第2話「月の御子」

 少女は目を閉じ、大木の下に身を寄せていた。盛り上がって地面から顔を見せている太い根にもたれて。十歳くらいのまだほんの子供のようだ。

 眠っているのだろうか。安心しきった表情で、木の根にもたれかかっている。

 昼下がりのひとときである。うっそうと繁る木々の間から木漏れ日がさしていた。その柔らかな陽射しを受けてきらきらと輝く銀色の髪。それは、今にも極上の音楽を奏でそうなほどに輝いていた。

 少女のまぶたが、ぴくりと動いた。ゆっくりと開かれていく。

 なんとその瞳の美しいことか。黒水晶のように妖しく揺れ動く、瞳のとても大きな目だ。白目の部分がほとんどなく、真っ黒な瞳である。まるで海の底の深遠を覗きこんだかのような暗さだ。

 瞳に限らず彼女の醸しだす雰囲気は、どこか神掛かっていて神秘的だった。今、その彼女は何かの気配を感じ、耳をそばだてていた。

────ザザッ!

 近くの茂みから何者かが飛び出してきた。じっと見つめる少女の目の前にその者は立ちはだかった。

 フードつきのマントをはおったそいつは、背が低かった。

 男だろうか。一見しただけでは判別できない。少女はそれでも相変わらず無表情で落ちつきはらっている。

「なんだ。子供か」

 その声は男のようだ。あまりいい声とはいえない。しゃがれて汚らしい声だ。

 男はフードをはらりと取り払った。その下から何ともみにくい顔が現れた。

 腫れぼったいまぶたの下から、どす黒くどんよりとした目が覗いている。縮れて中途半端に伸びた髪の毛が、広くて出っ張っている額にはらりとかかっていた。

 男はうるさそうにその髪を払うと、舌なめずりをした。どうやら少女の美しさに気づいたらしい。

「へぇ…きれいな子じゃないか…」

 厚ぼったいくちびるから、ぬめぬめとしたいやらしい舌を覗かせてほくそえむ。ずずいと少女に近づく。普通の少女なら怯えて震え上がるほどの状況だ。

 だが、彼女はまったく表情を変えることなく、近づいてくる男を見つめていた。

 男は、少女をなめまわすように見た。そして驚いた表情を見せた。

「こりゃ…上物だ。いいぞ……」

 彼は、どろりとした汚物だめのような目を輝かせた。

「これで俺もまた闇の大神官に戻れるぞ」

 勝利のポーズのように両拳を握りしめる。

「闇の大神官ドドスさまへ、な」

 少女は微動だにせず、みにくいこのドドスという男を見つめていた。

「ヒャッハッハッハ────ッ!」

 深い森の奥、ドドスの笑い声だけがこだましていった。それはどこまでも、そしていつまでも木々の間を抜けていき、これから始まる惨劇を物語っているかのようだった。



 ドーラは再び砂漠を歩いていた。

 今度は一人ではない。彼の後ろをひとりの男が歩いていた。

 ちらりと振り返り、すがめた目つきで見つめる。

 男は魔法士だった。麻で織られたフードを目深におろし、今はどんな顔かはここからでは見えない。

 ドーラは再び前に視線を戻し、広がる砂の地平線を眺めた。心ここにあらずといった表情だ。

 彼はペンターシャンの里で聞かされた話を思い出していた。

 長老が出ていき、ドーラは彼がすぐに帰ってくるだろうと思っていた。だが長老は二、三日は戻ってこなかったのだ。そしてある日の朝、ようやく長老がドーラの前に姿を見せた。

 憔悴しきった彼の顔を見た時、ドーラは何かとんでもないことが起きたに違いないと思った。

 しばらくの間、ペンターシャンの里で暮らしてみてわかったことだが、里の人々は皆一様に落ちつき、無表情だった。幼い子供はただの一人も見当たらず、みんな三十代くらいの若い風貌の人々だった。確かに見かけ通りの年齢ではないと聞かされてはいたが、そうでなくともドーラは、彼らがずいぶんと年寄りなのだということが、何となく肌で感じられた。里の人々は見かけは若くても、若者特有の活発さが見られないのだ。つまり、思慮深い顔をした老人のような者たちばかりなのである。

 だから、長老のただならぬ様子は里では珍しいことなのだった。

「ドーラどの」

 長老は重々しく口を開けた。

「たいへんなことになりました」

「……」

 ドーラは何も言わなかった。無言のまま、彼に先を促す。

「月の御子のお話をしましたね」

 ドーラは頷く。

「月の御子は、かつて古の神々と戦われた善神オムニポウテンスの娘であるお方が、この世界に残した聖なる少女なのです」

「えっ。善神オムニポウテンスだって?」

 ドーラはびっくりして叫んだ。

「吟遊詩人の詠にも歌われている邪神戦争のことは、あなたもお聞き及びのことと思います」

 ダリュース長老は続ける。

「世界には古の神々がおられた。しかし彼らは我ら人間にあだなす存在となってしまったのです。それを諌めようとした他世界の神であるオムニポウテンス一族と、邪神と成り果ててしまった古の神々との間に戦いが起きたのです」

「魔法剣士だけじゃない。邪神戦争のこたぁ誰でも知っていることだ」

 ダリュースは頷く。ドーラは続けた。

「そのオムニポウテンスは、人間に希望をもたらす光の神となったんだ」

「そうです」

 長老ダリュースはドーラの言葉を受けた。

「他世界よりこちらの世界に移り住んだ時より、善神オムニポウテンスは光神とならせられたのです」

「他世界?」

 ドーラは訝しげな顔をした。

「異世界のことか? それにしちゃ変な言い回しだな」

 彼の不可解そうな表情を見てダリュースは苦笑した。

「御子さまですよ。あのお方は異世界ではなく、なぜか他世界とおっしゃるのです」

「ふぅーん。変なやつ……」

「………」

 ダリュースはドーラのその失礼な言葉は敢えて無視をし、先を続けた。

「光の神オムニポウテンスには何人かの子供たちがいたといいます…その存在は謎に包まれていてどのような神であるのか伝えられていません」

「その子供のひとりである人物の子供…つまりはオムニポウテンスにとって孫にあたる子供がこの里にいるってことか」

「その通りです」

 ドーラは椅子にどっかと座り込んだ。

「まったく…なんでそんな大それた奴がここにいるんだよ」

 彼は髪をかきむしった。ただ、かきむしるだけの長い髪が彼にはなかったのだが。

「で?」

 ドーラはかきむしる手をとめた。問いかけるように長老に目を向ける。

「その月の御子だかなんだかが、どーかしたんだろ?」

「そうなのです」

 長老は青い顔をしている。

「その…よく御子はお忍びでジャングルに行かれるのですが……」

「お忍びだあ?」

 ドーラは片眉を大げさに上げてみせた。

「まだほんの少女なのです。好奇心が旺盛で里の外を見てみたい気持ちからでしょう」

 いいわけのつもりなのか、彼は必死に言葉を選んでいる。

「神の子のくせにぃ?」

 ドーラは目一杯、眇めて長老を見ている。

「はぁ……」

 ダリュースは汗もかいていないのに、手で額をぬぐった。

「ジャングルっつったって、ここはオアシスで、そんなもんねーだろが」

「あの、瞬間移動でですね……」

「あぁ───そういや……」

 ドーラは首を縦に振る。神経質そうに小刻みに。そうしながら彼は言葉を続けた。

「神族だったよなあ」

 ドーラは何か嫌なことでも思い出したのか眉間にしわが寄っている。

「普通ならすぐに戻ってこられて、ジャングルで夜を明かすということはなかったのですが…」

 長老は手をせわしなくこすりあわせた。

「今回に限ってここ何日も戻っていらっしゃらないのです」

「ふうーん…」

 ドーラは指で鼻の頭をかいた。

 どうも彼には事の重大さがわかっていないらしい。それが伝わったのか、長老は苛立たしそうにそこら辺を歩き回りはじめた。

「ああ!」

 彼は手を振りあおいで、ドーラの目の前に立ちはだかった。

「あなたは心配ではないのですか?」

 ドーラは思わずびっくりといった顔を見せた。

「だって……」

 彼はダリュースから離れようと、少し身体をのけ反らせた。

「御子さまは神族なんだろ?」

 両手をばっと広げてみせる。その仕種はどことなく厭味っぽい。

「心配しなくったって俺ら人間よりよっぽど強いんじゃねーの。ほら、ちょちょいのちょいで瞬間移動すりゃいーんだからさ」

 ドーラはおどけてみせた。

「ドーラどの……」

 長老は神妙な顔をした。彼のその様子に何か感じたらしい。

「神族のこと、お嫌いなのですか?」

「ああ。でぇーっきれぇだね」

 ドーラは、まるでダリュースがその神族ででもあるかのように睨み付けた。

「神族も邪神族もどっちも同じさ」

「しかし…」

 ダリュースが何か言うのをドーラは手を上げてさえぎった。

「確かに神族は人間に悪さしないだけいいかもな。だけど神族も邪神族も神話の世界の住人だぜ。大昔みたいに俺たち人間を自分たちの戦いに巻き込んでほしくねー。それどころじゃねーんだ。俺ら人間は毎日魔族と戦ってる。少なくとも俺は目の前の戦う相手だけがすべてなんだ!」

 彼は語気荒くまくし立てた。

「しかし、邪神が復活したら……」

「わかってるさ!」

 ダリュースの言葉にドーラは怒鳴った。

「そうさ。俺だってわかってる。邪神は復活してくる。すでに復活してるやつもいた。魔族なんて子供だましみたいなもんだってな」

「え…?」

「でも!」

 ドーラは声高く叫んだ。

「どうしろってんだよ。俺たちが束になってかかったってかなわねーんだぜ。月の御子だか何だか…そいつ神族なんだろ。そいつが邪神倒してくれんだろっ────」

 興奮が頂点に達したドーラは、思い余って言葉を失ってしまった。はあはあと肩で息をしている。

「すまねー……」

「ドーラどの───」

 長老は一瞬不審そうな表情を見せた。名前を呼んだきり、それ以上何も言わない。

 そんなダリュースの視線を受け止め、ドーラは急速に興奮が冷めていくのを感じた。

「なぜですか?」

「?」

 ドーラは訝しそうな顔を長老に向けた。

「なぜあなたが知っているのですか?」

「は?」

 ドーラは意味が分からず、ぽかんと口を開けた。

「邪神の復活をですよ」

「ああ…」

 ドーラは何だと言いたげに頷いた。

「俺は直接見たわけじゃあない。確か…そう風神といったっけな。魔法の塔をほぼ壊滅状態にまで追い込みやがった」

「そうですか…やはり……」

 ダリュースは暗い面持ちで下を向いた。

「御子さまがおっしゃってた通りになりました───」

「御子さんが……まさか予言したなんて言うんじゃねーだろーな」

 ドーラは険しい表情を見せた。

「予言だけしといてほっといたなんてえ俺ぁ許せねーぜ」

「そうじゃありません」

 ダリュースは慌てて顔を上げた。

「そうじゃありませんが…予言は確かにありました。でも違うのです!」

 ドーラが再び何かを言おうとするのを彼はさえぎる。

「詳しいことは今は言えませんが、御子さまには助けられないわけがあるのです」

「わけだぁ?」

 うなずく長老をドーラは大いに胡散臭そうな目で見た。まるで彼がその御子であるかのように。

「それ以上聞かないでください。きっといつか、すべてのことがわかる時がきますから」

 ドーラはまだ不満そうではあったが、しぶしぶ彼の言葉に頷いた。

 そう、本当はドーラは怖くてたまらなかったのだ。神が助けてくれるのならそれにこしたことはない。

 そしてまた彼だけではない。ペンターシャンの里の長老であるダリュースにしたって、恐れているのだろう。邪神の復活を。ドーラの言葉は彼の心の代弁でもあるのだ。

「まあ、その……」

 ぽつりと呟くドーラ。彼は毒気をぬかれてしまったのか、すっかり肩を落としていた。

「なんでこんな話になっちゃったんだろ」

「いいのです…」

 長老の声にドーラは顔を上げた。

「あなたの気持ちはわかります。でもドーラどの。だからといって逃げる訳にはいきませんよね」

「そうだよな…」

 ドーラはそんなダリュースを眩しいものでも見るように目を細めて見つめた。


「逃げるわけにはいかないんだ……」

「何かおっしゃいましたか?」

 ドーラは、はっと我に返った。砂まじりの風が彼の顔に吹きつける。

「ぶえっ、ぺっぺっ」

 ドーラは手を振って砂を払った。それからあたりを見回す。砂、砂、砂である。

(ティナっていう名前だったな)

 彼はずいぶん考え込んでいたようだ。長老に聞いた月の御子の名前を思い出す。

「おい」

 後ろを振り返る。

「はい?」

 フードの男が顔を上げた。初めてオアシスでドーラと対面した、あの男の顔がそこにはあった。

 相変わらず無愛想な顔だと、ドーラは思いながら喋る。

「あんた。なんて名前だっけ」

「ファーと言います」

 彼は静かに答えた。ドーラは手をひらひらさせた。

「ああ。そんな名だったな…」

 彼はさらに続ける。

「月の御子ってどんな子なんだ?」

 ここにきて初めてファーの顔に変化が見られた。ほんの少し頬が赤みを帯びた。

「ちっ…」

 それを面白くない顔で見ながらドーラは舌打ちする。

「あんた。見たことあるんかい」

「めっそうもありません!」

 慌てて叫ぶファー。

「わたしどものような下々の者は滅多にお逢いすることはありません」

「ふうーん…」

「ただ……」

「ただ?」

 ファーは我に返ったようにもとの無愛想な表情に顔を戻した。

「一度だけですが、お顔を拝見したことがあります……白皙の女神と言っても過言でないほどのそれはもうお美しいお方です」

 明らかに誰が見ても、ファーはもとの無愛想な顔に戻りきっていなかった。

 だが、ドーラはそんな彼の顔にもまったく気づいていないようである。ただ月の御子に対するファーの賛辞が、あまりに大げさなため、すっかり不機嫌になっていた。

 ドーラは再び前を向き、歩きはじめた。後ろに控えていたファーも、フードを目深におろすと同じく歩を進めた。

(ふん、まったくの話。どいつもこいつも御子、御子って…どんなにべっぴんさんか知らんけどガキだろーが。仮にもこの俺は天下の大魔法剣士ドラディオン・ガロスさまだぞ)

 心の中で悪態をつくドーラ。

(俺はお子様ランチにはきょーみねーっつうの。どーせなら女の魔法士がよかったぜ。こんなつまんねー男とじゃあ人助けするのにも力はいんねー)

 彼らの前に広がる砂漠は、いつまでも果てがないかのように見える。ドーラとファーはそんな砂の海を、たえず吹きつける砂風と戦いながら、一歩一歩進みつづけていった。


 それでも二日と経たぬうちにドーラたちは砂漠を抜けることができた。

 昨日まで砂まじりの風の中を歩いていたのが嘘のような、静かな月の夜更け。

 ぱちぱちと燃える焚き火を見つめながら、ドーラは辺りに広がるジャングルに時々目をやる。

 木々はドーラたちをぐるりと取り囲み、まるで獣たちを退け、守っているかのようだった。しかし炎がなければ、すぐさま獣たちが彼らを切り裂こうとしていただろう。

 彼の目には、ただ暗く闇が広がるだけで何も見えはしなかったが、恐らく獰猛な獣たちが彼らを暗闇の向こうでじっと見つめているに違いない。魔族に対しては何の怖さも感じてはいなかったドーラだが、なぜか獣に対して恐怖を感じずにはいられなかった。

 ぶるぶるっと身震いをして口を開く。

「交代で見張りをしようぜ」

 彼は炎の向こうに座るファーに向かい、そう言った。

「どうぞお休みになってください。見張りはわたしひとりで十分です」

 ファーは無表情な顔をドーラに向け、そっけなく答える。

「そーゆーわけにはいかねーだろ」

 ドーラはムッとした。

 足もとにあった小石を火に向かって投げつけると、火花がぱっと散って火の粉がファーの方にも飛んでいったが、それでも彼はまったく表情を変えようとしなかった。

「明日も早くからティナさまを探さなければなりません。どうぞお休みください。ドーラさま」

「ドーラさまっつうのはやめれっ!」

 ドーラは投げつけるようにそう言うと、背中を向けて横になった。

「今度、さまをつけたら口きいてやんないからなっ」

 すねたような口調である。

「……」

 その時、ファーは口もとをほんの少しほころばせた。

 ドーラはファーに背中を向けていたため知るはずもなかったが、それは驚くほど優しそうな表情だった。

 切れ長で細い目が二本の線のようになり、目の表情はわからなくなっているが、のっぺりとした顔全体に何本かのしわが寄る。それが、なかなか雄弁に彼の本質を語っているようであった。ドーラがこれを見たら、きっとファーに対しての見方も変わっただろう。

 ふたりの間が縮まるのも、そう遠いことではないかもしれない。まだもう少し時間がかかりそうではあるが。

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