第9話「虐殺」

 神殿の中は広かった。なかでも大聖堂は、何十人もの教徒がひれ伏したであろう非常に広い空間だった。

 今そこに数十人の侵入者たちがたむろしていた。ベルタムナスの目にはそのように見えた。

 むろん彼らは、マチアスと同行していた一行である。そのことはもちろん、ベルタムナスのあずかり知らぬことではあった。どうやら邪教徒たちのようであるということ。そういうことにしか、彼は興味を示そうとはしなかったのだ。

 皆一様に黒いフードで身を包み、思い思いに座り込んでくつろいでいる。ちょろちょろと動きまわる子供の姿も見えた。

 ベルタムナスは、それらの情景を、見るともなしにしばらくの間眺めていた。

「む……?」

 すると、その関心なさそうな彼の目が何かを見つけた。

 あの白いずだ袋───それはここにきて、初めてベルタムナスの興味をそそらせることのできた唯一の物であった。

 いくつかの包みである袋を、彼は目をこらして見つめた。それは何やらもぞもぞと動いている。

 それが何なのかわかった時、彼はぞっとするほど楽しそうな表情を浮かべた。

「ほほう…赤ん坊か…」

 彼の酷薄そうに薄い唇から、まるで猛獣が舌なめずりするように、ぺろりと赤い舌が覗いた。自分のためのごちそうだとでも言いたげな仕種である。

 そうしてから、彼は袋から視線を外し、再び辺りの人間たちへ目を向けた。一通り眺め渡してから、もう一度袋を一瞥する。

「ふん」

 真っ黒な集団の中、その袋はあまりにも異様に目立っていた。ベルタムナスのように中身が何かを知っていなくとも、誰でも興味を持つだろう。

「それにしても暗い連中だ」

 彼は軽蔑をこめてそう言った。

 これだけの人数がいるのに、確かに誰も喋る者もない。ほとんどの者が下を向き、背中を丸めてうつむいている。

 そのため、彼らの表情はまったくわからなかった。だが、漂う空気は重たく、どんよりしている。彼らの表情を見るまでもなく、非常に疲れているのだということは、誰が見ても明らかだった。

 そのなかでもって、比較的元気なのは幼い子供たちであった。普通の子供のように、元気いっぱいとまではいかぬようだが、それでも大人たちよりは動きまわっている。

 そんな様子が、灯されたろうそくのあかりのもとで繰り広げられていた。

 それを、尊大な態度で見つめるひとりの人物。いや、ふたりというべきか。

 しかし、銀髪の少女は傍らに立つ美貌の魔族とは違っていた。いたわるような視線を彼らに向けている。

「四、五十人といったところか……」

 目算するベルタムナス。何を思ってか、瞳がキラリと光る。

「どこかへ向かう途中に寄ったらしいな」

 腰に手をやり、高慢そうに胸を張った。

「まったく……ここがなんの神殿なのかも知らぬのか」

 そして頭を振る。

「嘆かわしいことだ」

 ベルタムナスの態度は、妙に芝居がかっていてわざとらしい。意識してやっているのかそうでないのか、彼の冷やかなその面からは推し量りがたい。

 もし、意識してやっているのならただの厭味だろうし、無意識のうちにやっているとしたら、これはまたずいぶん愛嬌のある魔族といえるだろう。それとも、ただの馬鹿か───

 そして───

 ベルタムナスはゆっくりと一歩を踏み出した。しかしティナは動かない。

「………」

 彼はいったん足をとめ、振り返った。

「来ないのか?」

 手を差し伸べて誘う。ティナが首を振ると、彼は微笑んだ。

 ぞっとするほど非人間的な薄ら笑いだった。心臓の悪い老人でなくとも、まず間違いなく普通の人間ならば、卒倒しかねないほどの冷笑だった。

「………」

 ティナの顔に明らかな嫌悪が浮かぶ。

「まあよい」

 彼はその世にも恐ろしい表情のまま、彼女をじっと見据えた。それは、凍りつきそうなほどの恐怖を人に与える顔つきだった。

 だが同時に、あらがいがたいほどの魅惑をも感じさせる、妖艶な微笑でもあった。

「ふふ……そこで見ているがよい」

 ベルタムナスの微笑が、いっそう深くなった。

「マインド様へ捧げる前菜だ。そして、その美しき身体と魂を持つお前にも捧げよう。有り難く受け取るがよいぞ」

───ダダッ!

 ベルタムナスのその言葉が、終わるか終わらぬうちに、彼女は行動を起こしていた。

 脱兎のごとく走りだす。その素早さは、彼女の見た目では考えられないものだった。

「あっ!」

 一瞬、虚をつかれるベルタムナス。呆然と見送る。

 あれほど無表情に徹していた彼女が今や必死の形相を見せていた。何とか彼らを救いたいという思いからなのだろう。

 そして彼女は叫んだ。

「逃げて!」

 人々の中に飛び込む。そして、一人一人の身体を揺さぶった。

「はやく!」

 一斉にティナへと視線が注がれた。

 立ち上がって動きまわっていた子供たちも呆気に取られて立ちすくみ、この銀の髪を持つ美少女を見つめた。

「殺されてしまうわ」

 誰も動こうとしない。

 彼女は苛立っているようだったが、諦めなかった。一番近くにいた人物に目をつけ、その身体を揺さぶる。

「お願い! 逃げて!」

 彼女は必死だった。細くて小さな身体で、その人物を立たせようとした。

 くしくも、彼女が立たせようとした人物はあの邪教徒のリーダー、カイルであった。

「な、なんだ?」

 彼は顔を上げた。肩を揺らし、必死に叫ぶティナを、びっくりした目で見上げている。

───ヒュンッ!

「!」

 ティナの大きな目がさらに大きくなり、揺さぶっていた手が止まった。

 彼女の目に恐怖が浮かんだ。

 さっきまで、彼女の目に見えていたはずの頭がない。当然あるはずの頭部、フードがかぶさった頭の部分が。

 一瞬のうちに、それこそかき消すように、フードごとなくなってしまったのだ。

 しかし彼女の手は、カイルの肩から離されることはなかった。まるで吸いついたようにつかんだままだ。放そうにも放せないと言ったほうがよいかもしれない。

 プシュ───

 ひと呼吸おいて血が噴き出した。それこそ派手な音つきで、だ。まるで噴水から勢いよく飛び出していく水のようだ。 

───ゴロン───

 傍らにフードのかぶさったままの生首が転がった。驚いて見開かれたままの目が、ティナを見つめている。

 彼女の表情が強張った。だが、凄惨な状況のはずであるのに、転がるカイルの首の顔は、なぜかこっけいにさえ見えた。

 もちろんティナは、かけらほどもそのようなこと、思いはしなかったが。

───ザワ…ザワ………

 人々の目が一斉に、カイルの首とその傍らのティナへと向けられた。

 しかしティナは、カイルの胴体と首以外にはもう何も関心がないかのようだった。自分を見つめる人々に、まったく目を向けようとしなかった。少なくともそういう風に見えた。

 その間も、たえず血は噴き出ている。カイルの胴体から噴き出る血は、際限がないかのようだった。彼女は呪縛されたかのように、未だ手が放せないでいる。

 髪を、衣装を、すべてを真っ赤に染め上げていく血しぶき。髪からしたたり落ちて額を流れるその血は額から目尻や目頭に到達し、まるで血の涙を流しているように見えた。赤い不吉な涙だ。

 そして、まだ彼女は手をはなせないまま、彫像のようにじっとして動く気配がない。そんな彼女を血はみるみるうちに、怒り狂う鬼神のような赤さに変えていく。

「ヒィ───!」

 誰かがヒステリックな叫び声を上げた。それが合図となった。

「キャ───ッ!」

「逃げろ───!」

「殺される───!」

 怒濤のように、人々のパニックが起こりはじめたのだ。

「クククク……」

 ベルタムナスは、少し離れた場所からそれを見つめていた。美しい顔に残忍な表情を浮かべている。ひどく獣じみた顔つきだ。

「饗宴の料理には味付けがなくてはな……」

 もっともらしい口調でひとり呟く。

「こうでなくては美味でない」

 偉そうに組んでいた腕をとくと、彼は両手を持ち上げた。

「美麗の傀儡師ベルタムナスの、究極料理をご堪能あれ、だ」

 彼の容姿にまるで似つかわしくないその恰好は、傀儡師というより滑稽でおどけた道化師のようであった。

 逃げまどう人々───美しい悪魔の目には、半狂乱になった彼らが、まるで楽器を携えている奏者のようにみえているようだった。

 ベルタムナスは指揮者になったつもりなのか、腕を振り回し、指を操っている。

 そして彼の指揮のもと、彼らは絶妙なハーモニーを奏でる。阿鼻叫喚というハーモニーを。

 教徒たちは男も女もすでにフードなど取っ払うと、痩せて顔色の悪い面をさらしていた。ベルタムナスに操られて、己の思うとおりに身体を動かせないでいるのだ。

 虚しく、そしてこっけいな動きでくるくる回る者、激しく床に身体を打ちつける者、まるで狂人のごとく躍り狂う者と、すべての者がからくり人形のように騒々しい。

「フフフフフ……」

 ベルタムナスの口から楽しげな含み笑いがもれた。

 どうやらベルタムナスは、未だ彼らの魂を手玉に取るということまではしていないらしい。彼らの追い詰められたように恐怖に歪む表情。それがその証拠である。それはまさしく、死ぬことへの恐怖でしかない。

「愚かな人間ども……」

 彼の美しい眉が険しく寄せられた。

 邪教のとりこになり、その魂も身体も邪神に捧げた彼らでさえ「死」は恐ろしいもののようだった。

 ましてや、彼らのほとんどが、未だ邪教徒になっていなかったのである。当然、普通の人間ならば死ぬことは何よりも恐ろしいはず。

 その邪教徒ではない者たち以外の本物の邪教徒たちの、普段ならば何物にも関心のないかのように空虚でどんよりした屍のような目が、恐怖に見開かれていた。恐れおののく彼らのそのざまは、見ていて非常に見苦しい。

「……虫酸が走るわ」

 ベルタムナスは軽蔑をこめて呟く。

 彼ら邪教徒である者たちは、確かに毎夜のように己の信ずる神のため生贄を差し出し、血と殺戮の祭事を行っていたはずだ。だが、そうしていてもなお我が身が大事であるらしい。

 人間とは、いや、邪教徒とはかくも愚かな生き物でしかないのか。

「助けてぇぇぇぇ───」

「死にたくないぃぃぃぃ」

 しかし、誰ひとりとして出口に向かう者はいなかった。なぜなら、たったひとつの出口である場所に、ベルタムナスが立ちふさがっていたからだ。

 そうでなくとも、どうやら彼らには出口が出口として見えていないようであった。これもベルタムナスの仕業なのだろう。

 彼らはあっちへうろうろ、こっちへうろうろと見境なく目茶苦茶に走り回っている。

「ふんっ」

 その時、ベルタムナスの腕が一振り大きく横へないだ。

「ギャッ!」

 運良くか、それともやはり運悪くか、ベルタムナスの方向へ踊りながらやってきた、女の腹が突然裂けた。

 彼女の身体は衣服ごと縦に裂けたため、ばさりと着ていたものが床に落ちた。血色の悪くやせ細った身体があらわになってしまったが、彼女に羞恥心を感じるいとまはない。

「ぐ……うう……」

 女は呻いて倒れこんだ。裂けた腹からは、おびただしい鮮血が流れだしており、よく見ると内臓までもが飛び出してきている。普通の人間なら即死というところだろう。

 だが、ベルタムナスの足もとで崩れ落ちたその女はまだ息があった。

「ど……う…か……」

 弱々しく伸ばされるか細い腕───しかしベルタムナスは、手を差し伸べることなく見つめるだけだった。女に向けられた視線は氷のように冷たい。

「た……すけ……て…」

 ベルタムナスは、冷眼でその光景を充分に眺めておいて、そして手を伸ばした。女にではない。自分の頭の上だ。

 そして思い切り降りおろす。

───グシャッ!

 彼の手の動きに合わせるかのように、彼女の身体は潰れた。女は叫び声を上げる間もなく、その命を終わらせた。

 彼女の身体は、見るかげもなくひしゃげでしまい、一塊の肉塊と変わり果てている。

「フフフフ……」

 彼は人指し指を自分の頬に持ってきた。飛び散った血糊がベルタムナスの頬に付着している。

 その血を人指し指で拭い、すでに紅を塗ったかのように異様な赤さのくちびるを開けて差し込んだ。

「クククク……」

 ちろちろと舌を出しながら自分の指を舐めるさまは、どう見ても上品とは言えない。ひどく下品で卑猥な感じだ。

「なかなか美味ではないか」

 彼は足もとの肉塊に一瞥をくれると、にっこりと微笑んだ。

「邪教徒たちの血は不味くてたまらんはずなのだが…ふむ…邪教徒になりたてだったかもしれんな」

 ぶつぶつと呟いていたが、突然彼は微笑を凍らせた。整った眉をひそめ、その秀麗な眉間にしわをよせる。

「………」

 さきほどまで、動けずに立ちすくんでいたティナがひざまずいていた。

 いつの間にか、あの首なしの身体は横たえられ、その傍らにそっと寄り添うように頭を垂れている。

 彼女が拾ってきたのだろうか、切り離された頭も身体のそばに置いてあった。

 彼女と、横たえられた邪教徒カイルのまわりだけ、一種異様な静けさが漂っている。見たところ、ティナの様子は悲しみにくれている少女といった感じだ。

 しかし、なぜかベルタムナスは眉間のしわをさらに深く寄せた。

「ぬ……?」

 ティナの身体はかすかに輝いていた。仄かな銀色である。

 そして、そこだけ囲い込まれたように、空気が動いている感じがしない。

 それと対照的に、彼女とカイルの亡骸のまわりの人間たちは、相変わらずベルタムナスに操られたまま騒々しく躍り狂っている。彼らはティナと自分たちの同胞の亡骸のことなど、まったく眼中にないかのようだ。それはそうだろう。それどころではなかったからである。

 彼らの恐慌とティナの静寂が、不気味に相対して存在していた。

 そんななか、いよいよもってティナの身体の輝きは増していった。月のような柔らかさをもった輝きである。

「むう……」

 ベルタムナスが不快そうに唸った。

 ティナの身体を覆っていた銀色の輝きが、傍らに横たわっている屍に移っていく。

 それはとても幻想的な眺めであった。

 彼女の両手がそっと死骸にそえられる。いたわるようにそっと、儚いものでも触るように───

「ごめんなさい……」

 囁くように呟く彼女の声は、いかに彼女が心を傷めているかが窺える。

 それほど聞く者に訴える何かが、彼女の声に滲み出ていたのだ。

「今のわたしにはこれくらいのことしかできない……」

 彼女が囁いた。すると───

───ズル、ズル、ズル……

 なんと、切り離された生首が動きだした。

 まるで、その首自体が生きて動いているかのように、震えながら動いている。

 そして、見ているうちに首は胴体に到達した。

 己の伴侶を探し求めて、やっと巡り逢ったふたりよろしく、首と胴体はぴったりと合わさる。傷痕までもが跡形もなく無くなっていく。

 すると───

───グシャッ!

「あっ!」

 やっと元通りの身体になったカイルの死骸が潰れた。まるで巨人に踏みつぶされたように、彼の身体は四方へ飛び散っていった。

 ティナはゆっくりと振り返った。彼女の瞳がベルタムナスをとらえた。ニヤニヤと嫌らしく笑う彼と目がかち合う。

「………」

 ティナのその瞳は複雑に揺れていた。いくばくかの抗議を訴えているようだ。

 しかし、ベルタムナスはそんな彼女の目もものともせずに、せせら笑った。

「死んでしまったものに、無駄な力を使うのはあまり感心せぬな」

 嘲りの言葉を浴びせる。

「お前も神ならば、亡骸などになんの価値もないことなど知っておろう?」

 そう彼は問いかけたが───

「それとも───」

 思いなおしたのか口調を変える。

「生まれていくらも経っていないので、まだ神としての自覚がついていないか?」

「…………」

「なぜ何も言わぬ」

 彼女のはっきりとしない態度に、さすがのベルタムナスも、だんだんといらついてきたらしい。

「身体など魂の器でしかない。それ以下でもそれ以上でもありえない。生物にとっては魂こそが大切なものであって、身体に執着するのは馬鹿げている。お前のような、人間としてもましてや神としても幼すぎる者には、まだわからぬかもしれんがな」

 ベルタムナスへ向けられたティナの瞳は、ますます悲哀に満ちていく。

「だからといって……」

 すると、とうとうティナが口を開いた。

「身体を粗末にしてよいとは限らない」

 彼女はひたとベルタムナスを見据え、りんとして言い切った。

「あなたは魂が大切だと言ったけれど、あなたはその魂を自在に操って弄んでいるわ。あなたの言うべき言葉とは思われない!」

 答えてくれたのが嬉しかったのか、ベルタムナスは満足そうに頷いた。

「ようやくお喋りをしてくれたな」

 彼はさらにティナに近づいた。彼女の頬に付着している血糊を、人指し指でまたもや拭う。

 そしてその指を、艶然と微笑みながら自分の口もとへと運んでいく。赤くのたくる舌が覗き、彼はその舌を指にからませた。

「むむむ……」

 彼は不味そうに顔をしかめた。

「やはり邪教徒の血はいただけぬな」

 ティナは立ち上がった。身体中が真っ赤に染め上げられてしまっている。それは、見るものに凄絶さを感じさせてやまない。

 しかしティナは、まったく気にするふうではなかった。

「わたしはいやです」

 今度ははっきりと彼女はそう言った。

「こんなことはやめてください」

 ベルタムナスは冷笑を浮かべたまま、両手を上げて肩をすくめた。

 またしてもその様子は、おどけていて芝居がかっていた。見様によっては、まったく人を小馬鹿にしているようにも見える。

 気の短い人間ならば───さしずめドーラあたりが───まず間違いなく頭にくる仕種だろう。

「神が人間から供物を捧げられるのは当たり前のことではないか。それをなぜ拒否するのだ」

「こんなのは供物なんかじゃない」

 ティナがかわいらしく首を振ると、ベルタムナスは目を細めた。

「それに供物やら、ましてや生贄などもってのほか。わたしたちは人間にそんなものをもらう資格などないというのに……」

「ふふん」

 ベルタムナスは彼女のその言葉を聞くと鼻で笑った。目がキラリと光る。

「そのようなことは関係ない」

 彼は再び両手を持ち上げた。

「僕はただ人間を操るのが至極好きなだけなのだ。お前がなんと言おうと思うとおりにさせてもらうぞ」

 右手を一振りする。視線はティナに向けたままだ。

「ギャッ!」

 彼らより少し離れた場所でくるくる回っていた教徒がまたひとり犠牲になった。胴体が細く潰れてしまっている。

 まるで見えない何者かに抱きしめられ、そのまま物凄い力で絞め殺されたようだ。

 目や鼻や耳、そして口から血反吐を吐いてその場に崩れ落ちる。

 それを合図に、次々とあちらこちらから断末魔の叫び声が上がりはじめた。

 ティナは耳をふさいでその場にしゃがみこんでしまった。

「フハハハハハァ────!」

 ベルタムナスの甲高い笑い声が、耳障りなほど響きわたる。

 その彼の笑い声と人々の阿鼻叫喚が入り乱れて、あたりはもう地獄絵図のように変貌してしまった。

「神の子ティナよ!」

 ベルタムナスはヒステリックな声でティナを呼んで叫ぶ。

「なぜ聞かぬ。なぜ見ようとせぬ。人間と神は違うはずではないのか。人間は所詮神などにはなれぬのだ。どうあがいたって人間を越えることは出来ぬのだ。未来永劫人間は人間でしかない。だからもっと神は神であることに気づくべきだ。つまらぬ同類意識など捨て去るのだな。まったく胸糞が悪くなるわ」

 そして彼はますます猛り狂い、両手を狂気のように振り回し、殺しまくった。

 広間は、今や血と肉塊とがまき散らされるだけの地獄と化してしまった。



「う…わぁぁ……」

 物陰から見つめる瞳があった。

 それはマチアス少年だった。彼は用を足して帰ってきたところだったのだ。

 神殿の外まで聞こえてくる人々の叫び声があまりにも尋常ではなかったので、彼は用心深くそっと覗いてみたのであった。

「か…母さんは……?」

 マチアスは必死になって母を探した。

「あっ」

 彼の目が、母の姿をとらえた。ふらふらになりながら身体をくるくる回している。彼女の周りには、何人かの少年たちも見えた。

(母さん!)

 しかし、マチアスは金縛りにあったかのようにその場から動くことができなかった。

 自分の母が、友達が、非常に危険な状態になっているというのに、自分はそれを助けに行くことができない。

「ああっ……」

 彼は怖かったのだ。

 自分の目に映る男が上級魔族であることは一目でわかった。その美しすぎる美貌の上級魔族があまりに異質な存在であることは、幼いマチアスにも充分すぎるくらいに感じ取れたのだ。

 そのことが、かつてないほどの恐怖を彼に与えていた。それは当たり前のことだ。いったい誰が、彼を責めることができるであろう。

 だが、マチアスは非常な負い目を感じていた。感じつつも、それでも彼は足を動かすことができなかったのである。

 その時───

「マ…マチ……マチア…ス……」

 身をひそめ、聴覚だけを恐ろしく研ぎ澄ませていた彼の耳に、それはとぎれとぎれに聞こえてきた。

「!」

 彼は母の姿を貪るように見つめた。

 マチアスにもようやく気がついたことだったが、みんなには彼のいる入口が見えていない。だからマチアスの母も、息子である彼のいる場所へ何度も視線を向けたのにもかかわらず、まったくマチアスの姿を見つけることができずにいた。

 その母の口からマチアスを呼ぶ声が聞こえてくる。彼は気が気でなかった。

「か…あ…さん……」

 彼の目に映る母は、もうすでに自分の力で動いているわけではない。

「ちきしょぉぉぉ……」

 マチアスは拳を握りしめた。彼は、ベルタムナスが邪教徒や村人たちの身体を操っているという事実は知るよしもなかった。

 それでも、うすうすはどこか心の底で感じているようであった。

(ああ!)

 マチアスは心で叫んでいた。

(神よ。どうか母さんたちを助けて)

 ましてや、真っ赤な血を全身に浴びているティナが、その神の子であることなど彼にわかろうはずがなかった。

「たすけ……て!」

 次の瞬間、マチアスの母は思いのほか力強い声を出していた。

「ああ。マチ…アス……死にたくない。母さんは死にたくない……マチアス…助けておくれ……」

 必死の形相で叫ぶ母。それを見守るマチアスの心は張り裂けそうだった。

 一人、また一人と潰され、なぶられて殺されていく。マチアスの母のまわりにいた少年たちも憐れ、原形をとどめぬ肉の塊と化していった。

 そして、とうとうマチアスの母が生きている人間としてたった一人残されてしまったのである。

 その母へとベルタムナスの顔がゆっくりと向けられていく。

(!)

 マチアスの目が恐怖に見開かれる。

 ベルタムナスの顔に面白そうな表情が浮かび、彼は彼女に近づいていった。叫ばれた声が、どうやらベルタムナスの興味をそそったらしい。

(ああ……母さん。そいつから離れて)

 マチアスのとび色をした目が、母とベルタムナスに向けらた。彼の心臓は今にも止まりそうになった。

 ほどなく、ベルタムナスは彼女に辿り着いた。見つめる視線はあくまでも冷たい。

「死にたくないだと?」

 彼は言った。その声も、聞くものに背筋を凍らせるに充分なほどの冷やかさであった。

 ───ギュッ!

「ああっ!」

 マチアスの母は叫んだ。

 ベルタムナスは彼女の両頬を片手で挟み込み、さらにつまみ上げるように持ち上げたのだ。

「ああああ………」

 やせ細っているとはいえ、全体重が持ち上げられた頬に集中しているのだ。彼女は苦しみもがいている。

「嘆かわしいことよの。僕が手を下さぬまでも死にそうなお前がだ、よくもまあ死にたくないなどと言えたものだな」

 ベルタムナスは吐き捨てるように言った。

「愚にもつかぬことを言う奴を僕は心底嫌うぞ。それが誰であろうと僕は断固として排除する」

───ダンッ!

「ギャッ!」

 マチアスの母は思い切り石畳の床に叩きつけられた。

 しかもあろうことか、ベルタムナスはその彼女の身体を、これでもかというほど足で踏みつけはじめたのだ。

───ボキッ!

「グホッ……」

 何か不気味な音が聞こえる。どうやら骨の折れる音であるらしい。

 あまりにも原始的な暴力であった。彼ほどの魔力があれば一瞬のうちに消滅させることができよう。

 さきほどから繰り広げられていた虐殺にしてもそうだ。魔族とはこれほどまでに残虐なものなのだろうか。

「なんということを……」

 ティナは呆然として呟いた。

「いったい魔族とは何者なの。誰か教えて。邪神も彼のように邪悪な存在なの。このような者を配下にしている邪神も、かつてはわたし私たちと同じ神であったはず。信じられない。わたしには理解できない。わたしにどうしろというの。このような者たちとどうやって戦えと。お母さま……いったいわたしに何ができるというの。わたしはまだたった十歳になったばかりだというのに。わたしはまだ一人だというのに。まだ誰もわたしに辿り着いていない。わたしは生まれて初めて恐怖を感じているわ。お願いよ。誰かわたしに教えて……」

 それは独り言のような呟きでしかなかったが、彼女の心の叫びであった。

 ティナにとって初めての経験。

 彼女にとってベルタムナスの行動はあまりに異常で衝撃的なことなのだ。

 恐らく未だ完全な神でない彼女には理解できない存在なのだろう。口数の少ない彼女をこのように能弁させるほどに。

 そしてその彼女の様子は、美貌の魔族ベルタムナスはどうやらまったく気がついていないらしい。とにかく楽しそうに笑い、叫んでいる。

「フハハハ……そら、叫んでみろ。命乞いをしてみせろ。恐怖で歪む表情を僕に見せてくれ。ハハハハ……」

 それは、どこかあの闇の司祭ドドスに通ずるものがある。といってもここの誰もそれを知る者はいなかったが───

「………………」

 もうすでにマチアスの母の意識は無くなりかけていた。彼女の命は風前の灯と成り果てている。あるいはもうすでに命尽きているやもしれぬ。

「や…やめ……」

 それを見つめるマチアスの目は血走っていた。手はぶるぶると震え、くちびるはかみしめられ血がにじんでいた。

 そしてとうとう───

「やめろぉ───!」

 マチアスは飛び出した。

 ベルタムナスの結界はどうやら外へ出ることはできないが、中へ入ることはできるらしい。

 怒りに我を忘れたマチアスは、ただベルタムナスに対しての憎しみだけで、修羅場へと足を踏み込んだ。

 そのマチアスの目に、丁度彼の母の胸元を踏みつけたベルタムナスの姿が飛び込んできた。

 一瞬、すべての時が止まったかのように思われた。

 ベルタムナスは驚いたような目をマチアスに向けている。その足もとにはマチアスの母が無残にも踏みつけられたままであった。

「このぉ……」

 マチアスは血走ったままの目を、憎しみをこめてベルタムナスに向けた。あまりの憤りのためか、くちびるが震えている。

 さらに動悸がするらしく、彼の身体は上下に激しく動いていた。

「おや、おやおや───」

 ややあってベルタムナスは我に返り、再び楽しそうな表情を浮かべた。

「子ねずみが一匹…無駄なことをしようと罠にはまったか……まったく人間というものは理解しがたいな。なぜそこまで馬鹿なことができるのだ」

 あるいはティナが口を開いたら「あなたこそ理解できない」と言ったかもしれない。

 だが今は、ティナは麻痺したかのように口を開かず、何も言おうとしなかった。ただ、マチアスに悲しく黒い瞳を向けているだけである。

「ふん…馬鹿が……」

「ああっ!」

 マチアスの叫び声がむなしく響きわたる。ベルタムナスの足が上に上がり、思い切りおろされたのだ。

───グシャッ!

 マチアスの母の叫び声は上がらなかった。やはり彼女はもうすでに息絶えていたのだ。

「!」

 思わずギュッと目を閉じるティナ。

 ずたぼろのぼろ布のように変わり果てたマチアスの母の身体。それは、わずかに人間であったという痕跡だけを残してただの物体となってしまった。

「ふふん」

 放心状態のマチアスをベルタムナスは鼻で笑った。

「どうにかできると思ったのか?」

 ベルタムナスは真っ直ぐにマチアスへ向き直った。

「強力な魔法剣士でさえこの僕の相手にならぬというのに、お前のような者に何ができるというのだ。逃げるチャンスをみすみす放棄し、のこのこと僕の結界の中に入ってくるとは、まったく人間の馬鹿さ加減にはほとほと嫌気がさす」

「…………」

 マチアスは再び憎しみのこもった視線を彼に向けた。

「そらそら、その目だ。目だけで相手が倒せると思っているのだからな。僕ら魔族に比べて虫けら同然のやからのくせに」

 ベルタムナスがゆっくりとマチアスに近づいていく。

 彼の靴にはまだ生々しい血のあとが残っており、いやがおうにもマチアスの憎しみをますますつのらせるばかりだ。

 一歩、また一歩ベルタムナスは近づいていく。

 マチアスは、そんな彼を成すすべもなくじっと見つめるだけだった。

 ティナもまた息を飲んでふたりを見守っている。

 行き詰まる時が過ぎようとしていた。

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