第四章

第四章

「よくせき込むわねえ。大丈夫?今日特に寒いから、仕方ないのかな。」

昨日楽しそうにシンプソンズ見てたのに、と言おうと思ったが、さらにせき込むので言わないで置いた。

「ほら。もう一個、頑張れる?」

トラーは高野豆腐をフォークで刺して、水穂に差し出したが、咳き込んで食べるどころではなさそうであった。今日は仕方ないかとあきらめて、フォークを元に戻した。

「薬とって。」

それだけやっと発言してくれたので、まだよかったと思った。

「これでいいの?」

枕元にある薬の袋を見せると、水穂は咳き込みながら頷いた。本当は吸い飲みに入った水で溶かして飲ませるのが確実に効くのであるが、ここにはその吸い飲みがない。仕方なく、ティーポットを代用品として、薬を水の中に入れて溶かした。水は薬を混ぜると、不気味な青い色に変わった。

「ほら。」

と、口もとへもっていくと、柳の枝に飛びつく蛙のように、中身を飲み込んだ。そして、礼をいうこともなく、ベッドに倒れ込んで、静かに眠り込んだ。たぶんきっと、この後恒例の「呻り」がやってくるんだろうなと予測したトラーは、ほかに安全な手段はないものだろうか、と、布団をかけてやりながら、真剣に考え込んでしまった。

「おーい、そろそろ行く時間だよ。何をしているの?」

不意に部屋の外でマークがそう呼んでいる声がした。あ、そういえば今日は自分も病院に行くんだっけ。最近は面倒くさい行事の一つになっている。以前は、まるで聖地に行くかのように、病院にいり浸っていた時もあったが。しかし、ここであることを思いつく。ここに行けば、何か他の手段を考えてくれるかもしれない!

そう思いついたトラーは、こっそり、枕元にある薬の袋を持ち、部屋を出た。

玄関先では付き添いとして、チボーが待っていた。マークは妹が病院に行くときは、必ず誰かが付き添うようにさせていた。一般的な内科とか、そういうよく知られている診療科であれば、基本的に一人でも大丈夫な年齢であるが、トラーの通っている診療科では、薬を乱用する可能性もあり、できる限り家族が付きそうか、できない人は友人や親せきに頼んだり、専門の手伝い人雇ったりすることが義務付けられている。そんなわけで彼女の付添人はチボーが名乗り出ていた。トラーは何気ない顔をして、チボーとタクシーに乗って病院に行った。マークにしてみれば、最近面倒くさいと言い始めたので、また心配になっていたところでもあり、今回はすんなりいってくれてよかったと、安心していた。

病院に到着すると、二時間近く待たされて、担当医のベーカー先生のいる診察室へ入った。正直に言うと、トラーはこの禿げ頭でひょろっとしているベーカー先生が嫌いだった。貫禄のない顔をしている割に、パリ市内でも有名な信心深い性格で、何かあるとすぐにキリスト教の話を始めるので、それがうるさくてしょうがないのである。

「どうもです。どうですか。変わりありませんかな?」

「はい、変わりありません。」

できる限りぶっきらぼうに答えるようにしている。でないとまた、変な言いがかりをつけられて、説法が始まってしまう。ベーカー先生にしてみれば、患者さんを助けるのにはこういうものに頼るしかないと考えているようで、説得に必死になるのだが。ありがたいと言ってくれる患者さんも多いが、トラーは、少なくとも、宗教のお話は好きではなかった。

「で、勉強はどうですか?バカロレア試験に向けて、一生懸命やっているかな?」

「そうですねえ、、、。」

トラーは、口実も思いつかずに黙ってしまった。

「あら、また怠けているのですかな?」

わあ、これではベーカー先生の説教が始まるぞ、と、覚悟を決めなければならなかった。なので、

「はい、怠けているというか、日本から友達が二人来ているので、二人と一緒に何かしています。」

と、正直に答えた。この次には、それはいけませんよ、ちゃんと自分の時間も作って勉強するように、なんて言われることはすぐに予測できた。ベーカー先生、人間は神様に逆らわないために、労働したり、学問するのが一番良いのだと思っていらっしゃるようなので、、、。それだけは避けたいと思った彼女は、鞄の中から、水穂が持っていた薬の袋を取り出して、

「あの、先生。この薬なんですけど。」

と、ベーカー先生に見せた。

「何ですか、これは。」

と、ベーカー先生の顔がさっと変わる。

「これは一体、何に使う薬なんでしょうか。教えてください。」

トラーが質問すると、ベーカー先生は、深刻な顔をして、こう発言した。

「これはですね、ヨーロッパでは使用禁止になっている、とても危険な睡眠薬です。昔はね、ひどく重度な発作を起こすような人を、とりあえず沈静化させたり、重大な手術の恐怖を消したりすることでよく使われていましたが、極端に依存性が高いことと、致死性が高くて自殺の道具として名高いと言われたため、使用禁止になりましたよ。副作用として、気道を縮めてしまうので、呼吸ができなくなって、死に至るという事件が多発してしまったものですからね。今こちらで使用されるのであれば、おそらくマフィアが誰かを拉致したりするときに使ったり、違法な風俗店で輪姦したりするときに使うんですよ。こんな危ない薬、誰が持っていたんですか?」

「はい、日本から来た友達が持ってました。ひどくせき込んだ時にのんでいるようです。」

そう聞かれてトラーが正直に答えると、

「はあ、、、。そうですか。日本では簡単に危険な薬が手に入ると聞かされたことがあったけど、本当なんですねえ。そういうところが甘いんだ。お医者さんも、こんな危ない薬出して、罪の意識とかないのかな。一体その人、どんな人物なんでしょうか。こんなのを日常的に使っていたら、麻薬中毒並みにおかしくなってしまいますよ。それだけではなく、大量に飲んだら、死に至る可能性もある。可能であれば、一度こっちへ連れてきていただけないものでしょうかね。おそらく、かなり重症な方であることは想像できますので、一度や二度の説得では、納得してくれないかもしれませんね。たぶんきっと本人は、これぞ万能な薬と思い込んでいると思いますが、確かに強力な眠気をもたらすことは知られていますけど、実は、もたらしてくれる睡眠の質はさほど高くないということも、研究で証明されています。その証拠に、飲んでもバットトリップのような悪夢を見て、かえって意味がなかったという患者さんが大勢います。」

と、医者らしくベーカー先生は解説を始めた。

「なるほど、そんなに危ない薬でしたか。それでは、やめさせたほうが、本人のためでもあるということですか。」

付添として診察室にいたチボーは、思わずそういうと、

「はい、もちろんです。これを常用するのは危険すぎます。ただ、やめさせるにも、禁断症状が強く出ますので、本人はそれを苦にして、また使ってしまうという事例が多数見られます。なのでちょっと心を鬼にして、接しないといけません。過去にやむを得ず使用していた人に対しては、政府がやめさせるためのガイドラインも作っていまして、そのための本も発売されています。確かに、便利な薬なのかもしれないですけど、後になって、危険な一面がわかるというのは、本当によくあることでしてね。日本では、便利さばかり優先しすぎていて、やり直すのを忘れていると聞きましたが、本当にそうなんですね。もうちょっと注意喚起とか、しないのかなあ。」

ベーカー先生は、髪のない頭をがりがりかじった。

「わかりました。僕たちも、なんとかなるようにしますので、とりあえずまず初めにすることと言えば、何をしたらいいんですか。」

チボーが、そう聞くと、ベーカー先生はいかにも西洋人らしく言い始めた。

「そうですねえ、とにかく部屋に閉じ込めておかないで、体調が良いときはできる限りお外へだすようにしてください。最も、今は寒いので、長時間出すことは、難しいと思いますが、別に徒歩で移動するだけが移動手段ではありませんので。何よりも、薬から頭をそらすことが一番大事です。」

「わかったわ!その通りにしますから、もう説教はしないで!」

ベーカー先生の話を遮って、トラーは、でかい声で言った。ベーカー先生も、それ以上話はしなかった。たぶん彼女を刺激してはならないと思ったのだろう。


翌日。

その日は久々に雪がやんで、すがすがしく晴れていた。

水穂は、少しばかりせき込みながら、相変わらず寝ているだけである。一方の杉三は、マークさんと一緒にソーセージをべらりべらりと食べていた。

不意に、客用寝室のドアが開いた。

「水穂、今日は晴れたから、公園に散歩に行きましょうよ。」

提案者はトラーだ。公園って、こんな寒いときに出かけるのかと、一瞬びっくりしてしまった。

「幸い雪は止んでるし、道路の雪は撤去してくれてあると思うわよ。」

「そうですけど、無理ですよ。途中で止まってしまうと思うので。」

「大丈夫。昨日チボーと二人で、介護用品店に行って、車いす一台貸してもらったの。あたしたちが押していくから、何も心配いらないわよ。」

こういわれたら、逆らうことはできないなと思った水穂は、だるい体に鞭打って、何とか起き上がり、

「じゃあ、外で待っててくれますかね。着替えないといけませんので。さすがに浴衣のままではいけませんからね。」

と言った。

「わかったわ。必ず出てきてね。もう準備して待ってるからね。」

トラーはにこやかに言って取り合えず部屋を出る。着替えるところは見ないという、個人意識はやっぱり西洋人であった。

一方そのころ、台所では、チボーが、借りてきた車いすをもってやってきていた。

「はああ。すげえ高級な車いすだねえ。僕が乗ってるのより、高級だな、これは。」

ソーセージを食べながら、杉三が言った。

「はい、そうなんです。水穂さんのことですから、こういうおしゃれなアンティークもののほうが似合うかなと思ったんですよ。」

「アンティークものねえ。」

チボーの説明に杉三はため息をついた。その車いすは木製で、座るところにはふわふわのクッションが付いているし、背もたれにはムートンのクッションがついて、暖かいように工夫がされている。

「どっちかというと、女の子に向いているような車いすだな。」

「もう嫌ですね、杉ちゃんは。こっちでは、男でも女でも、平気で乗りますよ。杉ちゃんみたいにただ乗れて移動ができればそれでいいというものではないんですよ。」

「そうなんだよね。車いすも体の一部だから、おしゃれにしたいという人が多いんだよね。」

チボーの説明に、マークも付け加えた。さすがファッション大国だなあと、杉三はからからと笑った。

同時に部屋のドアが開いて、水穂がやってきた。几帳面に着物を着て、羽織も着て、袴もしっかり履いている。

「あ、来た来た。ほら乗って。たぶんサイズは大丈夫だと思うんだけどね。」

トラーに促されて水穂は車いすに乗った。こんなの、生まれて初めてです、と感想を漏らした。

「じゃあ、行ってきます。夕飯までには帰ってくるから。」

気が早いのか、トラーはそういって、水穂の体を分厚い毛布でくるみ、首周りにストールをぐるぐると巻き付けた。

「僕も行っていいかなあ?」

と、好奇心たっぷりに発言する杉三。チボーがいいですよ。と言って、杉三の車いすに手をかけた。マークは、うらやましそうな顔をして、四人が出かけていくのを見送った。

公園はすぐ近くだった。と言っても、雪のせいであたり一面真っ白になっており、花は何も咲いていなかった。噴水も冬だからと言って稼働していない。たぶん寒いので凍ってしまうのだろう。でも時折、小さな子供たちが、そりに乗ったり、雪だるまを作って遊んでいる姿が見えた。さすがに日本でよくある雪合戦という遊びは見られなかったが。

「しっかし、あたり一面真っ白で、どこまで行っても白の世界だな。この中に白い鳥さんでもいないかな。」

杉三がそうからかうが、さすがに鳥たちも冬であるせいか、あまり姿を見かけなかった。


とりあえず公園の遊歩道を一周しようということになったが、半分くらい移動したときに、水穂が少しせき込んだため、

「何か暖かいものでも飲んでいきましょうか。確か、もうちょっと行くと、カフェテリアがあった気がするんですよね。」

と、チボーが提案し、その通り、前方に見えてきたカフェテリアに全員入らせてもらうことにした。

カフェテリアは、中年のおじさんとおばさんたちがたくさん詰め掛けていた。特に貸し切りというわけでもないのだが、中でカラオケ大会を開催していた。そういえば、カラオケはヨーロッパでも流行っていて、日本ではカラオケボックスが主流だが、こちらではカフェやレストランにカラオケセットが置かれていて、誰でも歌を聞いていっていいようになっている。

「へえ、のど自慢大会か?よし、僕も聞かせてもらおう。」

杉三はカラオケをしている人たちのすぐ近くの席についた。チボーもトラーも、水穂を連れて、その近くに座らせてもらう。

「お、君たちはその恰好から見ると、日本人だね。ちょうどよかった、ネタ切れで困っていたところだからさ、ぜひ、日本の面白い歌を聞かせてよ。」

立派な髭を蓄えた、店の店長が、メニューを持ってきてにこやかに言った。

「おい、今のは何を言っただよ。」

杉三が聞くと、水穂が、日本の面白い歌を歌ってくれと言っている、と通訳した。伴奏がないから無理なのでは、とチボーがそういったものの、

「おう、任しとけえ!いいもの聞かせてあげる。僕はバカだから、アカペラで十分さ。」

と、二つ返事で立候補してしまう杉ちゃん。水穂が急いで通訳すると、近くにいたおばさんが、へえ、日本人がこっちへ来るのは珍しい、ぜひ歌ってよ、と言って杉三にマイクを渡した。そこで杉三、えへんと咳払いをして、

「幸せは、歩いてこない、だから歩いていくんだね。

一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。」

と、でかい声で朗々と歌いだした。

「へえ、歌詞はわからないが、結構歌の上手い人じゃないか。日本人はベルカントが苦手というけど、そうでもなさそうだなあ。」

と、いう内容のフランス語が飛び交った。

「人生は、1、2、パンチ、汗かきべそかき歩こうよ。

あなたのつけた足跡は、きれいな花が咲くでしょう。

胸を張って足を挙げて1、2、1、2。

休まないで歩け。」

とりあえず、一番を歌い終えると、カフェの中では割れんばかりの大拍手となってしまった。

「ねえちょっと、面白い歌じゃないの。歌詞の内容を教えてよ。」

さっきのおばさんが、水穂にそう聞いたため、水穂も頭をひねって、とりあえずの歌詞内容を通訳する。すると、

「へえ、日本人は、そんな重い歌詞をああして軽い歌にするんだねえ。よし、もう一回歌って!」

明るそうなおじさんが、そういった。水穂が杉ちゃん、もう一回歌ってと言っているというと、おう、任しとけえと高らかに、

「幸せは、歩いてこない、だから歩いていくんだね。」

と、再び杉三は歌いだした。そういえば、フランスの歌というと、恋愛歌ばっかりだから、こういう人生の応援歌は新鮮だったのだろう。

三度目には、周りのおじさんたちまで観よう見まねで歌いだして、おじさんたちの大合唱が始まってしまうほどになった。

「よし、次は、日本のさ、もっとトラディショナルな曲を聞かせてくれないかな?」

マスターの言葉は、水穂の通訳により、杉ちゃんには通じた。少し考えて、また朗々と、

「月がーでたでーたー、つきがーでたー、よいよい。」

と歌いだす。水穂は、なんでまた炭坑節なんか、と思ったが、意外におじさんたちには面白かったようで、ついには手拍子が始まってしまうし、歌詞の中にある、「さのよいよい」を真似して歌いだす人も続出した。またおばさんに、あれはどういうときに歌われていたのかを聞かれたので、

「はい、あれは、鉱山で働いていた労働者が歌っていた歌ですよ。」

と説明してやったところ、

「へえ、日本は、いつも口をへの字型にして働いてばっかりいるわけじゃないんですね。」

といわれ、また苦笑いする。たぶんそうだったのは、戦前までだと思います、と訂正したかったが、それはやめておいた。

「ようし、杉ちゃん、だったっけ。月がでたでたばっかりじゃなくて、俺たちがいつも聞いているクラシックの歌とか、そういうのは歌える?」

あるおじいさんが、冗談のつもりでそういったが、水穂の通訳により、真に受けてしまった杉三は、

「Lascia ch’io pianga mia cruda sorte,

e che sospri la liberta.」

なんて歌いだすもんだから、ヘンデルのリナルドじゃん!とおじさんたちは大笑い。こいつはいいぞ!と手をたたいて、杉三の歌を絶賛した。

「Il duol infranga queste ritorte

de’miei martiri sol per pieta,si,

de’miei martiri sol per pieta.」

「意外に歌、うまいんですね。杉ちゃんって。どっかで歌のレッスンでもやっていたんですか。」

チボーが水穂にそっと聞くが、その理由は水穂も知らなかった。

「いや、わかりません。本人に聞いてもバカの一つ覚えとしか言いませんので。」

たぶんそれだけが、本人にわかる理由なんだろうが、、、。

「Lascia ch’io pianga mia cruda sorte,

e che sospiri la liberta.」

杉ちゃんの歌はまだまだ続く。チボーとトラーも杉ちゃんの意外なすごさに感激して、二人とも暫く何も言えないでいた。

水穂だけ一人、咳き込んでいた。

ちなみにこの歌、正式に言うと、ヘンデルが作曲したオペラ「リナルド」のワンシーンで歌われる歌で、日本では「私を泣かせてください」というタイトルで親しまれている。

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