プロローグ(2):二人と一匹(?)のお茶会もどき

 蝶が飛んでいた。ひらひらと、まるで風に流されているように。しかし舞い散っているように見える蝶たちはしっかりと羽で空気を捉えて、自分で進路を定めているのだ。

 ふと、一匹の蝶が止まった。髪の毛のように細い足の先には、耳。

 

「あはっ、そこに止まるとくすぐったいです」


 歌うような声で、彼女は言った。するとその一匹の蝶はその場で羽をぱたぱたと大きく動かして、それに呼応するようにくすくすと、くすぐったそうに笑う。


 少しして、その蝶はまた飛び立って彼女の周りをくるくる回り始めた。

 彼女は岩の上に腰を下ろしながら蝶たちを目で追いかけ、にこにこと楽しそうに笑顔を見せる。そして時折、思い出したように手に持った手帳にさらさらとペンを走らせる。


 端からは蝶と戯れているようにしか見えない少女。

 その彼女こそが、調査人のマルカさんその人だった。


「ごきげんよう、調査人の御嬢さん」


 マルカさんはやぶの中に入ってちょっと歩くとすぐに見つかった。

 うさぎさんはバスケットからぴょんと飛び降りると、やや声を張ってマルカさんに呼びかけた。


 その時だった。マルカさんの周りをひらひらと飛んでいた蝶たちがびくっとその身体を跳ねさせると、あちらこちらへと散ってしまった。

 そのうちの何匹かがリシェの方に飛んできて、しかし私のことを避けようともせずに、そのままリシェの身体を通り抜けていった。

 リシェは半ば反射的に後ろを振り返る。視線のはるか先で、小さな点がどんどん遠ざかっていくのが見えた。


「あの子たちも、帽子の兎さんと同じで妖精なんです」


 やはり歌うような声だった。きびすを返すと、マルカさんが飛び降りたところだった。


「だから、実態を消してああいう風にすり抜けることもできるんですよ」


 マルカさんはうさぎさんを片手でひょいと持ち上げると自分の方に乗せて、そのまま私の傍までやってきた。年齢は分からないけれど、幼い顔立ちで背の低い、しかし子供っぽさを感じさせない人だった。


「ちなみにですが、私もやろうと思えばすり抜けられますよ。まあ、疲れますしやることはめったに有りませんが」

「帽子の兎さん、ごきげんようです」


 マルカさんは首をうさぎさんに向けると、指先でうさぎさんの顎をなでた。うさぎさんは帽子を押さえながら、くすぐったそうに目を細めた。


「どうしたんですか、ついさっきぶりじゃないですか」

「いやね、紅茶の御嬢さんが貴方に会いたいと言っていたのでね、ここまで案内してきたんですよ」

「あら、そうなんですか?」


 マルカさんは少し驚いたように言うと、再びリシェの顔を見た。彼女の垂れ気味な大きな瞳に自分の顔が映っているのをリシェは見た。


「どうかしましたか、リシェさん?」

「……私の名前、憶えてる」

「はい、もちろん」


 にっこりとほほ笑むマルカさん。

 その表情は大変可愛らしかったけれど、それ以上に、なんというか、こちらを穏やかにさせてしまうような魅力があった。


「わたしは調査人ですからね、記憶力は良くないと務まらないんです」

「でも、最初に会った時に名乗ったきりでしょ?」

「一度聞けば十分です。固有名詞ならそれで覚えますよ」


 マルカさんはリシェの手を引くと、「座って話しましょう」とさっきまで彼女が腰を下ろしていた岩に座らせた。その隣にマルカさんも座る。


「そこの農園のお手伝いですか?」

「うん、そう。……ご飯を届けるのがリシェの仕事なの」

「そうですか、それは偉いですね。お昼はもう食べました?」

「うん、お家を出る前に」

「なるほどなるほど」


 マルカさんはそうやって頷くと、岩の上に置いてあった雑嚢から布に包まれた円柱状のものを取り出して、リシェに手渡してきた。


「どうぞ、私が後で食べようと思っていたクッキーです。村長さんの奥様が焼いてくれたんですよ」


 布をめくると、ふわっと甘い、砂糖とバターの混ざった香りがリシェの鼻をくすぐった。間違いない、村長の奥さんの焼いたクッキーに間違いなかった。

 村長の奥さん――リコリさんのクッキーと言えば、この村では嫌いな人のいない、みんなの大好物だった。


 定期的に焼いて皆に配ってくれるのだけれど、村のみんなが欲しがるせいでなかなか順番の周ってこない貴重な品だ。

 それが、ひい、ふう、みい――八枚も!


「い、いいの? マルカさん」

「はい、どうぞ。あ、じゃあ二枚いただいてもいいですか? わたしと帽子の兎さんに一枚ずつ」

「もちろんです。……え、六枚もいいんですか?」

「はい、どうぞ」


 マルカさんはクッキーを二枚つまむと、一つを膝の上に降りてきたうさぎさんに手渡した。うさぎさんはクンクンと鼻を動かしてから一かじり――そしていつもの紳士然とした態度はどこへやら、夢中でクッキーにかじりつきあっという間に平らげてしまった。


「美味しい! これは美味しいですよ! 美味しいです!」


 もうすっかり語彙が消えてしまっていた。

 マルカさんはクッキーを齧ろうとして、物欲しげに見つめてくるうさぎさんの赤い瞳に気付いた。少し悩んでからクッキーを半分に割って、その大きい方をうさぎさんにあげた。


「いいんですか? 調査人さん」

「はい、わたしは以前に貰いましたから。それにわたし、さっきお昼を食べたばっかですもん」


 うさぎさんはこれまたすぐに完食すると、口の周りのかすを拭ってからお腹をさすって、けぷっ、下品にげっぷをした。


「あははっ、帽子の兎さんったらはしたないですよ」

「おおっっと……これは失礼。おほん、おほん。美味しいものを食べる時は、どうにも体裁を忘れてしまうんです」

「それでいいと思いますけどね、わたしは。美味しいものを美味しいって言える方が、ずっと凄いと思います。……げっぷはさておき、ですけどね」


 マルカさんは苦笑。うさぎさんもそれを受けて、目頭の辺りをぐっとしかめた。これはいったいどういう感情の表情なのだろう?


「それで、紅茶の御嬢さん。御嬢さんは食べないので?」

「こら、帽子の兎さん。人のものをせびっちゃだめですよ」

「い、いやっ。そういう訳ではないのですが……」


 目に見えて狼狽えるうさぎさん。もう紳士然とした態度はかたなしだった、それがおかしくて、リシェは小さく笑った。


「私だけ食べちゃうのはちょっとずるいから……持って帰って、家族と一緒に食べようと思って」

「それは良い考えですね!」両手をぽんと顔の前で合わせて、何故か心底嬉しそうに、マルカさんは頷いた。「ぜひ、お家のご家族に持って行ってあげてください」


「いいですか?」

「勿論!」


 マルカさんはリシェの手の中のクッキーを取り上げると、割れないように丁寧に包みを付けなおして、バスケットの中に入れてくれた。「あ、そうだ!」とマルカさんは何かを思い出すと、雑嚢の中からまた別の包みと小瓶を一個ずつ取り出して、それもリシェのバスケットに入れてくれた。


「マルカさん、これは……?」

「わたしのおやつです。マフィンと砂糖漬け。これもどうぞ、食べてください」

「あ、ありがとうございます……」


 リシェは勿論嬉しかったけれど、困惑の色の方が強かった。

 どうして、今日初めてまともに話した私にここまでしてくれるんだろう……?


「実はね、リシェさんのお父さんたちにお世話になってるんですよ」


 リシェの表情から考えが伝わったのだろう、マルカさんは少し背中を丸めてリシェと視線の合わせて、穏やかに微笑んだ。


「この辺りで調査をしてると、たまに林檎を持ってきてくださるんです。だから、その恩返し」

「私も、その林檎を一緒に頂くことがあります。いやあ、あれは絶品ですね」


 耳を押さえつけているのは疲れるのだろうか、うさぎさんはシルクハットを取って耳をぱたぱたと動かした。

 なら帽子を被らなければいいのにとリシェは思うけれど、『帽子の兎族』と呼ばれるくらいだ、そうそう簡単にいかない事情があるのだろう。


「ほんと、そこの農場の林檎は美味しいですね!」マルカさんも、うさぎさんに同調した。「正直な話、林檎はどこで食べても大して変わらないだろうと、そう思ってたんですよ。侮ってたんです。ですけれど、ここの林檎は本当に美味しい! 全国一ですよ!」


 言いながら、段々とマルカさんの目がキラキラと輝いていった。きっと林檎の味を思い出したのだろう。


 マルカさんの意見は当たり前だ、とリシェは思った。この村は全国でも有数の林檎の名産地なのだ。世界中からその林檎の美味しさは保障されているし、またそれに値するだけの手間と苦労を掛けていることを知っている。


「だから、もうわたしは他の所で林檎を食べられないかもしれません。ここの味を思い出しちゃうから」


*


 それからリシェは、マルカさんから色々な話を聞いた。

 全国を旅しながら調査人として活動しているマルカさんの話は、どれもリシェには刺激的で、また魅力的だった。


 さっきの蝶はマボロシチョウという名前だということも教えてくれた。

「そのまんまの名前なんだね」とリシェが言うと「そうなんです」と頷いた。


「人ならざるものは種類が多いし特徴も様々だから、なるべく分かりやすい名前を付けるんですよ。名前で特徴がそのまま表されているような」

「そういえばさっき驚かしちゃったみたいだけど、……平気かな?」

「妖精種はあまり人の前には姿を現さないんですよ。驚かしちゃったことは確かですけど、それで怒られたりはしないので安心してくださいね」

「人前に姿を現さない……?」


 リシェはマルカさんの膝の上に視線を移した。だけれどそこにはうさぎさんはいなくて、きょろきょろと辺りを見渡すけれどどこにもその姿は無かった。


「『帽子の兎族』は純粋な妖精じゃないので、少し違うんですよ。……まあ、あの兎さんはその中でも一際変わっていますけれどね」


 リシェの視線の意味に気付いたマルカさんが説明してくれる。純粋な妖精じゃないとはどういうことだろうと思ったけれど、それが前に言っていた『地の力と人の意思が混ざっている』ということだろうか、と思い至った。


「じゃあマルカさんは、どうしてマボロシチョウと仲良くできてたの?」

「それは企業秘密です」


 どうにかして教えてもらって自分もマボロシチョウと一緒に遊びたいと思ったけれど、マルカさんは一向に口を割らなかった。


「ずるい。私もマボロシチョウと遊びたい……」

「あはは、遊んでた訳じゃないんですよ? あれでもちゃんとしたフィールドワークなんです」

「……フィールドワークって、具体的にはどんなことをするの?」

「そうですね……」


 マルカさんは顎に手を当て、少し考え込んでから言葉を紡ぎだす。


「例えば、マボロシチョウみたいな妖精は地の力――自然が豊かな場所にしか生息しないんです。でも、『自然が豊か』の詳しい条件は分かっていないんですよ」


 さあっと、大きく風が吹いた。その風は木々を揺らし、落ち葉をかさかさと動かして、リシェたちの髪の毛を靡かせた。マルカさんは鮮やかな緑の髪を抑えるけれど、腰まである長い彼女の髪はそれじゃ抑えきれなくて、リシェの顔をくすぐったく撫でた。

 なんだろう、不思議な甘い香りがした。


「どれくらいの広さが必要だとか、どれくらいの範囲にどれくらいの植物が無きゃダメとか、そういった細かい条件がまだ分かっていないんです。もしかしたら全然違う条件かも知れない。だからこの辺りの土地の情報を記すんです。それをいろんな場所で繰り返せば共通点が見えてきて、その生息条件が分かる――っていうのが、わたしが今しているフィールドワークです」


 マルカさんは最後に、これはあくまでフィールドワークの一例ですけどね、と付け加えた。


「んー……ちょっと難しい」

「あははっ、まあそうですよね。とにかく調べるんですよ、色々なことを」

「へえー……」


 リシェは曖昧に頷いて、今マルカさんに言われたことをどうにかして自分の言葉に直そうとして、すぐにあきらめて空を見上げた。そして、気付いた。


「…………あっ!」


 マルカさんは不思議そうな顔をして首をかしげる。

 時間。時間だ。すっかりずっと話し込んでしまって、まだ夕方ではないけれど空はお昼よりも明らかに暗くなっていた。


「どうかしましたか、紅茶の御嬢さん?」


 突然太ももの上に重さを感じてそこを見ると、今まで姿を消していたうさぎさんがよっこいしょと腰を下ろすところだった。


「時間! ずっと話し込んじゃった!」


 お母さんに怒られてしまう。それは勿論嫌だけれど、心配をかけてしまうのがもっと嫌だった。

 お母さんが怒るのは、自分のことを心配しているからこそだということを、リシェは分かっていたから。


「ああ、それなら安心してください」


 しかし、焦るリシェと対極的に、落ち着き払った様子でマルカさんはにっこりと笑った。


「それなら、私がさっき御嬢さんのお母様に伝えてきました」胸を張りながら、うさぎさんが言った。「調査人の彼女と一緒にいるから安心していい、と」


「うさぎさん、いつのまに……」

「さっきでございます。私はね、気が利くのでございます」

「わたしがそうお願いしたんでしょう?」


 マルカさんは微笑みながら、うさぎさんを自分の顔の前に持ち上げた。人差し指でうさぎさんの喉の下を弄ると、気持ちがいいのかだらんと全身の力が抜けていく。


「ありがとうございます、マルカさん……」

「いえ、いいんです。……わたしも、ちょっとお喋りしたい気分になっちゃって」


 そう言うと、マルカさんは恥ずかしそうにはにかんだ。彼女の頬がぽっと赤くなる。

 マルカさんはそれをごまかすように「よいしょ!」と大きな掛け声をあげながら岩から降りて、「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」と衣服と髪を整え始めた。私もマルカさんの隣に並んでそれに習った。


「このバスケット、魅力的な香りでいっぱいなのですが……」


 バスケットに飛び込んだうさぎさんが、物欲しそうな声を上げる。マルカさんが「食べちゃダメですよ」と言うと、「ええっ! そんな、生殺しでございます……」と寂しそうな表情をのぞかせた。


「じゃあ、こうしましょう」


 マルカさんは再びうさぎさんを持ち上げると、未練がましそうにバスケットの中を見つめるうさぎさんを両腕で抱えて歩き出した。


「これならもういい匂いはしませんよね?」

「余計に未練が残るだけでございます……」


 リシェは、マフィンや砂糖漬けは自分のものではなかったのでうさぎさんにあげてもよかったけれど、「駄目だよ、リシェちゃん。甘やかしちゃ」とマルカさんが言ったので、言われるがままバスケットに伸ばかけた手を元に戻した。


「そんな、調査人さま……」


 顔に皺を一杯作ったその顔は泣きそうになっているのだろうということは流石に分かった。そんなうさぎさんに対して、マルカさんは喉をなでるだけだった。


 これがリシェの、一週間前にこの村を経った旅の調査人・マルカとの思い出だった。

 その後も何度かフィールドワーク中にうさぎさんと一緒にお邪魔して、お茶したり散歩をしたりした。この日以外にもいっぱい楽しい思い出はあったし、ある日は全身が燃えているように見えるのに周りに引火しない不思議な鼠を見つけたりと貴重な体験をしたけれど、後の日になってマルカさんのことを思い出そうとすると呼び起こされるのは決まってこの日の思い出だった。

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