第3話「ドドスの過去」

 暗くじめじめとした地下の石畳に、きれいな布で織られた敷布が敷かれていた。その敷布の上には、きちんと正座をしている少女の姿があった。

 そこは人を閉じ込めておくように作られた部屋であった。唯一の出入口は何本も鉄の杭が打ちつけられている。

 今、その牢屋の前にあのみにくいドドスが立ちはだかり、両手を腰にあて、胸をそらせていた。

「これなら上級の魔族を召喚できるかもしれぬな。もしかしたら邪神も無理ではないかもしれん」

 そう言ってから考え込む。

「しかし、邪神の場合は数もこなさないとだめかもしれんしな……まあ、よい」

 ひとりで納得するドドス。

「まずは強力な魔族だ。そいつを俺に従わせることができれば、いずれは邪神を召喚することもできるだろう」

 ドドスは覗き込むように少女を見た。

「誰にも邪魔はさせん……」

 その時、少女の黒く美しい瞳がドドスを見つめ返した。思わず見入るドドス。

「!」

 彼は魅せられたようにその視線に釘付けになってしまった。

 少女の瞳は悲しげだった。

 それはとても深い悲しみに満ちていた。

 吟遊詩人の詠にも歌われている『海の娘』の主人公と同じ悲しみに満ちた瞳のようである。『海の娘』という詠は、性悪な魔族によって海の妖精に姿を変えられてしまった、心優しき漁師の娘の物語である。

 海の底から水上を焦がれて永遠に泣き続ける悲劇の娘────彼女の大理石のような白くて美しい両足は鱗に覆われ、魚の尻尾と成り果ててしまい、もう二度ともとに戻ることはなかったという────

 そのあまりの悲しみに呼応したのか、知らず、ドドスの目から涙があふれだした。

───かわいそうなひと───

 切り裂かれそうなほど切なく悲しい想いだった。

(や…やめ……)

 心に広がるその想いから必死になって逃れようと抗うドドス。このままでは心が死んでしまう。早急に何とかこの呪縛から逃れなければと躍起になる。

「やめろっ!」

 ドドスは大声とともに少女をにらみつけた。はあはあと肩で大きく息をする。

「変な小細工はやめるんだな。もうすぐでお前は生贄になるんだ。あきらめろ」

 少女はまだドドスを見つめていた。だがもう、その黒い瞳には何の表情も浮かんではいない。

「………」

「くそっ」

 ドドスは頭を振ってその場を離れた。

 歩きながら彼は、それでもさきほどの何とも言えない感触が、まだ心に残っているのを感じていた。

 それを払うかのように再び大きく頭を振る。大したことではないのだと心に言い聞かせながら。

「………」

 一方、ひとり石畳の部屋に残された少女は、ドドスの消えていった方角を眺めるともなしに眺めつづけていた。

 天上からぽたりと、水のしずくが彼女のすぐそばに落ちた。

 窓のない地下の一室。壁にかけられたろうそくの炎だけが、彼女の髪の毛を銀色に輝かせているだけだった。



 人間のすべては善人として生まれ、いずれは善人か悪人に別れていく。

 もしくはすべて悪人として生まれ、善人に変わっていく者もいる───どちらが本当なのだろうか。

 性善説、性悪説───昔から論議の的になってきていることだが、真実は決して人間には知ることはできないだろう。

「人間の根源は悪に決まっている」

 ドドスは呟いた。

 地下に設えられた儀式のための祭壇。ろうそくの炎が揺れて、彼のみにくい顔を照らしだしている。そこに彼はひざまずいていた。

 目の前には祭壇に使われる石櫃が置かれてあり、それはまだ儀式の時の布さえも掛けられていない。

 その石櫃には、足もとの湿った石畳やまわりの壁に生えているのと同じ、薄気味の悪い色をした苔がびっしりと生えていた。それが、より一層おどろおどろしさを見せている。

「………」

 ドドスはその苔を見つめているように見えた。だがその実、彼の瞳はそこにはない情景を見ていたのだ。

「そうでなければ、俺だって……」

 ドドスの心はまだ少女の瞳に縛られているようだった。それを充分わかっていても、彼にはどうすることもできぬ。

「俺だって……」

 彼の意識は過去へと遡っていく。茫然とした表情のまま───



「ドドメっ!」

「………」

「やいっ! 汚らしいドドメ色!」

「俺はドドメじゃないっ」

 みにくい顔をさらにみにくくして彼は怒鳴った。

 十歳のドドスの周りを、何人かの同じ年頃の少年たちが取り囲んでいる。

 背中を丸め、下から見上げるような恰好で彼らをにらみつけ、ドドスは叫ぶ。

「ドドスだっ」

「同じじゃないか!」

───ヒュッ!

「いたっ!」

 石が飛んできた。ドドスの額に傷ができ、血が流れる。

「コープスの子のくせに赤い血が流れるぞ」

「ほんとだ。生意気だ」

 わあわあと少年らは、はやし立てた。

「俺は魔族なんかじゃない!」

 ドドスは手を振り回した。彼らに反撃してのことだろうが、彼の拳は虚しく空振りするばかりだ。

「うっそだー。こんな変な顔で、こぶが背中にある人間なんかいるもんか」

「そーだ。そーだ」

「魔族に決まってるさー」

 彼らは足もとの石を拾いだした。それをドドス目掛けて投げつける。

「魔族は村をでてけー」

「お前と一緒にいると魔族になっちまう」

「間違えられて魔法剣士に殺されるぞー」

「でてけー」

「そうだ。でてけー!」

 ドドスは丸まった背中をさらに丸めた。

 石が顔に当たらぬようにと腕で隠す。それでも容赦なく石は飛んできた。

「………」

 ドドスはもう何も喋らなかった。じっとたえていた。

(いったい俺が何をしたっていうんだ)

 彼はあまりの痛さに気が遠くなりそうになった。

 腕のすきまから石を投げつける少年たちを覗き見る。あどけない顔にもかかわらず、彼らの目つきは凶暴な獣の目そのものだった。

 ドドスは思わず恐怖に凍りつく。

 みにくいというだけで迫害される。おのれと少しばかり外見が違う、考え方が違う、そんなことだけで人々は少々変わった人間を排斥しようとする。

(俺がこんな姿なのは俺のせいじゃない)

 彼は唇を噛みしめた。

(今に見てろ。魔法剣士になってお前らを俺の前にひざまずかしてやる)

 魔法剣士───魔族を相手に果敢に戦う魔法剣士は子供たちにとって憧れの的だった。ほとんどの子供たちが一度は目指す職業なのだ。

 だが、どんなになりたいと思っても誰でもなれるものではなかった。たとえ多少の霊力が備わっていたとしても「魔法の塔」への門戸は狭く、すべての希望者が迎え入れられることはないのである。

 魔法の塔───魔法剣士たちの修業の場である。

 身についている霊力を最大限に引出し、霊剣へと生かすためには想像を絶する修業に身を投じなければならない。

 だが、その厳しい修業に耐え、晴れて魔法剣士になった者は人々から英雄扱いされる。卒業と同時に塔から贈られる紫のマントを閃かせ、魔法剣を輝かせる彼らは子供だけでなく大人も羨望の眼差しを向けるのだ。

 だからドドスのように、他人から忌み嫌われる人間には特別に選択したい職業だったのである。

「ちょっとあんたたち!」

 そこへ、りんとした声が響きわたった。

 一斉に振り返る少年たち。ドドスはうずくまったままだったが。

「また、ドドスをいじめてるのね」

 少女だった。

 なかなかの美少女だ。体つきは少年のようにすらりとしていて、まだ大人になるには早い中性的な肢体である。だが妙に女っぽい感じをも見せていた。ドドスと同じ年頃のようだ。

 ふっくらとした子供らしい頬は、ぎすぎすとしたドドスのとは違って桃のようなピンク色をしている。目は光をあてた黒水晶のようにきらきらと輝いており、髪は銀色に近い金髪だ。

「テティ!」

 少年らは一様に慌てて少女の名を叫んだ。まるで、見られてはいけないものを見せてしまったとでもいいたげな感じである。

 テティと呼ばれたその美少女は、両手を腰にあてて仁王立ちしていた。肝っ玉母さんが悪戯な子供たちを叱ってでもいるかのような恰好である。

 彼女は、少年たちをぎろりとにらみつけた。

「ワァァァァ───っ!!」

 あっと言う間だった。クモの子を散らすように彼らは逃げていった。

 あとにはまだ頭を抱えているドドスと、未だに仁王立ちしたまま、ふんと息巻くテティだけが残された。その様子はまるでガキ大将のようで、およそ彼女のような美少女がする仕種ではなかった。

「ふぅ───」

 テティは怒らせていた肩をおろした。ドドスを振り返る。

 それから彼に向かって静かに歩み寄った。

「ドドス」

 彼女は彼のそばまで来ると声をかけた。ドドスはその声にぴくりと反応したが、未だうずくまったままだ。

「もう大丈夫よ」

 彼女は優しく声をかけた。

「あいつらはいっちまったわ」

 ドドスはおそるおそる顔を上げた。

「まあ!」

 彼女はその顔を見たとたん目を見張る。

「なんてこと……」

 口を手でおさえながら、テティは急いでドドスに駆け寄った。

 ドドスの額にはこぶができていた。そのため、みにくい顔がさらにひどい状態になっている。

「あ……」

 ドドスは声をもらした。テティがハンカチを取り出し、そっと額を拭いたからだ。どうやら血が出ていたらしい。

「ごめんなさいね」

 優しく拭きながらテティは謝った。

「テティが謝ることないよ」

 ドドスはそう言ってから慌てて顔を赤くし、下を向いてしまった。

 するとテティはハンカチをおろした。そして首を振る。

「だって…あの子たちにあんたをいじめさせたのはヒューイだもの……」

「………」

 ドドスはくちびるをかんだ。

 ヒューイ───村長の息子だ。

 村長は村で一番の実力者である。村の誰も逆らえる者はいない。したがってその息子であるヒューイも、村の子供たちの中では一番の発言権を持っていた。加えて容姿も彼にかなう者はいなかった。

「………」

 ドドスは、男にしては白くてなよなよした顔を思い浮かべた。

 ヒューイはテティに夢中だというもっぱらの噂である。だがそれも当たり前の事と言わざるを得ない。テティは村一番の器量良しだったし、彼女を嫌いな人間は誰もこの村にはいなかったからだ。それはドドスとて同じことであった。

「ヒューイは…彼は、ほんとはそんなに悪い子じゃないのよ」

 テティは言い訳するようにそう言った。ドドスは下を向いたままムスッとした表情をする。

「ドドス」

 テティは明るい声を上げた。無理やり話題を変えようとしているようだ。

「村外れの泉に行きましょう。あんたの腫れた顔を冷さなきゃ」

 彼女はドドスの腕を持ち上げて彼を立たせた。ぐいぐいと彼を引っ張りはじめる。

(テティ……)

 ドドスの足取りはふわふわとしていて、まるで雲の上を歩いているようだった。

 彼は彼女とつないだ自分の手を見つめる。安らいだ目だ。さきほどまで不機嫌そうだった彼の顔が、嘘のように一変していた。それはとても幸せそうな表情だった。


「ねえ。ドドス」

 テティは泉の岸辺に座って、濡らしたハンカチをドドスの額に当てていた。彼は仰向けに横たわっている。

「なに?」

 彼は目を閉じていた。

 泉の水はとても冷たく、彼の額にできたこぶもすぐに腫れが引くことだろう。

「あんた大きくなったら何になりたい?」

 泉の向こう側には名もない白い花が咲き乱れていた。テティはそれらを見つめながら彼に聞く。

「……」

 ドドスは答えなかった。

「あたしは魔法剣士のお嫁さんになるの」

 答えがなくても彼女は気にせず続けた。

「……」

「霊力って誰でもあるんですってね」

「ああ……」

 ドドスはうっすらと目を開けた。彼の目にテティの白い喉もとが映った。慌てて目をそらす。

「あたしは剣士なんてとてもなれそうにないわ。霊力だってありそうもないし…」

 彼女はドドスの顔を見下ろした。

「あんた魔法剣士になりなさいよ」

「えっ?」

 ドドスは思わず起き上がった。

「あ……」

 よろりと身体が傾いた。急に起き上がったからだろう。

「ばかね。寝てなさいよ」

 テティはドドスの胸に手を置いた。

「うん。ごめん」

 彼は再び横になった。今度は視線を彼女に向けたままである。

「魔法剣士になったらさ。あんた誰にもいじめられないと思うよ」

 テティは続ける。

「知ってんのよ、あたし。あんた霊力の練習してるでしょ」

「……」

 ドドスは何も答えなかった。

 気にせず、彼女は立ち上がると水辺に近づいた。ハンカチを水につける。それから再びドドスのそばに引き返してきて、濡れたハンカチを彼の額にのせた。

「さてと……」

 再び彼女は立ち上がると、横たわるドドスを見おろした。

「あんた、魔法の塔に入れればいいね」

 テティはにっこり笑った。それから彼女は歩きだし帰っていった。ひらひらと手を振りながら。

 一方ドドスは横になったまま、彼女をいつまでも見送っていた。


 それからしばらく経った日のこと。ドドスはテティの家に向かっていた。

 その日は朝から雲行きがあやしく、今にも嵐がきそうな雰囲気が立ち込めていた。ひゅーひゅーと不気味な風が吹くなか、彼は手に白いハンカチを握りしめて急いでいた。

 彼女の家につくと、彼はテティがいるかどうか確かめようと窓から中を覗いた。

「あ、テティだ」

 部屋にはテティがいた。

「あ……」

 そこにいるのは彼女だけではなかった。テティの友人もいたのだ。

 ドドスは迷った。

 彼に優しくしてくれるのはテティしかいなかった。もちろん彼女の友人はドドスのことを嫌っていて、そばに来るのも嫌がる。だから、ここで室内に入るのは勇気がいることなのだ。

「テティって、あのドドスが好きなんだ」

「!」

 友人のその声が、ドドスの耳に突然飛び込んできた。

「そんなわけないじゃない!」

 テティは慌てて大声を張り上げている。

「あんなみにくい顔してる人……」

 ドドスは、はれぼったいまぶたを精一杯広げてテティの顔を見つめた。そして、次の瞬間彼は信じられない言葉を聞いてしまったのである。

「好きになるはずがないじゃないの!」

 テティは叫んでいた。痛烈な声だった。ドドスにとって充分すぎるくらい胸に突き刺さる声だ。

「…………」

 ドドスの思考が一瞬止まる。ショックで何も考えられなくなってしまった。

 その後、彼はどこをどうやって自分の家まで帰ってきたのかわからなかった。

 彼は村から少し外れた場所に一人で住んでいた。両親は彼が八歳のころ魔族に殺されてしまい、それ以来ひとりぼっちなのである。

 毎日の生活のため、幼いながら働いて生きてきたドドスである。姿がみにくいために、同じ年頃の子供たちはおろか、大人たちにまで意地悪されることもあったが、彼は歯を食いしばって我慢したのだ。それもこれも、たった一人、彼に優しくしてくれるテティがいたからこそである。

(テティが…彼女があんなこと……)

 彼にはとても信じられなかった。

 あの泉で魔法剣士のお嫁さんになりたいと言ったのは彼女ではなかったか。そして、ドドスに魔法剣士にならないかと言ったのは、他ならぬテティではなかったか───彼はテティのハンカチを手に握りしめたままだった。

「ハンカチ……」

 彼は立ち上がった。

「返しにいかなきゃ……」

 さっきのことはどういうことなのか、彼女に聞いてみようと決心し、取るものも取り敢えず再び戸外に出たドドス。いつの間にか吹き荒れる風には雨が混じっていた。

───ゴロゴロゴロ───

 遠くで雷の音も聞こえている。彼はハンカチがぬれないようにポケットにしまった。

「きっと冗談に決まってる」

 彼は呟きながら、まるで夢遊病者のようにふらふらとおぼつかない足取りで歩いていった。途中、テティと過ごしたあの泉のそばを通りかかる。

「!」

 泉のそばにテティを見つけ、ドドスは驚いた。とっさに木の陰に隠れる。なぜなら彼女は一人ではなかったからだ。

「君が好きなんだ!」

 それはヒューイだった。

 近づいてきた雷の光で照らしだされた彼の白い顔。なよなよしてはいても美少年というべき顔ではある。さらさらと絹のような音が聞こえてきそうな金色の髪。その金髪は、雨にぬれそぼっていても輝きを失うことはないようだった。

 ヒューイはほっそりとした腕でテティの身体を抱き、その細い女のような指を彼女の髪に埋もれさせていた。そして彼はさらに強くテティの身体を抱きしめた。

(やめろ!)

 ドドスは叫びだしたかった。

 彼の隠れた場所からではテティの顔は見えない。ドドスはテティの顔を見ようと、短い首を精一杯伸ばしてみた。すると、まるでそれを待っていましたとばかりにヒューイはテティに口づけたのだ。

 ドドスは思わず叫んでいた。

「やめろぉぉぉぉぉ───っ!!」

 その時、突然それは起こった。テティとヒューイの周りに風が集まりはじめたのだ。

───ヒョォォォ───

「なんだ?」

 ヒューイはテティを抱いたまま、訝しげに眉をひそめた。

「ドドス?」

 さきほどの叫び声で、テティは近くの木のそばにドドスの姿を見つけていた。

 彼の背中はますます丸まっていた。見つめる双眸は獣のようにぎらぎらと輝き、それはもはや正気の域ではなく、まるきり狂気じみていた。

 すると彼は、おもむろに両手を二人の方へかざした。何やらぶつぶつと呟いている。

「どうしたの。ドドス!」

 彼女は叫んだが返事がない。

 よく見るとドドスの目はどんよりと濁っている。それなのに不気味な輝きが見て取れた。その狂気じみた輝きが、彼女に何か得体の知れない恐怖を感じさせた───


 我に力を与えたまえ

 我に力を与えたまえ

 憎き者どもに制裁を

 地獄の苦しみを下し

 その魂を切り裂きたまえ


 テティの耳に呪文がかすかに聞こえてきた。

 どこで覚えたのだろうか。それは邪教徒たちの呪いの儀式の呪文だった。

───ピッ!

───ピシッ!

 不吉な音がする。

 最初はいったいなんの音なのか彼女にはわからなかった。しかし、身体に何か生ぬるいものが流れはじめたのを感じた時、彼女ははっきりと何が起きているのかを悟った。

「いたいっ」

「うわっ」

 テティとヒューイ、ふたりの身体のあちこちに傷が走った。まるでそれは細いナイフでめちゃくちゃに切りつけられているようだった。

 みるみるうちに無数の傷が走りだす。二人の身体は流れだす血液で真っ赤に染まっていった。

「ドドスっ。やめてっ」

 テティは悲鳴を上げた。

「どうしてこんなことするの!」

 鮮血にまみれた腕を伸ばして叫ぶテティ。

 だが、すでにドドスの耳には何も聞こえてはいない。何も見えてもいない。

 彼女が懇願するように叫んでも、憎しみの表情しか彼の顔には浮かんでいなかった。そして───

「滅!」

 ドドスの甲高い声と同時に、テティたちの身体が一気にひしゃげた。

「ギャァァァァァ─────ッ!!」

 二人の恐ろしい叫び声がこだました。

───ビシャッ───

 ドドスの顔や身体全体に、二人の血や肉が振りかかる。

 それでも彼は無表情な顔で立っていた。

 顔に振りかかった血のりは、絶え間なく降りそそぐ雨にたちまち洗い流されていく。

 だが、彼は動こうとしなかった。いつまでも二人のいた場所を見つめ続けていた。

 雨はそんなドドスの上に、いよいよ激しく強さを増していく───



「人間なんて生まれながらの悪人なのさ」

 ドドスは呟いた。優しく微笑む黒い瞳の少女の姿を思い浮かべながら。

「テティは俺に…魔法の塔に入れればいいと言ってくれたが───」

 彼はギリッと歯ぎしりした。目の奥がメラメラと燃える。

「あの時すでに…俺は塔に拒絶されてた」

 魔法の塔には、しっかりとした人物の紹介がなければ入門の審査もなかなか受理してもらえない。

 ときたま紹介なしの飛び入りでも審査してもらえることもあるが、そういった場合、よほどの清廉潔白な人物でなければ入門は危うい。『人々の平和と未来のために』という魔法の塔の信条にそぐわぬ者は決して入門を許されないのだ。

 そしてドドスは、審査さえも受け付けてはもらえなかったのである。

「だからこそあの時は……」

 彼は立ち上がり、遠くを見つめるように顔を上げた。

「俺にはテティしかいなかった」

 それでも拒絶された者の中には、諦めきれずに自分の力だけで剣士になろうとする者もいた。

 だから、ドドスも独学で魔法剣士になろうと密かに決心していたのである。そんな矢先のことだったのだ。

 だが「はぐれ剣士」のほとんどは邪剣士に成り果てるケースが多かった。ドドスの場合は、事件以来魔法剣士というものに憎悪さえ抱くようになってしまい、二度と剣士になろうと思うことはなかったが。

「テティの裏切りは決して許されることではない……」

 だらりと垂れ下がっていたドドスの両手が握りしめられた。

「俺は彼女を絶対許さない」

 彼は前方の空間をにらみつけたまま、いつまでも動こうとしなかった。

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