3

 一回生の時、年賀状の仕分け作業のアルバイトに応募した。高校ではバイトは禁止されていたから、初めてのアルバイトだと意気込んで面接を受けに行った。

 列に並び、待機場所に流し込まれ、いくつか設置されているブースに振り分けられる応募者は、さながら工場の生産ラインを流れる製品だった。私もその中に加わって、床に張られたビニールテープの誘導に従い面接担当者の前に出た。住所と交通手段、勤務可能な日時の確認を終えた担当者は、採用の可能性は極めて低いと告げた。

 今年は応募者が多くて倍率が高くてですね。浅川さんは大学、下宿してらっしゃるってことは、お正月には。帰省ね、そうですよね。結構ね、高校生の子の応募が多くて。この辺の子だと年末年始、それこそ大晦日から三が日まで入ってもらえるでしょ。採用するとなると、やっぱりたくさん入れる人にお願いしたくてですね。

「なーにが、アルバイト初心者にもお勧めか」

 採用の場合は一週間以内にご連絡します、と言われてから、何の音沙汰もないまま半月が経とうとしていた。働きたい気持ちだけでは働けないという現実を知って落ち込む私にケイは言う。

「まあ、良いじゃないのよ。バイトないなら冬休みはゆっくりできるってことで」

 それは私を慰めようとして発された言葉ではない。

 寒い冬の下に堆積する休日がアルバイトで押し流されずに済むことに安堵するケイの本心だ。

「でも働かないことには、お金だって入ってこないでしょう」

 金は労働を経て人の手に流れ込み、そして消費によってまた流れていく。そうして社会を循環するのだ。流入のない水溜りは干上がる日を待つだけ。 

「入ってくるでしょ。毎月、地元から送られてくるじゃないの。別に不足してるわけでもなし、採用されなくたって困りはしないのよ」

 親からの仕送りだって収入だと、ケイは気楽に言ってのける。

「そんなことより、考えるべきは今日の夕飯」

 十一月に入って外は随分冷え込むようになった。買い出しに行くのが億劫だから、今晩は部屋にあるもので適当に済ますことになるだろう。それでも何か温まるものを作るには充分な食料品が、この部屋にはある。

「どうして送ってくるんだろう」

 呟く私の目の前には一抱えもある段ボール箱。一昨日、宅配業者から受け取って宛名と中身を簡単に確認したきり、ろくに荷解きしていない。

 仕送りだけでも充分生活できるのに、地元からは折々に日持ちのする食料品やら貰い物のお裾分けやらが送られてきた。季節柄、今回はインスタントのラーメンやうどんといった手軽で温まる食べ物が多い。その他に詰め込まれているのは大量の使い捨てカイロ。

「ひい、ふう、みい、のっと、これは使いかけ」

 次から次へと出てくる袋を面白がってケイが数える。十袋入りパックが三つと使いかけで四袋しか入っていないパックが一つ。添え状によると隙間を埋めるために入れたという。

「冷え込むからって、あるだけ全部送ってくれたか」

 ケイの言う通りだろう。使い捨てカイロ四袋分で埋められる体積なんて知れている。気象情報が週末の冷え込みをしきりに予報していたから、きっとわざわざ詰めてくれたのだ。

「カイロぐらい近所のスーパーでも買えるのに」

 充分過ぎる仕送りはその程度の買い物には困らないのに。親の思いやりを素直に喜べない自分に嫌気が差す。

「仕送りの金を使って自分で買うのと、親が買ったものを送ってくるの、どっちにしたって同じじゃない。支払われるのは親の金よ」

 箱の中身をカイロ以外も取り出して床に並べながらケイは言う。

 同じじゃあない、と私は首を横に振った。私が仕送りから出してこちらで買うべきだったものを親が送ってきたのなら、その分だけ余計に金を払わせていることになる。

「要は、養われてるのが嫌なのかな」

 ケイが私の頭と腹でぐるぐると渦巻いている何かを大ざっぱに掴んで言った。そうして、まだまだ子供の身で偉そうに、と小馬鹿にして笑う。

 二十歳の誕生日を迎えたら未成年という意味の子供ではなくなる。でも大学を卒業するまでは学生の身分で、社会人からしたらそれはまだ子供なんだろう。社会に出て働き始めたって、親からしてみれば我が子はいつまでも子供だ。

「私はいつまでも子供だ」

「親が子供を養うのは自然なことでしょう」

 だからといって、それに甘え続けていればいいというものではない。いつか一人立たなければならない。いつか。はっきりとしないその時は漠然とした表現で確実に迫ってくる。

「あのねえ、エトは焦り過ぎなんだよ」

 学費も生活費も何もかもを自分で稼ぐとなったら大変なことよ。それこそ短期のアルバイト一つ決まったところで大きく変わるもんでもないの。そんな面倒なこと考えてたら胃が荒れるって。別に今は大学にちゃんと通って卒業することだけ考えていればいいじゃないの。

 ケイの言葉はもっともらしく聞こえるし、たぶん間違ったことは言っていない。でも、私の焦りだって間違ってはいないはずだ。どちらの意見も間違っていないと思ってしまう私は言い返す言葉が見つからず、偉そうに、とだけ呟いた。


 年賀はがきの出張販売のアルバイトを打診する電話がかかってきた時、私はキャベツを刻んでいた。

 スーパーで買ってきた二分の一玉を、捲って剥いでは軽く濯いで刻み、捲っては濯いで刻んでタッパーに押し込んでいく。作り置きならぬ刻み置きキャベツは下宿を始めてからずっと続けてきた。暇な時にまとめて刻んでおけば、食べる時には皿に盛るだけ。片づけの手間も省ける。何より無心でさくさく刻んでいるのは心地良かった。

 何も前に進まないまま終わろうとしている十一月から目を逸らしたくてざくざくざくざく刻んでいたら、机に置いていた携帯電話が派手な音を立てて振動し始めた。

 見覚えのない番号表示に身構えながら通話ボタンを押すと、前に面接を受けに行った郵便局からだった。仕分けじゃなくて販売なんですけど、と言い置いて電話の向こうの男声は言う。

「急な欠員が出たんです。良かったら入ってもらえませんか」

 仕分けバイトの面接で提出した勤務可能日を見て電話をかけてきたらしい。

 その日程では駄目だと言って落としておいて、人手が足りなくなったら入れないかと言う。虫の良いことで、とケイがぼやく。ケイの言うこともっともだと思いながら私は返事を口にした。

「やります。ぜひ」

 えええ、とケイが上げる不満の声を背景に、細かい打ち合わせの日を決めて通話を終える。なんだ、何とかなるんじゃないか。急に目の前が開けた気がした。

「バイト、決まった」

 ケイは何も言わず、まな板の上の瑞々しい刻みキャベツを曇り顔で見つめていた。何か文句の一つや二つ投げつけてくるんじゃないかと思ったのに拍子抜けだ。いつもは私のやること為すこと決めること、何にでも文句や皮肉を寄越すくせに。

「どうしたの、やけに大人しいじゃない」

 別に、とケイの返事は素っ気ない。

「決まったことに私がとやかく言ったってどうしようもないでしょ」

 確かにそうだけど。でも、そうやって塞ぎ込まれても心配になる。

「ねえ、大丈夫だよ」

 何とかなるよ。今まで通り自分は真面目にやっていけばいい。そりゃあ、しばらくケイの好き勝手にさせてやることはできないかもしれないけれど。

 もう十分キャベツは刻んだ。今日食べる分だけ器に取って、手つかずの分も、刻んだ分を入れたタッパーも私は冷蔵庫にしまいこんだ。


 初出勤の日。ケイは隅の方に縮こまっていて、声をかけても突いても反応しなかった。別にケイがいなくたって支障はない。

 私はそのまま部屋を出た。

「そう忙しい仕事でもないからね」

 その日ペアを組んだのはサタさんという、大学の先輩よりもずっと年上で、自分の母親よりは少し若い女性だった。アルバイトが初めてなのだから当然だが、バイト先の先輩というものができるのも初めてだ。この年代で、同僚で、先輩。これまで自分の人間関係にはなかった繋がりに、どう接したら良いのか考える。とりあえずは当たり障りなく、礼儀正しく、だろうか。

 からからと高速回転した私の頭が単純で無難な結論に至る中、サタさんは言う。

「よっぽど一度にお客さんが集まってこない限り、販売の仕事なんて暇なものだから」

 担当課長の運転するワゴンで出張販売の荷物を積んだ台車と共に運ばれ、やってきたのは全国チェーンのスーパー。自動ドアを入ってすぐ、ショッピングカートが並ぶ横に出張販売のブースを設営した。

「近くを通るお客さんがいたら、年賀はがきいかがですか、って」

 階段下の物置に置かせてもらっていた長机を引っ張り出してきて、はがきを並べる。持ってきた白いラックに見本用のパックを引っかけ、その手前に装飾用の小さな門松を置いた。

「ここは先週のうちに結構出てるから、今週はあんまり売れないんじゃないかな」

 準備が終わって課長が局に帰ると、パイプ椅子に座って二人で店番を始める。入口は二重扉になっているから、あまり風は吹き込んでこない。客のいないうちに彼女は色々と教えてくれる。

「お客さんが来たら、パソコンで作るのか手書きか聞いて」

 手書きなら普通紙。無地か絵入りか。絵入りなら全国版と地方版で挿絵が違う。インクジェットなら普通の白色、桃色、鶯色。白色でも宛名面が通常のものと、キャラクターイラストが使われているものがある。写真用光沢紙は一番値段が高いけど、写真が綺麗に出力される。

「オマケは買ってくれた人にはポケットティッシュね。あと枚数に応じてお年玉袋かレターオープナーか貯金箱を一緒に渡して」

 まあ、貯金箱が出ることなんて滅多にないと思うけど。そう言ってサタさんは郵便ポストを模したオマケを小さな角松の横に並べた。

 一通りの説明を聞いてしまっても、まだ客はやってこない。目の前の青果売り場では、さっきからずっと男性客がリンゴの品定めをしている。説明されたことを頭に入れるのに必死な私の横で、サタさんは売上げ記録用のメモを作り始めた。

「今日が初めてなんだっけ」

「はい」

 無地は一枚五十円。絵入りは一枚五十五円。写真用は一枚六十円。十枚パックはそれぞれの値段に十をかける。五百円、五百五十円、六百円。

「じゃあ、まだ他の人には会ってないのか」

「他の人」

 うん、とサタさんは頷く。その間にもメモ帳には、はがきの種類が淀みなく書き出されていく。

 無地、キャラ、桃、ウグイス。

「販売の人は他に二人いるんだけど」

 全国、地方、写真。

「ちょっとね、きつい人がいるから。ネモトって子」

 まだペア当たってないんだ、良かったね。そう言って彼女は書き込んだ文字の下に線を引く。

「厳しい人なんですか」

 尋ねると、言いにくいのか歯切れ悪く答えが返ってくる。

「厳しい、というか、少しうるさいというか」

 青果売り場では、まだ男性客がリンゴを一つ一つ手に取っては角度を変えて眺め、陳列台に戻すことを繰り返している。

「何というか張り切り過ぎちゃってて」

 ずっと声張り上げてるの、フロアのずっと向こうにしかお客さんいないのに。それにシフトもねえ、空いてたら入ります、って。がつがつしてて。だから多分、しょっちゅうペア組むことになるんじゃないかな。何かしっかり稼ぎたいみたいだし。いや、やる気があるのは良いことだけど、周りとの兼ね合いってあるじゃない。

「熱血、みたいな感じなんでしょうか」

「そんな感じかなあ。暑苦しいって程じゃないんだけど」

 まだ見ぬネモトさんの背景に商魂の炎を感じる。懐が充分に潤ったなら、この火も消えるのか。

「いらっしゃいませー」

 自動ドアが開いて客が入ってきた。サタさんの抑揚がない声に続いて声を出す。青果売り場の男性客はいつの間にかいなくなっていた。


 二日目。初日とは別のスーパーの、やはり入口脇に設営したブースで店番をする。ここは二重扉になっておらず、しきりに風が吹きこんできて寒い。郵便局を出る前に課長から渡されていた赤色のオーバーに袖を通してみると、サイズが大きくぶかぶかで手が袖に埋もれてしまった。

「寒かったら、オマケの段ボールに入ってるカイロ使って良いからね」

 こないだ差し入れで貰ったやつだから、と言ったのは今日ペアを組むミハラさん。足下が寒いから、と郵便局のオーバーは膝掛け代わりにしている。服装がオシャレで雰囲気は若々しいけれど、たぶん彼女もサタさんと同じくらいの年代だろう。

 はじめましての挨拶を簡単に済ませた後、ミハラさんは言った。

「学生ってことはネモトさんと同じくらいの年だね」

 出た、ネモトさん。課長から配られたシフト表を見たら、来週末にはペアを組むことになっていた。オーバーの袖口を折り返しながら聞いてみる。

「ネモトさんも学生なんですか」

「うん、大学生。ここの他にもバイトしてて結構忙しくしてるみたい」

 答えながらミハラさんは二百枚入りの茶色い包みを開いて、はがきを数え始める。

「まだ会ったことないんですけど、ネモトさんってどんな人ですか」

 サタさんの話だとかなりバリバリ働く人のようだった。まだ仕事に慣れていないからといってもたもたしていると怒られそうな気がする。

「私あんまり要領良くないし、迷惑かけそうで」

「そんな怖がることないよ」

 むしろ若い子どうしで仲良くなりやすいんじゃないの、とミハラさんは私の不安を笑い飛ばした。

 出張販売の売れ行きは取り立てて良いわけではなかったけれど、ぽつりぽつりと客足はあった。十枚単位で買ってくれるのが一番楽だったが、これからの時期は不足分を買い足しにくる客が多くなるそうで、バラ売りの方が多くなるんじゃないかとミハラさんは言っていた。実際、サタさんと組んだ一日目も十枚パックをいくつかとバラで何枚という客ばかりだったし、バイトに入って二日目の今日もそう。

「はよしいや」

 急かす言葉が頭の中で順番に並んでいた数字をかき回していく。

 ミハラさんがトイレに行っている間に来た夫婦の買い物客。五十何枚と結構な数を買ってくれるものの、お求めのはがきの十枚パックは三つしか残っていなかった。足下のコンテナを覗いてみるも二百枚入りの包みが見つからない。そういえばミハラさんが何か十枚パック作っていたんじゃなかったかと隣の席を見たら、果たしてそこに包みはあった。慌てて言われた枚数を数え始める。

「そう急かすんやないの」

 販売員のもたもたした動作に焦れる白髪交じりの旦那さんを、買い物袋を提げた奥さんが宥める。胸中で悲鳴を上げながら数えたはがきを袋に納めているところに、ミハラさんが戻ってきて会計を引き受けてくれた。

「お待たせしました」

 お買い上げありがとうございました、と立ち上がって下げる頭。

 そこへ旦那さんが去り際にぼそりと短い一言を投げ落していく。

「本当にな」

 落とされた言葉は綺麗に私の頭に突き刺さった。夫婦がスーパーを出ていくのに合わせて吹きこんできた外の風が足下を掬っていく。とても立っていられない。私は再び椅子に座り直して店番に戻った。

 五時半に迎えに来た課長は、私とミハラさんにホットの缶コーヒーを一本ずつくれた。

「寒かったでしょ」

 ミハラさんが言うには、ここでもまだ寒くない方らしい。一番辛い場所は駐車場の片隅に長机を置いて売るのだという。とはいえ人が出入りする度に風が吹き込む入口脇で、ほとんど身動きせず座っていること三時間。すっかり冷え切った手指にホットドリンクの温度が沁みた。

 ひとまずコーヒーはぶかぶかオーバーのポケットに収めておいて、課長を加えた三人でブースを片づける。お釣り用の小銭ケースは売上げメモと共に道具箱へ。残っているはがきと道具箱をコンテナに収め、門松やオマケは段ボール箱に。来た時と同じように台車の準備が整ったら机と椅子を階段下に戻してくる。

「課長さん、優しいですね」

 駐車場に向かいながら、私は隣を歩くミハラさんに呟いた。課長は台車を押して私たちの二、三メートル先を歩いているから、この声は聞こえていないはずだ。ポケットの中で触れている缶コーヒーはまだ手に温かい。

 ミハラさんは何も言わず、駐車場の入口に立てられた看板を指してから肩をすくめてみせた。

「お買い上げレシートの提示で駐車料金無料」

 なるほど、世の中は上手く回っているもんだと思う。

 触れている分にはまだ温かく感じていたコーヒーは、局に帰るワゴンの中で飲んでみたらすっかり冷めていた。私の手が冷えていたから温かく感じたというだけで、実際の温度は大したことなかったんだろう。


 ネモトさんは、オシャレな細身の女の子だった。

 他にもバイトをしていてバリバリ働いている人。サタさんとミハラさんの話を聞いて私がイメージしていたのは、骨太で気の強い人だったから実際に会って驚いた。

「私、趣味にお金使うの」

 そう言ってネモトさんは、ほんのりと桃色の乗った頬を持ち上げる。

「趣味っていうか好きなことかな。かわいい服とかお化粧とか、お金かかるでしょう。あと髪を染めるのも」

 オシャレするの好きなんだ。野暮ったい郵便局の赤色オーバーを着ながら、彼女がそんなことを言って笑うから、つい私は聞いていた。

「疲れたりしないんですか」

 楽なことばかりじゃないだろうし、辛いことだってあるだろう。嫌になって、オシャレくらいどうだっていいやと思うことはないんだろうか。

 ネモトさんは瞬き一つしてから答えた。

「自分が好きでやりたいことだから」

 疲れることは否定しなかった。きっとネモトさんにとってオシャレへの興味は疲れることと天秤にかけても揺らがないものなのだ。私には何があったろう。疲れても辛くても諦めたくないもの。すぐに出てこなくて思いめぐらせていたら、机の上のはがきが風に攫われそうになって考えるのを止めた。

 今日の出張先はミハラさんが一番辛いと言っていた所。寒風吹きすさぶ駐車場の片隅にブースを設営する。アパートから着てきたダウンコートの上に、そのまま郵便局のオーバーを羽織ってもまだ寒い。周りに風を遮るものはなく、時折吹きつける風に商品のはがきが飛ばされないよう、重石や固定に気をつけながら店番を始めた。

 朝市と銘打ったタイムセールの人出で、駐車場を行き来する客は多い。ブースの前を行き交う買い物客にネモトさんはしきりに声をかける。

「いらっしゃいませー」

「年賀はがきいかがですかー」

 目の前を通る買い物客がいなくても、少し離れたところにでも人がいれば彼女はそちらに呼びかけた。ほとんどずっと声を出しているネモトさんの横にいると、自分も声を出さないわけにはいかない。

 別にどれだけ呼びかけるかは一人一人の好き勝手だがネモトさんが熱心なので、その横であまり声を出さずにいると引き比べて自分が怠けているように思えるのだ。サタさんの言うこともわからないではないと思った。

「ええ商売やんな、こんなもん」

 朝市が終わって人の流れが落ち着いた頃、一人の老人がブースの前に現れた。

「毎年毎年、売っとるもんは変わらんのやろ」

 去年のと何が違うっていうんや、と仏頂面で言う彼にネモトさんが答える。

「宛名の面に書かれてる絵が干支なので、毎年違うんですよ」

「それじゃあ十二年前のと同じのでええやないか」

 ヘンクツ老人の物言いにもネモトさんはにこやかに答えていたけれど、少し強張った笑顔や淀みがちな言葉から対応に困っているのがわかった。

「でも毎年クジがありますよ」

 宛名面の下部に印刷されている数列を指して私が言うと、すぐに彼は言い返す。

「クジついとったら何やの」

「抽選で当たったら賞品もらえますよ。自転車とかテレビとか賞品になってたこともありますし、結構豪華じゃないですか」

「ああいうもんは当たらんようになっとるんや」

「でも私、切手当たったことあります。その年の干支が描かれてて、二枚分くらいの」

 私の経験に基づく反論をヘンクツ老人は鼻で笑った。

「切手の一枚や二枚当たったところで何になる」

 手ごわい。

「何か嬉しくないですか。抽選に当たった、って」

 必死に絞り出した私の答えを彼は、しょうもない、の一言で切り捨てた。

 それからしばらく年賀はがき批判を続け、ヘンクツ老人は満足したのか去っていった。

「朝市で買い物して、ついでにここに来て絡んでくの」

 あの人、とヘンクツ老人の去っていった駐車場の奥を見ながら、困り顔のネモトさんが言う。彼女はたくさんシフトに入っているというから、これまでに何度も絡まれているんだろう。

 正午過ぎに課長が迎えにきて、私たちは撤収した。ここは他の場所よりもブースを出している時間は短かったが、人出が多かったのもあってか売り上げは他に劣っていなかった。

 郵便局に戻って売り上げと残っているはがきの枚数の確認を終えたら、今日のバイトは終わりだ。出勤簿に退勤の時間をつけて課長の判子をもらい、局を出る。

 最寄り駅で帰りの電車を待っていたら、ネモトさんが現れた。

「浅川さんも電車だったんだ」

 彼女は少し驚いて、それからホームの半ばに置かれた自販機へ向かった。間もなく、がたん、と落下音。続いてもう一度、がたん。目を向けると、財布を脇に挟んで缶を二つ手にしたネモトさんがこちらに来るところだった。

「浅川さん、ミルクティー飲めるかな」

「あ、はい」

 私が頷くと彼女は持っていた缶の片方を差し出した。ホットだ。

「ありがとうございます」

 受け取った缶を両手で包み込んで暖を取る。ネモトさんは隣でココアの缶を開けて一口飲み、ぽつりと呟いた。

「バイトって本来は楽しいものだからね」

 え、と振り向く私に、ネモトさんは言う。

「ここは寒いし、面倒くさいこともあるけど。本当はバイトって楽しいんだよ。だから、ここだけで嫌になっちゃわないでね。他の所にも行って楽しんで」

 楽しい、とはどういうことかと考える。働くことは大変で、給料はその対価として支払われるものじゃないのか。手際の悪さに厳しい言葉を投げかけられても、面倒くさい客の応対をするのも、どれも給料のうちだ。楽しくはないけれど、だから給料が得られるのであって。どういうことだ。私は、私の考えがよくわからなくなってしまった。

「はい」

 ひとまず返事をしておいて、冷める前にと缶を開けた。一口含んだミルクティーの温度が、口の中まで冷え切っていたことを知らせてくる。

 ネモトさんは私とは逆方向の電車に乗って先に帰っていった。


 今日はミハラさんと例の一番寒い所に行った。ヘンクツ老人の現れるスーパーだ。

「こんな寒い所で、ようやるわ」

 朝市の人出の中、やはり現れた彼は顔をしかめて言った。

「いや、でももうじきバイトも終わるので」

 最初に年賀状の仕分けバイトに応募した時、年末年始の帰省に余裕を持たせて私は勤務可能日を書いた。中途採用された販売バイトでは、その時の予定表に基づいてシフトを組まれているから、クリスマス過ぎには私はこのバイトを終えることになる。

 更に言えば、このスーパーに出張販売にくるのは今日が最後だ。ヘンクツ氏の憎まれ口に付き合うのも今日で最後。

「もう少しですから頑張ります」

「気の良いもんやな」

 はあ、と彼は呆れたように息を吐いた。

 ヘンクツ氏と話している間にも他の客は来る。はがきの枚数を聞いて電卓で代金を計算していると、ブースの横に立って様子を見ていた彼は言う。

「それくらいの計算も暗算できんのか」

「いや、間違うと困るので」

「自信持てんのか。情けないな」

 はがきを買いに来たわけでもなさそうだが、売り子というわけでもない老人。横からずっと口出ししている彼に買い物客が戸惑ったような目を向けるので、ミハラさんがヘンクツ氏に声をかけた。

「今日は何を買いにいらっしゃったんです。朝市が終わる前に行かないと」

 ヘンクツ老人は仏頂面でミハラさんを見返して答える。

「トイレットペーパーが安いでな」

「じゃあ売り切れないうちに」

「そうもはよ売り切れるか。まだ始まって十五分も経っとらん」

 喧しいで追っ払われたわ、とぼやきながらヘンクツ老人はしぶしぶスーパーの入口に向かった。視界の端でそれを見送りつつ、客から代金を受け取る。

「ありがとうございましたー」

 商品を渡して客を見送ると、ヘンクツ氏もいなくなったブース周りは急に寂しくなった。

 ミハラさんが一つ溜息を吐く。

「あの人、毎週来るんですか」

 私の問いに、そう、と彼女は頷く。

「日曜の朝市の時にね。あんなことばっか言ってるけど、ここで話するのが楽しいんだよ、たぶん。こっちとしては、やりにくいんだけどね」

「あー」

 まあ確かに丁度良い話し相手なのかもしれない。客がいなければ暇そうに突っ立っている売り子。でももう少し穏やかに話せないものか。そんなことを考えていたら後ろの方で音が弾けた。

 ボン、と腹に響く音。

「え」

 見るとブースの裏手、植え込みを挟んだ向こう側にもくもくと白い煙か湯気か。何か屋台が出ている。たこ焼きのような香ばしいソースの香りも、タイ焼きの生地が焼ける甘い香りもない、これは。

「ポン菓子だね」

 ミハラさんが米菓子の名を挙げる。屋台では店主が機械の傍らに身を屈めて、籠からできたてポン菓子を掬い出しては袋詰めを始めた。

「久しぶりに見ました」

 地元では農協の秋祭りに行けば毎年見かけたけれど、こちらに来てからは初めてだ。

 屋台に釣られた買い物客が植え込みの向こう側へいくらか流れていく。少しまばらになった人通りに時折声をかけながら店番を続けた。

 しばらくしてヘンクツ老人が朝市から戻ってきた。

 その手にはトイレットペーパーのパッケージと白いビニール袋を提げている。

「やる」

 押しつけられるビニール袋。中を覗くとポン菓子が一袋入っていた。

「え、あ、ありがとうございます」

 礼を言い終わるのも待たず、ヘンクツ老人は歩き出している。駐車場の奥、停められた車の列の向こうに彼の姿が消えるまで見送った。

 いただいちゃいました、と言うとミハラさんは苦笑して言う。

「良かったね、帰ったら食べなよ」

 どうしよう、私も後で買いに行こうかな。ミハラさんの呟きを聞きながらヘンクツ氏の去っていった方を見る。駐車場から出ていく車のどれかに彼が乗っているのではないかと運転席に目を凝らしてみるが、あの仏頂面は見つからない。

 結局、彼は一枚もはがきを買わなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る