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「ネモトさんは、ああ言ったけど」
片隅にうずくまったままのエトが言う。
「私、あのバイト楽しかったよ」
手際が悪くてとろくさかったのは事実だから、文句言われても仕方なかったよね。ヘンクツ氏も、憎まれ口ばっかだったけど悪い人じゃなかったと思うよ。
「ポン菓子だってくれて」
のんびりと回想に浸るエトが幸せそうで少し腹が立った。
「食い物に釣られてるだけじゃないの、その評価」
「かもしれない」
ふふ、とエトが笑う。それが私は気に食わない。
「バイトに入ってる間は、ずっと行きたくない行きたくないって言ってたくせに。お客さん怖いとか、ヘンクツ爺さんに会いたくないとか、ずっと嫌がってたくせに」
終わってみれば良き思い出だなんて調子の良いことを。不機嫌な私にエトは言った。
「それは、ねえ。だってケイがいなかったんだから仕方ないじゃない」
「私が行けるわけないでしょうが」
アルバイトは労働だ。仕事なのだ。勝手気ままな私では務まるまい。きちんと仕事ができるようにと私は配慮したのだ。
「そう、エトが働かなくちゃって言うから私は配慮したんだ。エトがそう決めたなら私は逆らえないから」
エトとはいつからの付き合いだろう。意見が合うことなんて滅多にないのに、気づいた時には一緒にいた。そして今までずっと離れることもできないでいる。
「エト」
幼い頃の記憶の中で、いつも私はエトを呼び止める。それは大抵、小学校のグラウンド。私の視線の先には、校庭の隅に設置されている遊具で遊ぶ同級生の姿。そこに私も混ざりたかった。しかしエトは校門の方へと私を促して言う。
「ケイちゃん、今日はピアノの日だよ」
その頃の私、小学生の私はいくつかの習い事をしていた。学校が終わると真っ直ぐ家に帰ってピアノ教室やプール、そろばん塾に通う。放課後に遊んで帰れる日は、週に一日だけ。
行きたくないと思っていても好き勝手に自由気ままな私より、真面目で良い子のエトの方が立場は上なのだから逆らえるはずがない。せめてもの抵抗として、私は真っ直ぐ帰る通学路をゆっくりとぼとぼ歩いた。どんなに遅く歩いても、必ず家には帰り着いて習い事の時間にも間に合ってしまったけど。
「何で習い事なんてするの」
習い始めた頃は新しい環境や知らないことに触れるのが新鮮で面白かったが、慣れてくると面白さもよくわからなくなった。時には泣きべそかくほど行きたくなかった。
「ピアノ弾けるようになるよ」
「弾けなくたっていいよ」
ピアノなんて家でも練習しなければちっとも弾けない。でも家でまで練習なんてしたくなかった。練習しないから上達もしない、上達しないから余計面白くなかった。
「そろばんできたら、計算速くなるよ」
「電卓使うからいい」
週に四日も通わなければいけないそろばん教室は、とりわけ嫌いだった。
「水泳教室に行ったら泳げるようになるよ。川や海で溺れたら大変でしょ」
「いいよ。川にも海にも行かないから」
息継ぎに失敗して塩素臭い水を飲む度、海に行く前にここで溺れると思った。
母の、父の、祖父母の言葉でエトは私を宥めすかしたけれど、それは全く効果がなかった。エト自身が、その言葉に納得できていないのだから効果がないのも当たり前だ。
「私だって皆みたいに、皆と一緒に遊びたかった」
そんなだから塾のバイトも長続きしなかったんだ、と私は思う。
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