人ならざるもの調査紀行
ヤマナシミドリ/ 月見山緑
プロローグ(1):林檎の村と調査人
自宅から十分程歩いたところにある農場で働くお父さんに、お弁当と水筒を届けるのはリシェの仕事だ。
別に、この仕事は絶対に必要な訳ではない。リシェで十分なのだから、お父さんは五分足らずで家に昼食を摂りに帰って来ることはできる。それはリシェにも分かっていた。だけれども、林檎農家のお父さんの力に少しでもなりたくて、誇らしいお父さんの仕事に少しでも加わりたくて、リシェは毎日欠かさずその仕事をこなしていた。
必須な仕事ではない、だけれどもお弁当を届けるとお父さんは嬉しそうに笑ってくれるし、お父さんの同僚は「毎日偉いねえ」とか「俺もこんな娘が欲しいよ」とかごつごつの手で頭を撫でて褒めてくれる。それもまた、リシェが農場へと通う理由の一つだった。
今も、お父さんにお弁当を届けた帰りだった。リシェは軽く舗装された道を、自分の髪の毛を手櫛で直しながら歩いていた。
トマスおじさんはリシェの鮮やかな紅茶の様な髪の毛を撫でるのが好きらしかった。今日も褒められながら何度も何度も撫でられて、髪の毛がくしゃくしゃになってしまった。
大きくてあったかい手で頭を撫でられるのは気持ちいい。だけれど、もうちょっと加減をしてほしい。確かに日の光を吸いこんで黄金にきらきらと光るこの髪は、わたしの自慢だけれど……。
「ああ、ごきげんよう紅茶の御嬢さん。今日もお使いですか?」
ふと、声を掛けられた。突然のことだけれど驚きはしない。
農園の近くを歩いていると彼に声を掛けられるのは、もうリシェにとって当たり前のことになっていた。
「こんにちは、うさぎさん。あのね、お使いじゃなくてお仕事って言って欲しいな」
リシェは声のした方へと首を向ける。すぐ傍の木の根元だった。
そこでは、シルクハットの様な帽子をかぶった真っ白なうさぎさんが、じっとリシェの顔を見つめていた。彼の長くて大きな耳は、シルクハットに押しつぶされて頭の横に垂れ下がっている。
うさぎさんはリシェが首を向けると帽子を取って、まるで都市の貴族のように深々と頭を下げた。
「これは失礼、紅茶の御嬢さん」
「その紅茶の嬢さんってのも辞めて欲しいな。私はリシェって名前があるの」
このやり取りも毎回のこと。
うさぎさんは、何回何回自己紹介してもリシェのことを『紅茶の御嬢さん』と呼ぶのだ。
髪色から『紅茶の御嬢さん』と呼ばれるの嫌ではなかった――正直言えば嬉しかった。
お母さんのような純粋な金髪の方が羨ましかったけれど、「その髪色はお母さんの金髪とお父さんの茶髪が混ざったものなんだよ」とお父さんに言われてから、これはリシェの誇りだった。
優しいお母さんとかっこいいお父さんから生まれたというリシェの誇り。
紅茶色と言われるのはそれを肯定されるのと同義だったけれど、それでもしっかりと名前で呼んでほしかった。
これも両親からつけてもらった大事な名前だったから。
「申し訳ありません、紅茶の御嬢さん。だけれど私たち帽子の兎には、人の名前を呼ぶことができないのです」
うさぎさんは目じりをきゅっと下げて、鼻をひくひくと動かした。どうやら申し訳ない表情をしているらしい。
彼のこの弁明も毎度のこと。どうしてと聞くと、「掟……の様なものでしょうか。そういうルールがあるのでございます」と返すことも知っている。
ここまでのやり取りが、リシェとシルクハットを被ったうさぎさんの挨拶となっていた。このお決まりのやり取りを終えると、うさぎさんはリシェの身体をよじ登って、先程までお弁当と水筒の入っていたバスケットにすっぽりと身体を納めるのだ。
「そう言えば、どうしてうさぎさんは毎日ここにいるの? ここに住んでいる訳じゃないよね?」
うさぎさんは毎日リシェと一緒に村まで降りると、深々と頭を下げてからどこかへと消えていく。その方向は毎日違うので、彼がどこに住んでいるのかはリシェは知らない。
「はい、私の住処は森でございます。私たち一族は、皆がこの山と反対の森に住んでおります」
うさぎさんは帽子を落とさないように押さえながら、答えた。
「じゃあなおさら、どうしてここにいるの?」
「調査人の彼女と一緒にお食事をしていたのですよ」
「調査人って……マルカさん?」
「はい。いやあ、彼女は良い人ですね。我々と人間を差別しない、とても気の良い女性です」
調査人。言葉の意味だけでnば、調査をする人。だけれどそう言葉のまま捉える人はこの国にはいない。
調査人とは、すなわち人ならざる存在を調査、研究する人々のこと。人ならざる存在――例えば今リシェのバスケットから顔を出しているうさぎさんのことだ。
彼はそのまま『帽子の兎族』と言い、特徴もそのまま帽子を被った兎の姿をしている。
帽子の兎族は動物というよりは妖精に近い存在で、自然の豊かな村や集落に姿を現すとされている。自然の持つ地の力と人の意思が混ざり合って生まれた存在で人に危害は与えない、むしろこの土地が優れていることの証明だ――マルカさんはこの村にやってきてすぐ、村人みんなの前でそう説明してくれた。
帽子の兎族は、リシェのおばあちゃんの代からずっとこの辺りに住んでいて、一度も衝突することの無く共存してきた。だから彼らを危険視している村民は一人もいなかったけれど、土地が優れている証明と言われて大人たちはどこか誇らしそうにしていた。
こういった人以外の種族の特徴や生態、起源や危険性を調査するのが調査人の仕事だった。国から遣わされた調査人がほとんどだけれど、マルカさんはフリーだと自称していた。
どこにも所属せず、調査結果を研究機関へと売って生計を立てている調査人も少なくはない。
「私のことを調査すると聞いた時は良い気はしなかったのですけれどね、その実態は一緒に食事やお茶をするだけでして。しかも調査のお礼だと言って何から何まで向こうが準備をしてくださる。いやはや、ここしばらくはすっかり毎日が楽しくなってしましたよ」
やや興奮気味にうさぎさんは言った。
うさぎさんが言うように、マルカさんはまだ若い、ともすれば子供に見えてしまうような小柄な女性だった。
いつもにこにこと可愛らしい笑顔で、誰に対しても丁寧な物腰で話す。勿論リシェに対してもだ。
私はまだ子供なんだからもうちょっと砕けてもいいのに……。リシェがそう感じるくらい、マルカさんは真面目な人だった。
「あれ? でも、マルカさんのお家はここじゃないよ?」
マルカさんは、確か村長のお家に厄介になっていたはずだ。
この農村には宿が無いので、旅人がやって来た時は誰か余裕のある人の家に泊めてあげるのだ。
「はい、調査人の彼女はこの時間帯はいつもフィールドワークでございます。ですから、私がそこに出向いて一緒に食事を採るのですよ。もうしばらくすると調査人の彼女はご自宅へと帰りますので、そうしたらお茶をするのです」
「へえ、フィールドワーク……」
そういえば、とリシェは思った。
マルカさんの仕事風景は、一度も見たことが無い。
彼女がこの村にやってきた際に挨拶をしに行ったことはあるけれど……。
どんなことをするんだろう?
「もしかしてですが、紅茶の御嬢さん。調査人の彼女のことが気になっておいでですか?」
「まあ……少しは気になるけど」
「じゃあ今から会いに行きますか? 彼女ならすぐ近くにいらっしゃいますけれども」
どうしよう。リシェの心が大きく揺れる。
直ぐに帰った方が良いのは言うまでもない。お弁当を届けに行っていつまでも帰ってこなければ、この平和な村とは言えお母さんは心配するだろう。
だけれど。
だけれど、お父さんの仕事場に行って、みんなとおしゃべりしたり仕事を少し見学したりして帰りが遅くなるのはままあることだし、少し、ほんの少しお喋りしてから帰れば平気かな。
リシェは好奇心には逆らえずにそう判断をすると、うさぎさんの耳をちょん、と触った。
「うさぎさん、マルカさんのところに案内して」
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