ハムラビ法典について解説したりしていたように思う。ごくまれに、雑談をすることがあり、その時間だけは割と面白かった。


 そんなある日、唐突に雑談が始まった。

「先日……裁判所で、非常に珍しいことが起こりました。裁判官が始まる前に、裁判官が被告人に謝罪したのです。なぜ、裁判官が謝罪したかというと、手続き上の不備があって裁判をやり直すことになったんですね。これは致し方ないことですが、極めて異例の事態と言えるでしょう」

 被告人ということは、刑事裁判だろう。確か、民事の場合は被告と表現すると講義で言っていたはず。

「ですが、事実認定などに問題があったわけではなかったので、判決は以前と同じく……死刑が言い渡されました。結果に影響はないとはいえ、規則ですからやり直す必要があるわけですね。それでは教科書を開いてください……」

 周囲の学生の反応は薄かったが、私は呆然としてしまった。

 なんて、恐ろしい話なのだろう。裁判官がわざわざ謝罪して裁判をやり直しておきながら、判決は変わらず死刑とは。被告人はどんな気分だったのだろうか。同じ裁判をやった上に、念を押すように2回も死刑判決を言い渡されるとは。判決が変わらないならやり直す必要はない、この精神的苦痛はどうしてくれるのか、と思ったのではないだろうか。

 壇上の教授は、あっさりと雑談を切り上げて講義を始めたが、この話は私の印象に深く残ったのだった。


 このエッセイを書くのにあたって、刑法の教授が語っていた裁判について調べてみることにした。元になった事件が見つかって、確かな根拠を示すことができればそれなりのネタになるはずである。

 珍しい事例だから、ネットで検索すれば出てくるだろう、と思っていたのだが、私の調べた範囲では何も見つからなかった。例の教授はあやふやな事柄を軽々しく口にするような人ではなかったので、嘘を言ったとは思えないのだが。

 ひょっとすると、いや、かなりの確率で私の勘違いだったのかもしれない。

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