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三回生の春、ようやっとレギュラー採用が決まったアルバイトは個別指導の塾講師だった。
エトが先生やるの、と電話越しの母に驚かれた。大丈夫だよ、難しい内容を教えるわけじゃない。学力テストも通っての採用だし。大丈夫だよ、と言い聞かせた。
郵便局の年末バイト以降、販売や接客のアルバイトに応募しても、いつも履歴書が送り返されてきた。やっと採用が決まったのだから、これは続けなければならない。何度も自分に言い聞かせた。
下宿の最寄り駅から、ことこと電車に揺られて年末バイトの時と同じ駅で降りる。駅前の道を郵便局とは反対方向に歩けば、じきに新しいバイト先の塾だ。あれだけ習い事を嫌っていたくせに、どうしてこんな所に来ているのだろうかと自問しながら歩いた。
月曜日の夕方から三コマの授業を担当して、授業の報告書や勤務記録の類をまとめてから帰る。一日の最後の授業が九時四十五分に終わるから、その後に生徒を見送って書類をまとめて片付けをしていると帰る頃には時計はいつも十時を回っていた。
駅までの人気のない通りを歩きながら、いつか聞いた言葉を思い出す。
「バイトって本来は楽しいものだからね」
楽しいかな。楽しくないな。でも、このバイト給料は良いのだ。
辛い分が給料になっているなら、その分は頑張らないといけないんじゃないか。
「エトは優しすぎるよね」
開き直るくらいじゃないと生きていけないよ、とケイは言う。担当していた生徒から講師の交代希望が出された、と教室長から聞かされた日のことだった。
「私が悪かったんだよ」
担当していたのは声の細い女の子だった。
元気の良い子供の声がこだまする教室で、私は彼女の返事や回答を度々聞き落した。共通の話題も見つからず、彼女はいつも退屈そうに私が読み上げる解説文を聞いていた。
「苦手科目のカバーのための塾だから、友達とのおしゃべりは楽しみにしても喜んで勉強しにくる子なんてほとんどいないんだ」
教室長は言った。だからうまく興味を引いて、やる気を持たせて授業に向かわせないといけない。
「わかるよ。勉強したくない気持ち」
こんなの何の役に立つんだ、ってさ。ケイはわかったような顔で頷いていた。実際わかっているのだろう。ケイは勉強が嫌いだ。
保護者に送付する毎月の授業報告を書くのが辛かった。どんなに些細なことでも、できたことを引っ張り出して書く。解決できる自信のない課題の対策をそれらしく書く。
好きなことをする時間を削って通う塾で、わかりやすいわけでもない、つまらない授業を受けさせられる。安くない月謝を払って塾に通わせて、その結果こんなでっちあげみたいな報告から子供の成長を読み取らされる。
子供にも親にも申し訳がなかった。
「少なくとも向いてはないね」
ケイと私の意見はそこで一致した。
夏期講習で人手が足りない時期が過ぎてから、辞める旨を伝えた。
ありふれたストーリーなら学んで成長して力をつけるべきところを、向いてなかった、と言って逃げ出した。そう言って俯く私をケイは蔑む目で見る。
「そういうの気持ち悪い」
困難な問題から逃げてしまいました。反省してます。
この失敗をバネにして、次はあれこれそうして頑張ります。乗り越えます。
「定型文!」
大ッ嫌いだ、とケイは叫ぶ。
「逃げたんでしょ。そのまま受け入れろよ。次はァ、とか言い訳なんて知ったことじゃない。そういう優等生ぶった言葉なんて聞くのも言うのも考えるのも嫌」
ケイは私のことを嫌っている。
四回生になり、就職活動が本格的に始まった。大手の就活支援サイトに登録して、いくつかの会社にエントリーしてはみたものの会社説明会という名の一次選考でいつも躓いた。
「他に応募している企業はありますか、って酷い質問だよね」
あるに決まってんじゃん、とケイが口を尖らせる。
応募書類を送付して説明会に参加した会社から、次の選考には進めない旨の通知が来た。これからのご活躍をお祈り申し上げます。俗に言うお祈りというやつだ。
まだ筆記試験も受けていないのに落ちた。その原因には自分でも心当たりがある。
「御社が一番です、って答えなきゃいけなかったんだよなあ」
説明会の後に提出するよう配られたアンケート。最後の項目は現在の就職活動の状況を問うもので、私はそれに馬鹿正直に答えた。
他にも応募している企業はありますか。
第一志望はどこですか。
まだ説明会を受けていない会社もあって、どこが第一志望かなんて決まっていなかったから、素直にそう答えた。その結果が下宿の郵便受けに届いたお祈りと応募書類の返送だ。
手元に戻ってきた履歴書。説明会もまだの段階で書いた志望動機は薄っぺらくて見苦しい。でも、この紙きれ一枚書くために自分はいくらかの時間を費やしたのだ。これから何枚これを書くことになるのだろう。さらさらと水のように時間も流れていく。
「要はウサギとカメですよ」
焦り過ぎです。フカジマと名乗った老年の相談員はそう言った。禿げ上がった頭の横に縮れた小さな耳がついていて、彼は小人か妖精のようだった。
友人から勧められて新卒向けハローワークの求職相談窓口に来ている。
昨年度末から説明会だのセミナーだのと色々な所へ行っていた友人は、いくつかの選考で良いところまで進んでいるらしい。進んでも一次面接までの自分と比べてしまったら、焦るのも仕方のない話だ。
「早い所はもう内々定が出ていますけど、まだ半年あるんです」
早い段階で内定が出た学生でも、時間が経つ中で不安になる者がいるという。それは大抵、とにかく早くどこか内定を、と焦る気持ちでさっさと就職活動を駆けていったウサギ。たとえ時間のかかるカメになっても、納得のいく所に進むべきではないか。自分に合わない所へ就職して三年も経たずに辞めてしまうよりは、じっくり仕事を探すべきだとフカジマ相談員は言う。
「あなたはウサギになりたいの、カメになりたいの」
「カメです」
「そうでしょ。あなたはカメでしょ」
「カメです」
だけど童話に出てくるカメは陸亀ではなかったか。泳げやしないのだ。
ハローワークの片隅で小人のような相談員と童話の話をしているのが、何だか不思議な気分だった。今日はこの話だけで終わるのだろうかと思っていたら相談員は次の話に移る。
「どこに応募したらいいのか困っている、とのことでしたけど」
ようやっとそれらしい話に入って、私は背筋を伸ばす。はい、と一呼吸置いて、複数の企業の選考を並行して受けることへの戸惑い、正直どの会社に入りたいかなんて応募する段階ではわからないことを彼に話した。
「浅川さん。それは自分の根本をはっきりさせないと」
こくりこくりと舟を漕ぐように頷きながら一通り話を聞くと、フカジマ相談員は私に問うた。たるんだ目蓋の下から、小さな瞳が真っ直ぐに私を見据える。
「何のために働くの」
「生活するため、です」
金が無ければ生活できない。遊びは我慢したとしても、食事するにも金がいる。電気、水道、ガス代、家賃。色々な金を払わなくては生活できない。
「何のために生活するの」
何のために。
「生きる、ため」
じゃあ、とフカジマ相談員は質問を続ける。この流れで次に何を聞かれるのかは予想がついた。そして私は自分がそれに答えられないことも分かっていた。
「何のために生きるの」
ほら来た。何のために。ケイの笑う声が聞こえる。
以前バイトしていた塾から電話がかかってきた。給与の計算をするのに、授業回数が合わないからもう一度教室に来てほしいという。窮屈なスーツに袖を通して、久しぶりに訪ねてみれば夏期講習の真っ最中だった。
先生、と混みあった教室のどこかで声がする。教室長はどこだろう。
考えるべき問題は、全部でいくらかかったのかという単純な足し算。
「ヨンヒャクナナジュウマンデショ」
声の細い女の子が繰り返す。私にはよく聞き取れない。
言われていることの意味もわかっていないのに、わかったふりして話を続ける。
「司書課程の履修費は二万円だから」
「だから」
私の声を遮って彼女は言った。
「あなたにかかったお金は四百七十万円でしょ」
少女の答えは間違っている。彼女が計算したのは、ほんのここ数年の学費だけ。実際には下宿の家賃に生活費、遡れば産まれた時、いや産まれる前から金は流れ続けていて、もう計算が追いつかない。
別の人にしてください、と少女の母親が言う。
私では駄目なのだと。自分たちの期待には応えられないから、と。俯いていた顔を上げると、目の前にいたのは私の母だった。その傍らには見覚えのある顔、私が立っている。だけど、あれは私じゃない。
だって私はここにいる。
私は彼女の興味を引けなかった。
彼女にとって勉強は苦痛であり、やらなければいけないからするというだけのものだった。
教室長が言う。
「言ったじゃないか。うまく興味を引いて、やる気を持たせないと、って」
自分の興味も引けない私が、他人の興味を引けるわけがなかった。
名前には願いを込める。
浅川恵途。途に恵まれるようにと願いを込めてつけられた名前は、今では皮肉な響きでもって私の頭の中を揺らす。
「エト、不細工な顔してるね。体調でも悪いの」
目が覚めたら右半身が地面に接していた。床に転がっている状態だ。ベージュのカーペットが敷かれた床。折り畳み式の座卓の足。頭の下には毛足の長いクッション。なるほど、ここは私の部屋だ。
横たわっていた体を起こすと頭の中身だけ床の上に取り残されたような感じがして、中身が外殻から引き離された分だけ鈍く痛んだ。座卓の上には空のグラスとチューハイの缶、折りたたまれた日本酒の紙パック、それから食べ散らかした惣菜の空き容器。なるほど、これはつまりあれだ。
「しこたま飲んで寝落ちしたのよ」
呆れたようなケイの声。
あー、と私は小声で呻いて目をこする。ベッドの上に放ってあった携帯電話を開くと、表示される現在時刻は午前四時半。そう言えばカーテンの閉まった窓の外が何となく明るい。寝こけている間ずっと点いたままだったであろう室内灯の明るさが、どこか浮ついている気がする。
座卓の天板に手をついて立ち上がる。再び揺れる頭の中身。素早く動いたつもりはない。むしろ頭を刺激しないようにゆっくりと立ち上がったつもりだったのに、それでも動きについていけない脳が頭蓋の内側に押しつけられて圧迫されるような、そんな痛み。
「頭が」
頭の外と内との繋がりが弱くて、今にもばらばらになりそう。気休めでしかないと知りつつ頭を抱える私にケイはさほど心配そうでもなく言う。
「悪いの」
違う。確かに頭の悪いことをしているとは思うけれど。
「重いの」
座卓を離れて私はノートパソコンが置かれた壁際の机に歩み寄る。
パソコンの隣には光熱費の領収書や家電量販店からのダイレクトメール、いつか何かの授業で配られた資料のプリントなどで構成された紙の山。その麓には日常の川に流された文房具や缶ジュースのおまけ、常備薬の小瓶やPTPシートが堆積している。細かな堆積物をかき分けて手に取るのは鎮痛剤のシート。一回の用量である二錠分を千切り取って、シートから錠剤を押し出す。酒が回っているのか感覚の鈍い指で、一つ出して口の中へ。一つ出して口の中へ。
「何だか枝豆みたいだね」
ちまちまと口に入れる単純作業の繰り返しをケイが笑う。ツマミはもういいよ。そう答えるのも億劫で、私は何も言わないまま重い足を動かして冷蔵庫まで水を飲みに行く。手に取るのはミネラルウォーターのペットボトル。
地元を離れるまで、水を買ったことがなかった。
水なんて蛇口を捻れば出てくるもので、わざわざ買う必要なんてないと思っていた。違うんだ。水道水だって自分の見ていない所で親が金を払っている。そうと意識しないまま垂れ流してきた水の底で溺れている私がいる。気づいたところでどうにも救いようがない。
「エト」
明日は、と大学の時間割を思い出そうとして溜息が出た。明日じゃない。既に夜は明けて今日だ。日付と日付の間に挟まれるべき休息がなくて、代わりに酒が流し込まれていた。
「エト」
ケイの声がする。在るがまま、好き勝手のケイ。
今日の授業は何だったか。司書課程が二科目。これは、さぼるわけにはいかない。
「でも行きたくないんでしょ」
ケイの声を聞きながら、散らかった座卓まで戻って片付けを始める。
惣菜の空き容器と空の紙パックはまとめてごみ袋に放り込んだ。グラスは流し台まで運んでおけばいい。洗うのは後にしよう。空き缶は、と持ち上げた缶に重み。まだ中身が残っていた。
「それぐらい飲み干しちゃいなよ」
ケイが囁く。
軽く缶を揺すってみると確かに残りは半分もない。三パーセントと印字されたラベルを見つめる。見つめたところで我に返った。もう朝なのだ。今から飲むのはまずいだろう。まだ酒が抜けていないらしい。頭が上手く回っていない。舌打ち。
「休めばいいじゃん、学校」
グラスと飲み残しの缶チューハイを持って流し台に移動する。グラスは軽く濯いで流しの底に置いておく。手に触れる水はぬるい。飲み残しはどうしようか。このまま流してしまおうか。ラップをかけて冷蔵庫にでもしまっておくか。
「とりあえず何か資格取りたいと思っただけで始めた勉強なんて面白くないよ」
「でも取っておいて損はない」
ありきたりの答えでも返事のあったことをケイは嬉しそうに笑う。
「司書の正採用なんて少ないし。非正規だろうと図書館で働きたいって訳でもないのに」
ケイは授業に行きたくないのだ。だからいつも私を自主休講に誘う。
こういう時ばかり理屈っぽく話をするから性質が悪い。
「取らないわけにはいかないでしょう。親に履修費用払ってもらってるのに」
司書課程は通常の学費とは別に履修費を払わなければいけなかった。そもそも学費だって私が通っているのは私立の大学だから公立よりも高い。さぼって必要な単位を落としたりしたら、学費を出してくれる親に顔向けができない。
生まれてからどれだけの水を飲んで生きてきたのか、私は知らない。好きな所へ行けと言われた。その旅路に必要な水も定期的に与えられる。水を得るための親の苦労を私は知らない。だからせめて、水を無駄にすることだけはしてはいけない。
「エト、水がもったいないよ」
ケイの声に顔を上げると、流しの蛇口から水が流れ続けていた。
水に沿って歩いてきた。私の道は十分に恵まれている。私の考えは決して間違っていない。そうじゃないのか。
ぐるぐると回る視界に立っていられず、その場にうずくまる。胸の奥が気持ち悪くて息を止める。このまま心臓も止まってしまえば楽になれるのに。そう思った。
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