第5話「月の御子降臨秘話」
「ふむ……」
ドーラは軽く顎に親指を添えて、パチパチとはぜる焚き火の火の粉を見つめていた。そんなドーラを、またもや泣きそうな表情で見つめるファー。長老のことでも思い出したのだろう。確かに子供じみている。ドーラと同じ二十歳ではあるが、里では二十歳といってもまだほんの子供。仕方ないと言えば仕方のないことか。
「そっか……聞かせてはもらえなかったんだな、結局は」
「は…い」
ファーは枯れ枝で焚き火をつつきながら頷いた。火が小さくなってきたのだ。
「長老も理由は知らなかったのだろうか」
「それはわかりません」
ファーは頭を振った。
「御子さまは聞くところによると、必要以上のことはお喋りにならないそうですよ」
彼は何かを思い出すように顔を上げ、遠くへ視線を泳がせた。視線の先には、ただ暗闇が広がっているだけであった。
ゆっくりと喋りだす。一語一句はっきりと。
「初めて里に降臨された時に一目拝見させていただきましたが、ティナさまの母君のお声しか誰も聞いてません」
ファーは視線をドーラに戻した。
「お言葉を賜るのは長老さまだけで、今まで誰ひとりとしてティナさまのお声を聞いた人はいないのです」
「へっえー」
ドーラはずずいとファーの方へ身体を乗り出し、瞳を好奇心の塊のように輝かせた。
「なあ」
興味津々といった感じだ。
「はい?」
ファーの方はといえば、そんな彼の態度に少々戸惑いを隠せないようだ。
しかし、ドーラは構わず続けた。
「月の御子っていつから里にいんだよ」
「ティナさまがですか?」
ファーは眉をひそめた。なぜそんなことをと言いたげな表情だ。
「ごく最近のことです」
「そんなもんか!」
ドーラは驚いて声を上げた。
「俺ぁまた、ずいぶん前からご鎮座されてるのかと思ったぜ」
「ティナさまは、輝ける月の光の玉とともに降臨されてきたのです───」
「月の光のたまぁ?」
ファーの言葉に素っ頓狂な声を上げるドーラ。うなずくファー。
胡散臭そうな目をするドーラだったが、それにもかまわず、ファーは語りはじめた。月の御子降臨のその日のことを───
その日、太陽はいつもよりよけいに暑く照りつけていた───とは言うが、普段と変わりはなかったと思われる。
だが里の人々の心はざわめいていて、彼らはいても立ってもいられない気持ちを感じていた。ペンターシャンの里に、朝から何かが起こりそうな雰囲気が立ち込めていたのである。
「長老さま」
ファーもまた、興奮した気持ちを抑えきれずに長老のもとへやってきた。
「お告げの日がやってきたのですね」
「ファーよ。落ちつくのだ」
そういう長老の声も、普段では決して出さないような興奮気味の声音であった。
「そう……予言の詠、神の子降臨のな」
ともすれば裏返ってしまいそうな声だった。
吟遊詩人にも歌われる、善神オムニポウテンスの予言の詠───赤子でも口ずさむことができるとまで言われるほど、あまりにも有名な詠なのだが、魔法士の故郷であるペンターシャンの里にとっては、この予言はそれ以上に特別な意味を持つ詠であったのだ。
はるか昔に邪神を封じ込めた善神オムニポウテンスが残したといわれるその詠は、いつの日か再び邪神が復活してくることを懸念したものであった。
だが彼は人々に希望を匂わせた予言を残した。そして傷ついた身体と心を癒すために永い眠りについたのである。その予言は詠となり、吟遊詩人たちの間で気の遠くなる日々を歌い継がれてきた。
それは───
いつの日か
空が曇り雷が轟き
不吉な風が吹く時
人々は知るだろう
再び恐怖がおとずれる
だが案ずるな
太陽が射し
月の光が流れ
大地が揺れ動く
人々は知るだろう
神の子の偉大さを
人と神との融合を
さらなる進化と驚愕を
初めてこの詠を聞いた時、ファーは胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
吟遊詩人の詠は世に星の数ほど存在するのに、彼はなぜこの詠に心惹かれるのかわからなかったのだ。
最後の部分を直訳すると『人間と神が融合してさらに何者かに進化する』ということだろう。しかし、ファーにはとても想像のつかぬことであった。
「神以上の者になるということだろうか」
ファーは幼いころから考え続けてきた。この詠の本当の意味を───
「いつの日か、この地に降臨する神の子が、詠に歌われている『融合する神』となるのだろうか……それではその相手となる人間とはいったい誰なのだろう」
この詠は世界に散らばる吟遊詩人たちに歌われ続けてきた。だからそんなに珍しい詠ではないのだ。
ではなぜ、魔法士の里にとっては特別なのか───
里の聖域である場所に不思議な石碑が建っていた。そこには長老以外は、誰ひとり近づくことを許されていなかった。
茂みに囲まれた何でもない場所である。石碑は長方形で人の背ほどあり、磨いたように滑らかな面を見せていた。ひっそりと、だが厳かにすっくと建ち、その表面にこの詠が刻まれている。
いつの時代からここに存在したのかは、現長老ダリュースでさえもわからなかった。その前の長老も、そのまた前の長老も誰も知らなかったのである。もしかしたら、善神オムニポウテンスが姿を隠したその時からかもしれぬと、ダリュースは密かに思っていた。
恐らく歴代の長老たちもまた彼と同じことを思っていたに違いない。聖域には長老しか近づくことを許されていなかったが、この石碑に刻まれている詠はすべての里の者たちの知るところであった。
彼らはいつかこの魔法士の里に神の子が降臨すると信じていた。それはなぜなのか。
実は、そのオムニポウテンスの予言の詠が刻まれた石碑には、里の者以外には知りえない続きの詠が刻まれていたのである。
それは───
まず月が下りるだろう
この癒しの場所に
我が愛する
我が血筋たる癒しの神が
皆の心に問うがよい
その時期は自ずとわかるだろう
だから彼らは、いつかこの里に神の子が降臨すると確信し、それを信じて疑わなかったのである。
そしてこの日───いつもの平穏な日々とは違う空気が感じられた。癒しの魔法士たちは、そんな空気の違いを敏感にかぎとる能力にたけていたのである。
まるで神の匂いでも感じているような、彼ら魔法士たちの落ちつかぬ雰囲気が里中に満ち満ちていた。まさに予言の詠の通り、神が降臨する時は魔法士たちの心自体が知っていたのだ。
一日は遅々として進まず、ようやく夜が里にやってきた。
その日の夜は見事な満月だった。太古の昔から幻想的な光を世界に投げかけてきた月───多少の星々の位置のずれはあったとしても月の輝きは、星たち同様いつも夜空に泰然と存在していた。
月光のもと、人々は何でも夢叶うと信じてきた。強く願い月の光を浴び、その神秘な力を取り込もうとする───人々の心をつかんでは放さぬ、その不思議な輝き───
そして今、ペンターシャンの里の者たちは見上げていた。その月を───
ふいに、それは徴候もなしに現れた。
それは月の光に遮られ、見えなくなっているはずの星の輝きだった。それがひとつ突然姿を現し、動きだしたのだ。
その小さな星は里の方へ向かってやってくる。どんどん大きく膨れ上がり、だんだん光りを放ち、そして眩いばかりの輝きになっていった。
「おお!」
人々は感嘆の声を上げ、その光の玉を見つめつづけた。玉といっても、多少横に広がった楕円形をしてなくもなかった。
だが、里の者たちにはそんな違いなどまったく気がついていない。仮に気づいたとしても何の違いがあるものか。
彼らのすぐそばまで光の玉は降りてきた。だが、玉はそれきり、永い間何の変化も見られなかった。見つめる人々をまるで焦らすように、神々しいまでの輝きを放っているばかりである。
「ああっ!」
再び人々は驚嘆の声を上げた。光の玉から光の階段が現れたのだ。
静かに音もなくスルスルと伸びる輝ける階段───と同時にその階段を降りてくる者がいた。
眩いばかりの光をまとい、人の形をしたものがふたつ、ゆっくりと里の人々の前に現れてきたのだ。
確かにそれは人だった。小さな姿をした人物と、大きな姿をした人物がふたり。そのふたりはゆっくりと階段を降りきり、里の者たちの前にやって来た。
里の人々の先頭には長老ダリュースが毅然とした態度で立っていた。少なくともはた目にはそう見えていた。
しかし、よく見れば彼の手などがふるふると震えているのを見ることが出来ただろう。だが誰ひとり気づく者はいなかった。状況を考えれば当たり前のことである。そこにいる全ての者が、長老と同じだったからだ。
長老のすぐそばに立っていたファーとて、それは例外ではなかった。特に彼のような若輩者などは失神しなかったのが不思議なくらいである。
「ああ……」
ファーは、ぶるぶると震えながら健気にも立っていた。そして近づいてくるそのふたりをじっと見つめていた。
ふたりの人物は仲良く並んで歩いてくる。
背のすらりと高いその人物は女性だった。定規で真っ直ぐ線を引いたような長く黒い髪が膝のあたりまで伸びている。辺りを輝かせている光に染まらないほどの漆黒さだ。
まるで光る幕を切り取り、その向こうに見えた闇夜を見ている───そんな風にも見えなくもなかった。
そして彼女の目は長いまつげに縁取られていた。目は髪と同じ色で濡れたようにしっとりと輝いていた。その彼女の身体全体からは、人間がまといえないような神々しさが立ち込めていた。その場に居合わせたすべての魔法士はそれに圧倒された。
「………」
だがファーだけは違っていた。彼は黒髪の女性よりも、その隣に立つ背の低い人物にくぎづけになっていたのだ。
少女だった。黒髪の人とはまた正反対の容貌をした幼い子供だった。
少女は黒髪の女性とただひとつ同じ黒い瞳を、真っ直ぐファーに向けていた。
「………」
その瞳にとりこになったかのように、ファーは見つめ続けていた。まるで世のすべてを知り尽くした瞳のようだった。幼い少女にしては異色で、老女のような叡知さを秘めた瞳である。
「………」
ファーはそれでも、無理やり隣の黒髪女性の方へと視線を向けた。
これはまた少女とは対照的であった。愛嬌たっぷりのコミカルな輝きに満ちた、親しみやすい瞳だ。身体からは相変わらず神々しさが放たれている。だからその瞳はあまりにも不釣り合いに映って見えた。
その彼女がにっこりと微笑んだ。何だか妙に人なつっこい。
「お父さまの言葉に従いここに来ました」
「おお!」
人々の口から一斉に感嘆の声が上がった。
「あなたがここの長の方ですか?」
彼女はダリュースに話しかけた。
「は…はいっ」
完璧に声が裏返っている。女性はさらに深く微笑みかけた。ダリュースはなぜか頬を赤くしている。
「私はトレーシアといいます。オムニポウテンスの娘であります。そしてこの子が私の愛する娘───」
彼女は、隣に立つ少女の身体を自分に引き寄せた。
「ティナです」
そして、おかっぱにきちんと揃えられた銀色に輝く髪を、クシャッとさせて前に押し出した。じっと娘を見つめ続けている。注がれる視線は本当に愛しげだ。
それを見たファーは、何となくうらやましく思った。
(母とはあんなにも優しいものなのか)
彼は母の顔を覚えていなかった。物心ついた時にはすでに両親の姿はなく、育ての親である長老しか彼の身内と呼べるものはいなかったのだ。
彼はトレーシアを見つめながら、自分の母親もこうだったのだろうかと想像してみた。
(この方は神なのに、まるでわたしたちと同じように見える───)
彼はふとそう思った。
(なんと大それたことを!)
ファーは慌ててその考えを打ち消した。
「この子のことをよろしくお願いします」
黒髪のトレーシアはそう言った。その言葉に少女は我に返った。母を振り仰ぐ。
彼女の瞳は悲しみに満ちていた。そしてトレーシアの瞳もまた───
ファーは知らず涙を流していた。彼だけではない。ここに居合わせた者、すべての目にキラリと光るものがあった。
母と子の間にしばし流れる重苦しい空気。それを破ったのは母の方であった。
「ティナ」
彼女は我が子の前にひざまずくと優しく肩を抱いた。
「ここでお別れです」
ティナの肩がかすかに震えている。しかし泣いてはいなかった。真っ直ぐに自分の母の目を見つめている。
「きっといつか巡り逢うことでしょう」
ファーは彼女の声に何かしら違和感を感じ、まわりのみんなの顔をそっとうかがった。
「……?」
しかし、誰もかれも目をうるうると潤ませているだけだった。どうやらこの違和感は、ファーだけが感じていることらしい。
「ティナ……」
そして次の彼女の言葉は、それから以後、ファーの心からずっと消えることはなかったのである。
「常磐の彼方で待ってます」
「トキワの彼方だぁ?」
ドーラは素っ頓狂な声を上げた。ファーは頷いた。
「トレーシアさまがそう言われた時にお見せになった、ティナさまのお顔が……」
ファーはため息をついて続けた。
「……とても印象的で、胸が張り裂けそうな気持ちになったものでした」
「ふぅーん……」
ドーラは行儀悪く右足を立て、足を開いて座っていた。右ひじを足にのせ、ぽりぽりと頭をかきながら左手で枯れ枝を持ち、焚き火をつっついて唸る。
「ん───神さんのおっしゃるこたぁ凡人にゃわかんねえなあ」
「ドーラさん。なんてこと言うんですか」
ファーはドーラをたしなめた。
「いくら神族がお嫌いだからって、それはないと思います!」
ファーはぷんぷんして頬を膨らませた。そんな様子の彼を見てドーラはニッと笑ってみせた。
「おっ、いいぞ。おめーの顔ってのっぺりしてっからよ…」
彼はファーの方に枯れ枝を突きつけ、つっつく真似をしてみせた。
「これでちったーメリハリがついていいんでないかい?」
「ふざけないでくださいよ!」
ますますファーはふくれっ面になった。
「はっはっはぁ────!」
ドーラは腹を抱えて笑いこけた。ファーはすっかりむくれてしまった。
「ドーラさんには一生かかったってわからないでしょうよ。この言葉の良さをね……」
「さんっつうのはやめろ!」
突然ドーラは笑うのをやめて怒鳴った。
「!」
「不愉快だ!」
「ドー…ラ…?」
急に真面目な顔になって怒鳴るドーラ。ぷいっと横を向く。
一方驚いたファーは、切れ長の目を精一杯丸くしている。
「俺たちは相棒同士だろ。他人行儀なやつなんざ、俺ぁごめんだぜ」
「すみません……」
ファーはすっかりしゅんとしてしまってうなだれた。叱られた子犬のようである。
「ま…なんだな」
ドーラはチラリと横目でファーを見た。コホンと咳払いをひとつする。
「反省すればいいんだ」
その言葉にゆっくりと頭を上げるファー。明らかにその表情は明るくなっている。実際に、初めてドーラと顔を合わせた時の彼と今では雲泥の差である。ドーラはまじまじと、このとぼけた顔の魔法士を見つめた。
(けっこうこいつ、かわいいやつじゃん)
すっかりファーのことが気に入ってしまったらしい。だが、少し考え込む。
(ただこの先…使い物になってくれるか…それが問題だよな…ま、なるようになるさ)
ドーラは満面の笑みを浮かべて言った。
「じゃ、夜は長い。いろいろとお互いのことをよく知るっつうのも、相棒として大切なことだかんな───」
「はいっ。ドーラさ…あ、いえ……」
ドーラのメっという視線が飛んできた。慌ててファーは言いなおす。
「はい。ドーラ」
そして少々照れくさそうに、彼は自分の相棒の名を呼んだのであった。
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