第37話 海に来た

 ふわりと夏の暑さを微かに忘れさせてくれるような潮風が、鼻に突き通る様な塩水の香り、ザア、ザアと波打つ海がまさしく海特有の感じだと改めて実感する。

 萩先生の車に乗り、約三時間。

 辿り着いたのはまさにリゾート地と言わんばかりの光景が存在していた。

 目的地まで歩いているとふと周りの光景が目に入る。夕暮れにも関わらず、まだ遊んでいる輩もいれば、海から少し離れた場所にシートを敷きながらカップルが手を繋ぎ海の果てを見ている光景がちらほらと見える。


 「羨ましいですね」


 泉が俺がカップルの方を見ている時に同じ方向を向いてうっとりとした表情で呟く。


 「別に羨ましいとは思わんがな。言っておくが強がりじゃないぞ。俺ならとっとと帰って本を読む」


 「……広先輩に浪漫が分かるわけも無いですね」


 泉は呆れた目を向けながら、前にいる南澤達の方へと向かって行った。


 「お兄ちゃんってそこまで馬鹿だったの?」


 背後から付いて来る妹を振り返れば、こいつはゴミだから今すぐ捨てた方が良いのではないかと言わんばかりの目つきを俺に向けてくる。


 兄に向ける視線じゃねえ。


 「何が馬鹿なんだ?」


 「だから、お兄ちゃんみたいな女心が一つも分かってない人間には分からないから気にしない方が良いよ」


 「いや、分からないから聞いてるんだけど?」


 「その質問が最早駄目だから。こういうのは誰かに言われて分かるようなら駄目なの。自分で気付いてこそだから」


 年上で兄であるはずの俺なのだが、妹の方が大人の先輩の様に思えるのは俺の頭がおかしいだからだろうか。


 「お前って大人だな」


 「お兄ちゃんが子供なだけだから」


 褒めたのに貶された!


 これが女心なら俺には一生分からない気がする。


 「ほら、辿り着いたぞ。お前らは今日から三泊四日でここに住んでもらう」


 妹と話していると、萩先生が一つの方向を指差しながら呟く。

 萩先生が指差した方向には、海では定番であろう海の家。昼ではここで海を訪れた人が浮き輪や、焼きそば、たこ焼きなどを買ったりする場所である。

 見た目としては一件古そうな木組みだが何処か来た人を落ち着かせるような雰囲気を醸し出し、俺は全く嫌いではなかった。

 むしろ好きな方だとも言えるが……、


 「……道理で服が多いし、金が少ないのに行ける筈だ」


 背後の妹を少し薄くしながら見つめると、目を逸らされる。

 この俺を嵌めた妹はどうやら全ての事情を知っていたらしい。というより、あの時点で気付かなかった俺が馬鹿だ。

 

 「それじゃあ、まずは挨拶しなくちゃならないんだが、あいつは何処に行ったんだ?」


 萩先生が辺りをキョロキョロと見ながら呟くと、


 「おお、いるじゃん妙」


 俺の背後から声が聞こえ咄嗟に背後を振り返ると、根性!と書かれたTシャツを一枚に短パン、ポニーテールの髪型をしている萩先生と同じ位の歳の人が存在し、片手に開けてある缶ビールを手に持ち、もう片方にはぎっしりと缶ビールが敷き詰められている袋を持っている人だった。

 だが、それ以上に気になるのはその人の足元に隠れている熊の人形を両手でしっかりと握りしめている小学三年生ぐらいだろうか?それ位の背丈をし、髪を纏めずなびかしている少女に俺は目が留まった。


 ロリコンの特殊性癖などは持ち合わせていないが、単純に彼女の眼が少しだけ…悲し気に見えたのは気のせいだろうか?


 「……私が眠気を我慢しながら車を運転している間にお前は酒盛りとは随分余裕があるみたいだが?」


 若干頬を引きつらせながら俺の背後にいる人物へと萩先生は語りかけるが、その人物はケラケラと笑いながら萩先生の元に近づき、肩に手を回す。


 「堅いこと言うなよー。私が今日どれだけ頑張ったと思うんだよ。もう本当に大変で…本当に助かるよ」


 「お前の事情は知らんが、酒臭いから離れろ!」


 萩先生は肩に置かれた手を振りほどきながらため息を吐くが、本当に嫌そうにはしていない。これが、この二人におけるいつもの挨拶の様なものなのかもしれない。


 「……ハア。これが私の大学の同期で、これからお世話になる金松菊美かねまつきくみだ。一応挨拶だけはしておくように」


 『よろしくお願いします』


 全員で挨拶をすると、金松さんはひらひらと手を振りながら、


 「あー。片っ苦しい挨拶は良いから。こちらこそ悪いね。妙に頼み込んで来てくれたんだ。それなりにお金は弾むし、衣食住もしっかりしてる。今から案内するから付いてきな」


 「いや、ちょっと待ってくれ。これから何するかさっぱり聞いてないんだけど」


 金松さんが手際よく進めていこうとするのを遮るのを悪いとは思ってるが、流石にこれから何をするのかは聞いておきたい。


 「ん?妙、話してないのか?」


 「まあ、こいつには今から説明しようと思ってるんだが、それよりもお前の下にいる子供について凄く詳しく話を聞きたいんだが」

 

 萩先生の目線は金松さんの下にいる子供へと注がれる。目を向けられると察したのか、子供は金松さんの背後に隠れる。


 「私は結婚しないって。縛られるのは嫌いなんだから。この子は甥っ子。姉の娘でね。夏休みの間は仕事が休めないとかで毎年ここで遊んでるんだよ」


 「成る程な。裏切られたのかと思ったぞ」


 本当に冷や冷やしていたのか、萩先生は満面の笑みで頷いている。中々に悲しい人であった。


 「ほら、あんたも挨拶しな」


 金松さんが背後にいる小さな子供を前に出す。


 「……向江美優。八歳です」

 

 熊の人形を見つめるように下を向きながらボソボソと話す。

 どうやら三年生、もしくは二年生だったようで大体予想と合っていたが、この歳の割にはあまり元気がないように見える。

 本当に挨拶だけした向江は、また金松さんの背後に隠れてしまっている。


 「よろしくね、美優ちゃん」


 腰を下ろし、向江に対し手を差し伸ばす南澤であったが、プイっと顔を逸らされ、手を拒否される。


 「フ」


 「ちょっと吉条!あんた今笑ったでしょ!」


 思わず鼻で笑ってしまうと耳が良い南澤にはばっちりと聞かれたようで、こちらに来ようとする南澤を寺垣と泉が抑え、妹が前に出て南澤に謝っている構図が出来ていた。


 「いやー悪いね。この子は人見知りで、子供扱いされるのが大っ嫌いな人間なんだよ」


 「それ先に言ってくださいよ!」


 子供が子ども扱いされるのを嫌う。まあ、確かに当たり前のことかもしれない。


 「……私が悪いのは分かってるんだが、話がずれているんで戻していいか」


 萩先生が眺めていたが、痺れを切らしたのか南澤達に呟くと、南澤もまた落ち着きを取り戻したのか、萩先生の方に向き直る。


 「それじゃあ、話を戻す。南澤達は既に知っていると思うが、もう一度これからの予定について話しておく。これから二日間は海でも最大のピーク日とも言える程に人が集まる。その間、私も手伝うが、全員でここでバイトをしてもらい、三日後は自由にここで遊んで良し、四日後はこの辺一帯なら好きな所に遊びに行っていい。その代わり、夕方には帰るからそのつもりでいてくれ」


 …………………は?


 今この人は一体なんて言ったんだ?


 ここで二日間働けと?バイトをしろと言うことか?


 誰が?


 俺が?


 馬鹿じゃねえの?


 「いや、俺絶対働かないですよ。妹の付き添いで来たんだし、絶対に嫌だ。断固拒否する」


 働くのは高校卒業してからでいい。今から働く必要性は皆無だ。


 「……まあ、吉条ならそう言うと思っていたが、吉条の妹は何か策があったんじゃないのか?」


 萩先生は俺の答えを分かっていたように妹へと振る。

 え、妹はここまで知っていて俺を連れてきたの?お兄ちゃんを貶める妹とかホラーなの?


 「お兄ちゃん。働かない?」


 「まるでニートの子供を諭すように言うの止めてくれない?俺まだ高校生なんだけど」


 「なら、理由があったら働くの?」


 「理由があればな」


 理由なんて無い筈だ。俺が働く理由なんてない!絶対にない!


 「お兄ちゃんは最近遊んでいるからお金が無いんじゃないんだっけ?確か所持金千円とか言ってたと思うんだけど?」


 「……まあ、確かに」


 俺の小遣いの殆どは本に貢がれている。更には、最近では泉と妹の誕生日プレゼントの為に買い物をする際にも結構使い、漢城と遊び、結構お金を消費した。

 よって、俺の所持金は千円。


 「言っておくけど、お金が無いからって小遣い増やすとか無いからね?」


 「何だと!?少しは恵んでくれてもいいだろ!?」


 家にあるお金の管理は全て妹が取り扱っている。よって、偶にだが自分が欲しい本が発売される期間が多く、お金が足りない場合は妹に必死にお願いしてお金を恵んでもらう。


 妹は何だかんだ言って俺に甘いと自分で思っている。よって今月も恵んでもらおうと考えていたのだが先手を打たれた。


 「頼むって妹よ。俺本当に金が無いんだ。本二冊発売されるんだが、一冊しか買えないんだ。一冊だけ少しだけで良いから」

 

 俺が手を合わせて必死にお願いすると、妹は一歩引き、


 「……でも、これもお兄ちゃんの為だし」


 「お兄ちゃんの為にはなって無い!」


 「じゃ、じゃあ本は私が買ってあげるから」


 「自分で買うから!」


 「……でも」


 ウーと呻き声を上げながら必死に考え事をする妹。本当に俺に甘い気がする。


 「駄目だぞ吉条。それに妹もだ。お前たちは互いに甘すぎる。ここで社会勉強をするのは絶対に今後の為になる。それは、お前の兄の為にもなるんだ。過度な甘えはしては駄目だぞ」


 今度は萩先生が妹を諭すように呟く。


 「……やっぱり駄目。お兄ちゃん、ここで二日間だけだし頑張ろうよ」


 「ええ、なんでお前の付き添いで来たら働く羽目になるんだよ。更にはこれを帰ってから体育祭実行委員の集まりもあるんだが」


 え、俺ってハードスケジュールじゃない?なんで、本ばかり読んでいる俺がハードスケジュールなの?笑えるよ?いや、笑ねえわ。


 「お願いお兄ちゃん。私もここで泳ぎたいし」


 妹も少しは俺に黙ってここに連れてきたことに罪悪感があるのか、掌を合わせてお願いして来る。

 ……まあ、確かに妹が泳ぐために萩先生にここまで無償で連れてきてもらい、ここで少しでも働けばその分本のお金も手に入り、妹に迷惑を掛ける必要もない。挙句に萩先生が言っていたように社会勉強の為にもなるだろう。一石二鳥、いや既に一石三鳥になっている。


 「……分かったよ。どうせ二日間だ。働くよ」


 「……お互いに甘いのね」


 南澤が呆れたように俺達の方に視線を向けてくるが、俺は甘くないぞ?むしろ厳しいぐらいだと思う。


 ……多分だけど。


 「それじゃあ、色々と教えるから付いて来て」


 金松さんに言われ、当然だが男女別に寝室に案内され、明日から人生初めてのバイトを経験する羽目になってしまうのだった。


 俺の夏休み平穏生活スケジュールさらば!

 

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