6
「浅川どうしたんだ」
ゼミの担当教授は私に尋ねる。久しく顔を出していないから、そう聞かれるだろうことは予想できた。ただ、予想できたからといって答えが用意できているわけではない。
「死んでました」
他に言いようもなく素直に答えた。隣の席の男子が小さく吹き出す。
どうしたんだと言われても私自身よくわからないから困る。説明するのは難しい。他に何とか言いようもあったかもしれないけれど正直面倒くさかった。エトの話は面倒くさい。
あまり踏み込まない性格であるらしい教授は、そうか、とさっぱりとした反応。
「それは、仕方ないな」
有難いけれど、少しの寂しさを感じる。仕方なかったのだろうか、エトのこと。
エトは良い奴だった。
良い、というのにも色々あるけれど、エトは常識を弁えた者であろうとしていた。真面目だった、と言うべきか。クソ真面目では自身も付き合う方も窮屈だから、ある程度は適当に。熟語の意味通り、適当であろうとしていた。相手に対して、その時々に対して。それこそクソ真面目にそうあろうとしていた。結局のところクソ真面目であったわけだから、やはりエトは阿呆だと思う。
授業中のエトは良い学生だった。教員の質問に対して他に手を挙げる者がいなければ何度でも手を挙げたし課題の締切も守った。授業が滞ることが気まずかっただけだとエトは呟いた。優等生になりたかったわけではなかったのだ、と。私に言わせてみれば、その発言も十分に優等生ぶっていて気に食わなかった。
出席の確認も済んで授業が始まる。前回配られた資料に沿って、教授が方法論や文例を解説する。しかし、それらは私の頭にちっとも入ってこない。
在るがままでは駄目なのだろうか。思うがままでは、いけないのか。
優等生なんて食えないもんだと思う。気に食わないし、食ってもいけない。真面目であれば表立って非難されることこそないが、それ以上の何があるわけでもない。辛いことでも頑張らないといけなくて、失敗したら自分のせい。抱え込んだ負担に潰れたって、それは自ら抱え込んだもので誰も責任なんて取ってはくれないのだ。時に野暮ったくもある真面目さというものが、私にはとても気に食わない。
「それで、この文章の視点は」
エトが死んだ後、私は授業中に手を挙げなくなった。手を挙げなくなった代わりに指されるようになった。不真面目に生きる者は相応の危険や非難を覚悟しなければならない。今もそう、先生からのご指名が私に刺さる。
「浅川、この文章の視点は誰」
「一人称、私です」
私というものは一人であるべきで、そのためにエトは死んだ。
友人アリノ曰く。
「ケイちゃんの書く話って主人公の一人称語りばっかりね」
そうかな、と首を傾げかけて記憶を辿ったところ確かにそうであったから、私は返答の語尾を変えた。
「そうだね」
今日は大学の図書館に一日中籠っていた。ゼミの授業があるわけでもないのに珍しく学校に行こうと思ったのは、単に下宿でエトと向き合っているのが嫌になったから、それだけのこと。
一限目の終わる時刻に起き出し、大学に着いたのはじき昼休みを迎えようという頃だった。図書館に行ったところで調べたいことは特にない。何か作業をする気力もない。学習スペースの片隅に席を取り、適当に見つくろった図説や見応えのある写真資料集に目を通して時間を潰した。
夕方。外へ出てきた私を迎えたのは地を抉る勢いで降りしきる雨。突き出た庇の奥に立っていても空気中の水気が服や肌を湿らせる。湿った分だけ己がぶくぶくと肥大していくような感覚が気持ち悪かった。
背に負った荷物には折り畳み傘が入っていたけれど、景色を白く煙らせる豪雨を前にしては取り出す気にもならない。地元にいたころから使い続けているそれは、開いては畳んで繰り返し使う中で骨格に歪みが生じている。最近では広げてもぐらつくし閉じるにも収まりが悪い。この勢いの雨には心許なかった。
一度退出した図書館に戻る気にもなれず、雨足が落ち着くまでどこで時間を潰そうかと考え始めていた、そこへバス停の方からアリノが駆け込んできたのだった。
「よく降るね」
誰にともなく私は呟いた。放課後を待つ空き教室には私とアリノしかいない。
窓の外は土砂降りの雨。排水口は殺到する雨水で呼吸困難に陥り、苦しげに泡を吹いている。地面は流れ込むべき側溝を見つけられない大きな水溜りたちのせいで一帯が水没していた。
通り雨だよ、と答えてアリノは私の方を向いた。
「合評、参加していくでしょ。終わる頃には止んでるだろうし」
今日は放課後に私たちが共に所属しているサークルの活動がある。
月に一、二度、部室に集まって事前に配られた部員の作品について意見や感想を交わす合評の日。別に出席は絶対ではないから、都合が悪かったり気分が乗らなかったりしたら参加せずに帰っても怒られはしない。実際、私は久しく参加していない。
「合評が始まる前には止むよ」
この雨は局地的で、あくまでも一時的なもの。いつまでも降る雨ではないことくらい言われなくてもわかっていた。
時刻を確認するため携帯電話の待ち受け画面に目を落とす。表示されているのは未読のメールを知らせるアイコン。どうせ合評会の開催を知らせるものだろうと開きもせずに放っている。雨さえ降っていなければ真っ直ぐに帰るつもりだったのだ。こんなに激しく雨が降らなければ。
「傘を持ってたら、すぐに帰ったんだよ」
降りしきる雨を受け止める、または受け流す傘があったなら真っ直ぐに帰っていけたのだ。しかし、私が持っているのは使い古しの折り畳み傘。ちゃんと役目を果たせるのかも怪しいのに、捨てられないで大事にカバンの奥にしまい込んである。
アリノは前髪の奥できれいな形に整えられた眉を寄せて言った。
「ケイちゃん、最近どうしたの」
サークルの合評に参加したのは、いつが最後だったか。少なくとも書きかけのエトの話を提出したのが昨年度の二月。最後に合評に参加したのは、それよりも前だった。
アリノは恐る恐るといった様子で尋ねる。
「授業は」
「ゼミには出てる」
「司書は」
司書課程、取ってたよね。私のことなのになぜかアリノが縋るような顔で言うから、正直に答えられず黙っていた。これでも答えにはなっているはずだ。
沈黙の意味を正しく理解した友は顔を歪め、更に問いを口にする。
「ケイちゃんは、これからどうするの」
どうしようね。就職活動に進学に、私はどこに向かっても歩き出せていない。
「今は、何してるの」
「エトのこと考えてる」
エトのこと。私のこと。カバンにはいつも書きかけのエトの物語が入っていた。
エトを背負って私はここまで歩いてきた。
「エトは自分のやりたいことがわかってない」
いつもすべきことばかりが先に立って、やりたいことはその向こうに押しのけられている。一方の私は、ただ穏やかに過ごしたかった。どん底まで気持ちが落ちて、床に転がったまま起き上がれなくなるようなのは嫌だ。
「自分に何ができるのかもわからない」
真面目な良い子であろうとしたエトだから、少なくともいくらかは何かできることがあるはずなのだ。だけど自分を見る時のエトの目はただ水を零すだけの節穴になって、ありのままの己というものが見えない。私の方はといえば、やりたいかやりたくないかの区別しかなくて何ができることなのかがわからない。
何ができる。何の特別な資格も技術も持たないのに。
人と話すことは苦手で、バイトの面接だってろくに通りやしなかったのに。
ごろごろと遠くで雷が唸っている。
「ケイちゃんってさ、作品を書く時、人物に自分を重ねてるでしょ」
自己投影、一人称のエト視点は作者である私の視点じゃないのか。
アリノの指摘に私は頷いた。
「そりゃあ、書きやすいし」
自分が知らないものよりも知っているものの方が書きやすい。経験をもとにして書けばリアリティも出る。私が述べる薄っぺらい建前なんて無視してアリノは問う。
「何でエトを殺したの」
我が友ながら人聞きの悪いことを言う。
「エトは生きていけなかったから」
だから死んだんだ。
「殺したからって前に進めるわけでもないでしょ」
「でも」
窓の外が一瞬明るく染まる。直後に轟く、何か堅い殻を叩き割るような雷鳴。
でも、先に私を殺したのはエトの方だ。
自分を殺して良い子になろうとした。それでちゃんと生きていけるのなら、私は犠牲になってもよかった。だけど。
「エトは生きられなかった」
アリノは尋ねる。
「ケイちゃんもエトも死んでいるのなら、誰が今生きているの」
ここにいるのは誰なの。
浅川恵途は一体何なんだろう。
クソ真面目だったエトは死んだ。在るがままで在りたいだけのケイは、考えが甘いと言われて生きていけない。それなら生きていける私は、恵途はどこにいる。
夕立の後の空は赤と紫と青が複雑に入り混じって、世界の終わりを思わせた。
雨は合評が始まる前に止み、私はアリノの問いに答えを見つけられないまま学校を後にした。何だか腹が減っていた。
「ちっとも帰ってこないけど、元気にしてますか。ちゃんとご飯食べてますか。夏休みには顔見せに帰ってらっしゃい」
サークルからの連絡だと思っていた新着メールは、母からだった。
盆には帰る、と短く打ち返してのろのろ歩き出す。
帰りたくない。帰れない。
地元を出るまでずっと真面目な良い子として褒めそやされてきたエトを、私は死なせてしまった。授業にもサークルにもろくに出ていない幽霊のような私には、親に合わせる顔がない。
気がつくと見覚えのない道を歩いていた。アスファルト舗装された土手。土砂降りの影響で増水した川は濁った色で、どぶどぶと音を立てて流れていた。今の私はちゃんと一人暮らしのアパートに向かって歩けているのだろうか。川沿いの道はどこまでも続いている。どこかで町中に入る道に逸れなければならないのだろうけど、この土手をどこで降りたら良いのかわからない。
帰れるだろうか。どこに帰るのか。下宿に、それとも地元に。自分がどこにいるのかもわからないのに帰れる気がしなかった。恵途を捜さなくてはならない。恵途はどんな奴だったろう。そもそも恵途なんてもの、存在していたんだろうか。
ぐるぐると考えが渦を巻いて狭まる視野に、前方から人影が映り込む。
こんにちは、と挨拶された。通りすがりの老人、擦れ違いざまに。
「こんにちは」
咄嗟に挨拶を返す。反射的に頬の肉が持ち上がり、目は細まり、口角が上がっていた。
笑っている。
にこやかな老人と会釈を交わして三メートル、五メートル。元々重かった足が完全に止まる。
笑えたの、とケイの声。こんなに頭の中が散らかっているのに。行き詰ったケイでは笑えない。声出たの、とエトの声。もう応えることには疲れてしまったのに。知らない人の呼び掛けに応える声をエトは持たない。
ようやっと振り返った時には、どこで土手を降りたのか老人の姿は見当たらなかった。ただ彼の目に映ったであろう若者の姿ばかりが私の頭を掴んで離さない。そこにはケイもエトもいない。老人にとっては見ず知らずの若者。たぶん酷く沈んだ顔で歩いていたはずだ。でも挨拶をしたら笑顔で会釈を返して。その若者の名前は。
駅前のスーパーに寄ってからアパートに帰ると、相変わらずエトは部屋の片隅に座り込んでいた。
正直その辺、掃除が行き届いてないから座らないでほしい。
「何を買ってきたの」
エトが買い物袋に興味を示す。
「一週間分の食料ですよ」
腹が減っては戦はできぬ。生きることは戦いだ。誰との戦いだ。自分との。
すぐに己を殺しにかかってくる自分と戦うためにも、腹を満たす必要があった。
「キャベツ買いましたか」
「四分の一玉しか残ってなかったけどね。ちゃんと水も買いました」
何も食べ物に手が伸びなかった時だって水だけは買っていた。水が無くては歩いていけないから。色々たくさん見失っても、それだけは痛い程わかっていた。
冷蔵庫の前に買い物袋を下ろしてエトのもとへ。部屋の片隅、掃除機の隣はそんなに居心地が良いのか。日が長い季節とはいえ今の時間、東向きの窓しかないこのワンルームは薄暗い。
「電気点ければいいのに」
通りがかりに照明のスイッチを入れる。一瞬ちらついてから部屋を照らす明かりにエトは目を細める。
「もったいないと思ったんだ」
目の前に立つ私と目を合わせずに、エトはスティックタイプの掃除機にもたれる。ごみタンクを孕んで太った機構部分から細いホースと持ち手を兼ねたパイプが伸びるそれは、座り込んだエトの頭があたる丁度良い位置に段差がある。
「与えられるものばかり多くて。私が返せるものなんて、ろくになかったから」
例によって手入れをさぼっているために、掃除機にもいくらか埃が積もっているので触れない方が良いと思う。それでもエトはそこに頭を預けて目を閉じる。居眠りの半ばで起こされた学生みたいに、細部のぼやけた声が呟く。
「返しもしないくせに受け取ってばかりだって、非難されるのが怖かった」
さすが死んでしまっただけあって、エトの頭は相当阿呆であったらしい。
「そんなもん与える方が勝手なんだよ。返せるものがないなら、せめて嬉しそうな顔して受け取ってやれば良いんだ」
エトの感覚はよくわからない。ただ、私には理解できなかったけれどエトは悪い奴ではなかったと思う。
「エト」
私は呼びかける。エトは返事をしない。
「私、ずっと恵途を見失ってたんだ」
「恵途なんていない」
エトは目を閉じたまま答えた。
「いるよ」
郵便局で年賀はがき販売のバイトをして、ヘンクツ爺さんからポン菓子を貰った。
個別指導塾のバイトがちっとも上手くいかず、半年も経たずに辞めた。
企業の質問に馬鹿正直に答え過ぎて、ちっとも選考を進めなかった。
しこたま飲んで寝落ちした挙句、二日酔いでダウンした。
司書課程の授業を途中で放り出した。
「思い悩んで苦しんで逃げて、そうやってここまで生きてきた。その私を外から見た形こそが恵途だ」
エトもケイも外から見れば同じ三人称、浅川恵途になる。
ずっと一人称視点で過ごしてきたからその存在を見失っていただけで、恵途はずっとここに在った。
「それじゃあ、私たちはいなかったことになるじゃない」
目を開けたエトは恨みがましく私を見る。
外から見ていたって、私が何にどれだけ悩んで苦しんだかなんてわからない。死ぬほど思い悩んだ己が報われないとエトは嘆く。恵途が生きてこられたんじゃない。エトが、ケイが時に互いを殺してまで恵途を生かしてきたのだ。
恵途しかいない三人称では、その努力も苦しみもなかったことになる。
「そんなことにはならない」
させない、と私は呟く。
きっと、そのために私はエトの物語を綴ってきた。
人の目に見えないものを、一人称で語り伝えるために。
「だから行こう」
「どこに」
「外」
ほら、と手を差し出してやる。
「エトが引き籠ってちゃ、物語が進まないんだよ」
一瞬きょとりとしてからエトの手が伸びてくる。
日焼けしていない腕が室内灯の白い光で余計に生白い。緩慢な動作にじれて、ひったくるようにその手首をとった。埃の領域から引っぱり出されながらエトは言う。
「自分で殺しておいて」
そして笑った。
「やっぱりケイは自分勝手ね」
「エトはクソ真面目で馬鹿だよ」
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