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 空腹で目が覚めた。何か食わねば。私は武士でもなければ、この部屋にはやせ我慢して咥える楊枝もない。そもそも空腹を堪えるつもりもない。

 朝食用に買ってきてある食パンは一袋九十八円で安売りしていたもの。五枚切りのそれを二枚も焼けば腹一杯になるだろうけれど、売り場の掲示、赤く印刷された二桁の数字が思い出されると、どうにも味気ないものに思えて仕方なかった。そういえば今この部屋、パンに塗るものはマーガリンしかない。実際に味気ない朝食になるだろうことがわかって食欲が失せた。腹は減っているのに。

「冷蔵庫に昨日のブリが残ってるでしょう」

 エトの声がする。私は枕に顔を埋めたまま呟く。

「なははあういは」

 ちっともまともな言葉に聞こえないから、顔を上げて言い直す。

「朝からブリは、ちょっとなあ」

 腹は減っているけれど安売り食パンのイメージのおかげで食欲はない。どうせ今日は大学だから、早めに行って何か食べよう。そうしよう。私が意気込んで起き上がる一方で、エトは隅の方に縮こまっていた。

「エト、大学は」

「大学はケイが行くところ」

 そんなことはない。そう思いながら口にはせぬまま身支度を始める。

 学校にせよ習い事にせよ、幼い頃から行きたくないと嫌がる私を引きずってでも行くのがエトだった。しかし今では学校も遊びも私の気まぐれ任せ、すっかり出不精になってしまっている。それでは、これまでぶつかってきた私は何だったんだ。

 朝食を食べない朝の身支度はとても簡単に済んでしまう。

「じゃあ、行きますかね」

 右のポケットに携帯電話。左のポケットに音楽プレイヤー。右手には部屋の鍵を持って準備万端。いざ出発、と玄関へ向かおうとする私をエトが呼び止める。

「ケイさん、ケイさん。何しに行くのよ」

「大学に」

 引きとめられてそう答えると、エトは同じ問いを繰り返す。

「大学に、何をしに行くの」

 今日の授業は、と聞かれて私は思い出すまでもない予定を口にする。

「今日は、ゼミです」

 本当は興味だけで取った一般教養の授業もあるのだけれど、卒業に必要な単位は取ってしまっているから五月病を発症してからは一度も出席していない。

 そのカバン、とエトは私の背中のリュックを示す。

「ゼミの荷物、入ってないよ」

 嘘ォ。

「あら本当」

 中身を確認して驚いた。カバンに入っていたのは手帳と財布とカード入れ、筆記用具と下敷き、電子辞書、まっさらのルーズリーフを入れているファイル。ハンカチもハナカミも持ったのに、肝心の勉強道具が入っていない。

 遠足にでも行く気だったのか。残念ながら遠足に電子辞書はいらない。小学生なら不要物の持ち込みで引率の先生に怒られる。大学生なら授業の荷物が足りなくて私が困る。

「飯食べに大学行くところだったわ」

 授業に出るから大学で飯を食べるのか。飯を食べに大学に行って授業に出るのか。

「食べるために大学に行くんでしょう」

「うん、まあね」

 結局はそうなんだけどね。頷きながらカバンを下ろして、机の端に積み上がった山からゼミで使う資料やファイルを掘り出してくる。

 机の山から掘り出すは勉強道具。そうして植える将来の飯の種。今植えなければ、いつか飢えるだけ。カバンに詰めた荷物は飯の種には見えない。でも種なんて大体そんなものだろう。黒い小さな種から緑のツルがにゅるにゅる伸びて朝顔が咲くなんて、思いもしないから小学生は観察日記をつけさせられる。

 将来を思う分だけ重くなったリュックを背負い直し、改めて。

「行ってきます」

 食えないエトを部屋に残して、私は大学へと出掛ける。


 人の姿が少ない朝一の食堂。その片隅、窓際の席で私はサンドイッチを食べる。

 窓から外を見ると、目の前の小道を遅刻なのか慌てた様子で学生が駆けていく。一限目が始まってまだ十五分ほど。よほど厳しい先生でなければ出席として扱ってくれるだろう。

 私が投げ出した一般教養科目の授業も今すぐ教室に行けば多分出席になる。ここ何回か欠席していた程度では、まだ単位は絶望的でないはずだ。ただその単位に希望も願望も抱いていない現在、私にとって大切なのは目先の朝食だった。

「ケイちゃん、おはよう」

「ふん」

 かけられた声に反応を返しつつ、口の中に入っている百円引きのサンドイッチを緑茶で流し込む。

 売店で手に入れた昨日の売れ残りサンドイッチの消費期限は今日の昼まで。早めに食べてくださいね、と言うレジのおばさんに、はい、と素直に返事をした通り早めも早め、買って三十分も経たず既に半分が腹に収まっていた。

「授業さぼって優雅に朝食たあ、良い御身分ですな」

 声をかけてきたのは同じ文芸サークルに所属する友人アリノ。

 ちなみに彼女も同じ授業を取っているので私と同じ御身分だ。

「部屋にろくなもんがなくってさあ」

 どうせゼミだし学校で食べよかなって。私の返事に彼女は顔をしかめてみせる。

「買いに行けば良いじゃん。ケイちゃんの下宿、スーパー近いでしょ」

 確かに近い。徒歩五分。駅までも十分かからない距離にあるので、あの下宿なかなかの優良物件だ。不良なのは住人たる私の勉学に対する姿勢だけ。

「行くんだけどさあ。買わないんだよ」

 何で、と私の向かいに座ってアリノは聞く。

「お腹が減って買い物に行くのに、いざ売り場に着くと何も食べたくなくって」

 買わない、と言うよりも、買えない、と言うべきか。

 出来合いのものを買おうにも、惣菜売り場のフライはどれも香ばしくキツネ色に揚がっていて、弁当コーナーの焼き豚丼は艶やかに脂が乗って、パンコーナーの菓子パンは砂糖やジャムが色とりどりに輝いて。どれも美味しそうで、食べたくない。なぜかはわからない。では手間はかかるが食材を買って自分で作ろうかと野菜や鮮魚、精肉売り場に足を運んでも、料理として調えられる前の素材たちはどうしても食べ物に見えない。

 一人で買い物に来たのに誰かとはぐれたように売り場をあちこち彷徨って、食べ物に囲まれて食べられる物を探す。結局あの時は何を買ったんだったか。

「大丈夫なの、それ」

 ちゃんと食べてるの、と友は母親のようなことを言う。

「食べてはいるよ。昨日も煮魚したし」

 ほら、今もこうしてサンドイッチ、と残りのもう一切れに手を伸ばす。

 部屋に何もなくて、だけど腹が減ったからと買い物に行くと駄目なだけ。週末の買い出しに行く分には、まだ大丈夫。毎週買うものは大体決まっているから、先週と同じものを買えばいいのだ。食指が動くようなら目についたものをカゴに入れればいい。

「ああ、ブリね」

「そう、ブリね」

 アリノはここ最近の私が買い出しへ行く度にブリを買っては煮付けて食べて、ついでにそこそこ酒も飲んで上機嫌になっていることを知っている。

「ブリって言ったら、エトもブリ好きだったよね」

 突然、エトの名前が友人の口から出てきた。

 思わぬ話の流れに私の口からは卵サンドの欠片が出そうになる。

「どうするの、エトの話」

 どうするって言われても。答えに困る私にアリノは言う。

「去年の終わりに書きかけで提出したきりじゃない」

 アリノが言っているのは、私がサークルに出した未完成の話のことだ。作品と言うのもおこがましい。何となく書き始めたそれは不器用な記憶のつぎはぎでしかなくて、物語と呼んで良いのかもわからない。

「少しは進んでるんでしょ」

「うーん」

 話の語り手はエトだ。現在、当人はすっかり停滞して隅の方で小さくなっている。語り手が語るどころか動こうともしないのでは、物語は少しも前へ進まない。

「ずっと部屋の中にいるわけには、いかないよなあ」

 最近のエトは学校にも行こうとしない。今朝だって、取りつく島もない返答に私は何も言えなかった。

 私の呟きに、ん、とアリノが首を傾げる。

「いや、そういう話だってないわけじゃないと思うけど」

 でも書きにくくないの、それ。動かない人物。変化のない背景。そんな中で物語を展開させていく。

「書きにくい。というか、だから詰まってる」

「じゃあ外に出しちゃいなよ」

「連れ出せたら苦労してないよ」

 どうしてこうなっちゃったかな、と溜息を吐く私にアリノは人差し指を突き出して言う。

「それを書けばいいじゃない」

 アリノの指が示す先には湯呑。ウォーターサーバーから汲んできたタダで飲める食堂のお茶に目を落として、私は提示された展開案を口にする。

「エトに回想させる、と」

 頷くアリノ。確かに本人は部屋にこもったままでも、振り返る過去の中ならば外に連れ出せるだろう。ただ、相手はエトだ。あの頑固者が果たして上手く動いてくれるだろうか。

 考え込む私にアリノが不思議そうな顔で聞く。

「ケイちゃん、そういうの苦手だっけ」

 私は首を横に振る。回想するのは別に問題ない。問題なのはエトだ。

「苦手なんだよなあ、エト」

「自分で書いといて」

 アリノが笑うので私も笑って返す。

「うん、自分なんだけどさ」

 ところで、と私は話を変えて尋ねる。

「アリノさんは何しに学校来たの」

 記憶違いや予定変更がないなら、今日は彼女が取っている授業は一限目だけだったはず。それは今こうして一緒にさぼっているし、サークルで集まりがあるというような連絡も回ってきていない。

「就職課で書類もらいに。今日は昼からバイト入ってるから、朝のうちにね」

 シューショクカ。異国の言葉を聞いたような気分で忘れていたかった現実に目を向ける。四年間の大学生活なんてあっという間で、気づいたら最後の年だった。

「年末までには、どっか内定ほしいなあ」

 お互い頑張りましょうぜ、と言うアリノに頷いて、私はサンドイッチの残りをかじる。

 急にパンが乾燥して口の中の水分を吸い取ってしまったようで、咀嚼するのも飲み込むのも途方もなく大変なことに思えた。

「進展あったら教えてよ。この先どうなるのか気になるし」

 そう言ってアリノは席を立ち、就職課へ向かった。まだ朝食を食べ終わらない私はテーブルに着いたまま彼女を見送る。やたらと歯に舌にまとわりつく咀嚼物を何とか飲み込むと、それは存在を主張しながら鳩尾の方へ向かって下っていった。

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