第三章

第三章

そういうわけで、杉三と水穂のパリ滞在が開始されたのであるが、水穂の体調は一向に良くなる気配がなかった。それどころか、ますます弱っていくようである。

お昼過ぎ、トラーが食器を片付けている時であった。いつも通り、蕎麦掻の器を洗い始めた彼女だったが、

「今日も、これだけか。だんだん、食べる量が減ってきちゃったなあ。やっぱり食欲、落ちてきちゃっているのかなあ。」

器の中身を確認して、トラーはため息をついた。

と、その時。

「おーい、いいものを買ってきた。日本独自の食べ物だって。これだったら喜んで食べてくれるかもしれないよ!」

チボーが、いきなりドアを開け、台所に飛び込んでくる。

「な、なに。どうしたの。」

「いや、先ほど、バイオリンのレッスンの帰りにね、シャンゼリゼ通りの万事屋にこんなものが売っていたので、買ってきたんだよ。なんとも、最近健康食品志向で、日本の食べ物が流行り始めてきたので、うちも仕入れたと、おじさんが言っていた。」

と言って、チボーはビニール袋をトラーに見せた。中には、サイコロを少し大きくしたくらいの大きさの、灰色ともベージュと似つかない色の、塊がたくさん入っていた。ビニール袋には「Tofu」と書いてあった。

「とふ?何よこれ。こんなのがりがりで、硬くて食べられないわ。」

「いや、お湯をかけて、柔らかくして食べるんだって。いつも蕎麦掻ばっかり食べていて、少し飽きたと思うから、これで気分転換したらどう?喜んで食べてくれるのでは?」

「ちょっと待って。味はどうするの?トマトソースでもかけて食べるの?」

そういわれて、チボーはがっくりと落ち込んだ。見つけたときに興奮しすぎて、万事屋さんに味付けを聞くのを忘れていた。

「ごめん、聞いてくるのを忘れていた。なんの味をつければいいのかは、全く分からない。」

肝心なことを忘れてしまって、これではだめか、とチボーはため息をついた。

丁度そこへ、

「ただいまあ。行ってきたよ。お皿何て、すぐに買えるから、気にしないでいいからね。なんてマークさんが言ってくれたけどさ、こっちでは可愛いものが多いので、ずいぶん迷ってしまった。遅くなってすまん。」

「て、杉ちゃんが柄についてああだこうだとうるさく言うからだよ。」

と、言いながら、杉三とマークが戻ってきた。トラーがお皿を洗っておいたから、と伝えると、杉三はありがとうよ、と礼を言った。チボーがどうしたんですかと聞くと、調理していた時に、杉ちゃんがお皿を落として割ってしまったので、新しいものを買いに行ってきたとマークが答えた。

「はれ、こりゃなんだ。このサイコロみたいなやつ。」

と、杉三がテーブルの上にあったビニール袋をとった。

「いや、さっきチボーがね、万事屋さんで買ってきたんですって。だけどこれ、どうやって食べたらいいのかしらね、、、。味付けの仕方を聞いてくるのを忘れてしまって。」

「はい、何でもとうふというもののようですが、お湯をかければすぐに食べられる健康食品だというので、買ってきたんですけどね。すみません。日本の食べ物と聞いて、これはすぐ食べさせてやろうと思ったばっかりに、肝心な味付けを忘れてしまいました。」

トラーとチボーが相次いでそう説明すると、こう答えが返ってきて、やっと納得がいった。

「はあ、こりゃ、とうふというより、高野豆腐だ。豆腐というものは、日本では何十個も種類があって、ただの豆腐というものはないんだ。それに、お湯で戻して、食べる豆腐のことは、高野豆腐という呼称が一般的だからな。たぶん間違えたんだろう。お湯をかけて戻しただけという食べ方は、基本的にしないで、醤油とかなんかの調味料で、煮込んで食べるのが一般的だよ。ニンジンとか、大根、ちょっと牛肉なんかも入れてね。まあ、言ってみりゃスープの具と言えばいいのかな。」

「醤油というものは無いけど、チキンブイヨンで煮ては食べられない?」

「もちろん、それでも食べられるよ。しっかし、こっちで高野豆腐が食べられるなんて、たいしたもんだぜ。本当に、びっくりだ。次はぜひ、納豆を探してきてやってよ。」

最後の一文だけ余分だが、とにかく豆腐が食べられるということは栄養的に言って、画期的な進歩であった。それだけは、はっきりしている。

「よし、晩御飯はこれを煮込んで食わせよう。これで蕎麦掻ばかりではなく、高野豆腐も出してやれるぞ。」

「杉ちゃんのその喜びようが、本当に貴重な食品なのを伝えてくれるんだな。」

と、マークが、面白がって笑った。

その日の晩御飯は、杉三が、高野豆腐をチキンブイヨンで煮込んだ煮物を制作した。マークもトラーも生まれて初めて食べたが、なんだかスポンジケーキみたいな食べ物だなと感想を漏らした。そのあと、トラーが、水穂に煮物をもっていったが、名前を忘れてしまったが、何とかとうふという食べ物が発売されたと聞かすと、表情が変わり、穏やかに食してくれた。やっと、日本独自の食べ物が食べられてうれしかったのだろう。


翌日。杉三とマークが、また買い出しに行って、帰宅した時の事である。居間の中でガタゴトと工具の音がするので、何だと思ったら、なんと、居間にテレビが設置されていた。チボーが、工具をもって、コードをつなげたり、アンテナをつけたりして、映るように設定をしていた。

「お、おいどうしたんだよ。テレビはあんなに嫌だ嫌だと言っていたのに、なんでまた。」

マークが思わずそういうほど、トラーはテレビが嫌いだったのだろう。その彼女が、またテレビをうちの中へ持ち込んだので、ある意味大丈夫かと彼女を心配してしまうほどである。

「いやですね、お兄さん。昨日家のものが、テレビを買い替えたんですよ。それでこのテレビを処分しようと思ったんですが、なんだかまだまだ映りますので、捨てるのにも、もったいないなと思っていたところ、トラーが、もしいらなかったら、うちに頂戴というものですから。ほかに欲しがる人もいなかったので、ちょうどいいやと思い、持ってきました。」

とはいうものの、テレビはかなり大きなテレビで、それを置けそうなテレビ台がマークの家にはなく、仕方なくテレビの入っていた、大型の段ボール箱の上にテレビを置いて、テレビ台代わりに使っていた。

「な、なんだか、テレビを段ボール箱の上に置いているというのが味気ないなあ。」

「意外にいいかもよ。ミスマッチで。出来合いばかりの部屋の中に、ひとつだけ未完成のものがあるっていうのはよ。」

杉三はカラカラと笑っている。

「しかしなんで、あれだけテレビを嫌っていたトラーが、いきなりテレビなんかもらう気になったんだろうか。」

「いや、違います。お兄さん。僕はあくまでもテレビを処分するために、家電屋にでも行くつもりで、外へ出たんですよ。その時、ごみ捨てにでたトラーと会ってしまって、その大きな段ボールは何だと聞くので、僕が事情を話したら、トラーがテレビを欲しいとしつこいぐらいに言うものですから。決して、テレビを押し売りするつもりだったとか、そんなことはありません!」

マークの問いかけに、チボーは慌ててそう答えた。

「と、言うことは、それほどテレビが嫌いだったんだねえ。とらちゃんは。僕も正直言うとテレビは嫌いだよ。どうも、やたらうるさいし、気にしなくていいことまで気にさせるので、すきじゃないんだ。もっと楽しませてくれる道具ならいいのにな、最近のテレビはそうでもなくなってきているからよ。」

「そうなんだよ、杉ちゃん。トラーもよくそんなこと言ってた。でも、少なくとも日本のテレビはさほどくだらない番組は少ないと思うのだが、、、?」

杉三の発言にマークはそう聞いたが、

「うーん、まじめすぎるっていうか、極端すぎるかなあ。バカな番組は徹底的にバカだし。こんな番組放送して、何になるんだよっていう番組も数多くあるし。そっちの方が多いかも。ただな、今頃日本のテレビは、地震の話で大騒ぎ、じゃないの?全部の局が地震の話一色。それ以外の番組は一切禁止になってしまう。時には、それで番組が打ち切りになることもあるよ。災害後の倫理観に反するとか言ってね。」

と、明るい顔をして杉三が答える。

「はあ、厳しいなあ。こっちでも、地震が起きたのはいろんな局で報じられたよ。フランス国内でも災害はあるけれど、全部の局が一斉に同じ災害を扱うことはないな。それに、災害はあっても、有名な番組は、取りやめにならず、放送されるが、、、。」

「まあな、それはたぶん、日本のテレビ番組は軽い気持ちで作れるが、災害があって初めて有害な番組だと気が付くんだと思う。」

「それも又おかしいねえ。」

マークは、設置されていくテレビを見て、苦笑いした。

「よし、できましたよ。これで映ると思うんですが、どうですかね。テレビを設置したのは久しぶりでしたので、かなり難しかったのですが、どうにか思い出してやっとできました。」

チボーが、テレビの設置を完了して、電源スイッチを入れた。しばらくモーター音が鳴って、美人のアナウンサーがニュースを読み上げているのが映った。

「あれ、リモコンは?」

「いや、どこかで紛失してしまったみたいで、探しても見当たらないんですよ。」

「まあいいわ。電源とチャンネルの切り替えさえできれば。よし、シンプソンズが始まるのは、このニュースの後よね。あと10分あるから、その間に、水穂を連れてこよう。」

「ちょっと待て!お前あれほど嫌っていたあの番組またみるの?」

トラーがそう発言すると、マークがそう制した。マークからしてみれば、心配でしょうがないのだが、

「そうよお兄ちゃん。早くしないと始まっちゃうから、止めないでよ。」

と、トラーは客用寝室へどんどん行ってしまった。

「いや、す、すみません。なんでもですね、トラーが、水穂さんに、シンプソンズ見せてやりたいって言い出したもんですから、僕もテレビを渡さざるを得なかったんですよ。トラーが、水穂さんが狭い部屋で天井とエアコンだけが話し相手じゃ寂しいだろうから、テレビでも見て、気を紛らわせたらどうかというもので、、、。」

「ま、確かにその取り組みは間違ってはいないけどさ、見せる内容がおかしいのではないかなあ、あんなおかしなテレビアニメ、見てもしょうがないと思うのだが、、、。」

チボーがそうわけを話すと、マークはうーんと考え込んだ。

「なんだそのシンプソンンズって?」

杉三が口を挟む。

「いや、今、アメリカとヨーロッパで大人気の子供向けテレビアニメなんですよ。20年くらい放送が続いている長寿番組ですが、結構物議をかもしたことでも有名なテレビアニメです。例えば、厳格な学校では、シンプソンズの絵が付いた服を、学校に着てはいけないという規制が出たりして。」

チボーはそう説明した。

「ああ、サザエさんと同じようなものか。」

「いや。あんなのんびりしたテレビアニメより、もっと過激なアニメですよ。」

「へえ、ゴジラとか、そういう感じの?」

「いや、そういうものじゃなくて、基本はサザエさんと似ていますが、もっと政治家とか、宗教家などを役に立たないと皮肉っているアニメです。時に、一部の宗教を批判しているとか、人権侵害的な発言が多いとかで問題になります。」

そう、杉ちゃんとチボーが、話していると、トラーが水穂を背中に背負って戻ってきた。

「ほら、もう始まるから、ソファで寝ててね。いま、お茶持ってきてあげるからね。」

と言って、トラーは水穂をソファーの上に寝かせる。ちょうどその時に、シンプソンズのオープニング映像が流れた。テレビは当然のことながらフランス語で流れるが、水穂には大体理解できた。

「布団位、かけてやってよ。寒いだろ。」

マークが急いで注意すると、

「わかってるわよ、お兄ちゃん。すぐに持ってくるから、うるさく言わないでよ。」

トラーは、ムキになって一度部屋に行き、毛布をとって戻ってきた。そして、すぐに水穂の体にかけてやった。

「何を言っているかはわからないが、このキャラクターの作りは面白いなあ。なんかどっかに居そうなおじさんを、極端化しているような気がする。」

杉三がそうつぶやく通り、このテレビアニメは、完全に現実離れせずに、どこかでありそうだなあと思わせるエピソードを使うのが面白いところである。ただ、そこがやっぱり日本では受けないのかなあとも思わせる。

「全く、日本では完全に現実離れしないと受けないのよ。おっきな怪獣が出て、かっこいいのがそれをやっつけるとかさ。それよりも、こういうやつのほうが言葉はわからなくても面白いよ。」

「あ。そうですね。それ、何となくわかります。特に、可愛い女の子が、ヒーローになって、わけのわからない、怪獣を倒すというのばっかりですね。こっちでもたまに放送されたことがあって、僕もたまに見ましたけど、結局全部同じパターンで面白くなかった気がしましたよ。」

チボーが意外な知識を披露したので、マークも杉三もびっくりした。

「そうなのよ。せんぽ君。せいぜい、違うのはキャラクターの名前と、容姿ぐらいなもんよ。あとのコンセプトは大昔から変わらない。大昔の怪獣映画と、今の魔法少女アニメなんて、キャラクターこそ変わっているが、内容はほとんど一緒だからね。例えばさ、どっかで個性的な人物を出すとか、そういう工夫っていうのがほとんどないのよね。だからいつも同じパターンで面白くないのよ。アニメだけではなく、テレビドラマとか、映画もそう。もうちょっと、監督さんの個性が出れば、いいのになあ。」

「そうですねえ。もっと色んな展開があってもいいですよね。逆を言えばそういうのがないから、地震が起きたりしたときに、一斉に打ち切りになったりするんじゃないんですか?」

「おう!そうなのよ。テレビも、もうちょっと多様化してくれれば、いいのになあ。日本はどうしても、おんなじ色に染まっちゃうのが好きなのよねえ。朱に交われば赤くなるという、名文句があるように。一匹一匹がそれぞれの面白さをという番組は、ほぼ皆無と言っていいかもよ。」

「チボ君も意外なところで、面白いところがあるものだあな、、、。」

思わず、そんなことを呟いてしまうマークだった。自分もまだまだ、彼のことを知らな過ぎたのかと反省する。

一方、トラーは水穂と一緒に、シンプソンズを見ていたが、久しぶりにテレビを眺めて楽しいな、でも、たったの30分で終わるのはつまらないわ、なんて思っていると、番組が後半に差し掛かったところで、水穂がせき込みだした。酷くせき込んでいる様子ではないので、大丈夫かなと思ったが、最終的にはテレビの音はほぼ、聞こえなくなった。でも、何とかエンディングまで観ることはできたので、とりあえず今日はよかったのかなとおもった。

「終わったら、すぐに戻してやって頂戴よ。30分見てもかなり疲れたと思うから。」

マークが心配になってそういうと、トラーは、はいはいと不服そうに言いながら、水穂を再び背中に背負って、部屋に戻してやったのであった。


その夜。

晩御飯を食べて杉三が客用寝室に戻ってくると、

「お帰り杉ちゃん。」

と、水穂が出迎えた。

「おう。今日は、咳き込まないなあ。」

杉三が思わずそういうと、

「そうだね。」

と、照れ笑いした。いつもなら、杉三がドアを開けるのと同時にせき込んで返答するのが恒例になっている。

「よし、その調子で明日も頑張ってよい。ところで、今日のテレビアニメは面白かった?」

杉三がそう聞くと、

「うん、面白かったよ。でも、ああいう番組はこっちでは受けるんだろうが、日本では、難しいのではないかな。」

と、軽く笑った。

「それでも、久しぶりにテレビアニメというのを見せてもらったので疲れたよ。」

「まあ、それはそうだろうね。」

杉三も笑い返した。

「何を言っているのかわからなかったが、たぶん青柳教授とかが見たら、面白がるんじゃないかな。」

「確かに。昔の人だったら、ああいうギャグアニメの面白さがわかるかもしれない。少なくとも、回れ右と言えば、全員回れ右をするとは限らないことを知っている世代だと思うので。」

杉三がそういうと水穂もそういう感想を漏らした。シンプソンズは確かに子供向けのアニメとして名高いが、日本ではその通り、大人向きのアニメと言えるかもしれない。大きな怪獣も強力なヒーローも一切出てこないテレビ番組は、日本人には理解しがたいアニメと言えるかもしれなかった。

「でも、僕は素直にあのアニメを楽しいとは思えなかったな。」

水穂は、ほっと小さなため息をついた。

「なんでだ?」

杉三が思わずそう聞くと、

「だってあれはどっちかというと、普通に働いて、普通に家庭を持つことができる階級のアニメなので、その中で起こることをアニメとされても、僕たちみたいな人には面白くないんだよ。」

と、答えが返ってきた。

「そ、そうだよな。確かに、あのドタバタ劇は、幸せであるというか、安定した生活の中で起こることだろうからな。」

杉三もそれに同調する。

「まあ、仕方ない。こっちは日本と違って、大体の人が、普通に生活することができるようになっているし、それを目指そうという傾向も強いからね。特定の階級が、徹底的にやられるということは、少ないでしょうしね。そこらへんを考慮してもらいたかったけど、」

「民族的な違いでなければ、こっちはあまりそういうことは理解されないと思うよ。ただ、面白いから見せてやりたいと、とらちゃんは思ったんだろうし、僕らはその好意をしっかり受け取って、楽しもう。」

「そうだねえ、、、。」

水穂は少し考えたが、杉三がそう明るく解釈した。

パリの夜は静かだった。深夜営業している店は全くないので、車が走っている音も聞こえてこない。聞こえてくるのは、夜行性の鳥の声くらいなものだ。本当に豊かで幸せな国家だなと、杉三たちは思うのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る