6.初めて競馬場に行ったときの事

 初めて競馬場に足を運んだのは、2018年の秋ごろだった。

 何を隠そう、TVアニメ『ウマ娘 プリティーダービー』の影響である。


 ギャンブルがしたいというより、芝を駆ける馬を一度この目で見てみたいと思ったのだ。ある日曜日、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読みながら、私は武蔵野線に揺られて府中本町駅まで行った。

 

 府中本町駅を競馬場口から出ると、競馬場まで直通の通路が伸びていた。ビッグサイトの通称〈ごきぶりホイホイ〉に似た、屋根付きの橋だった。通路のスピーカーから木村カエラの『HOLIDAYS』が流れ、壁には優駿たちのパネル写真が何枚も連なっていた。


 ウマ娘で知った名やその前からCMで聞いたような名前の競走馬が、写真の隅に書かれていた。ウオッカ、ナリタブライアン、ディープインパクト……。あとはよく覚えていない。


 府中本町に着いたのは昼過ぎだったが、通路を競馬場に進む人たちは多かった。

 プラットフォームのエスカレーターで行列が出来ていたが、それがそのまま流れてきているようだ。通路のそこここに競馬新聞を売る人がいて、賑わっている。

 コロナ禍で失われた景色の一つだと思う。


 200円の入場券を買ってゲートを抜けると、晴天下にレース場が広がっていた。

 それは運動公園の400mトラックを5倍以上に広げた大きさで、見たことのない空間だった。


 それまで、広い施設といえば野球場くらいしか行ったことがなかったので、この開放感が気持ちよかった。私は、一目で競馬場という空間が気に入ってしまった。


 私は、何となくレースを観た。タッタラタッタ、とファンファーレが響き、メガホンからアナウンサーの実況が聞こえた。8頭の競走馬がゲートインを済ませ、間もなくゲートが開いた。


 競走馬たちは、競馬場の奥に架かった中央高速道の車たちと同化したかのように、私の立っているスタンドからずっと遠くを走っているようだった。競走馬たちが、大ケヤキを過ぎて、左回りでバラバラとターフを蹴った。


 その籠ったドラムのような音が躍動して迫ると、呼応してスタンドからの歓声が烈しくなった。馬郡は第4コーナーを曲がって、最後の直線に来た。


 「行けっ」「差せッ」「6番! 6番!」「1ばぁーん! 行け!」


 切実な怒号と、好奇と、忘我の境地のような叫びとが幾重にも重なって、この広いスタンドにひとつの嵐を生み出していた。


 馬群を抜いた栗毛の一頭が、一気に伸びた。その馬の名をアナウンサーが繰り返し叫んだ。そしてゴール板を過ぎると、スタンドを包んでいた狂乱の嵐が瞬く間にそよ風となった。


 ため息と、拍手と、喜びが霧散して、人々はオルガズムを終えた顔つきになって、パドックへ向かった。


 私もパドックへ向かい、次のレースの馬券を買ってみることにした。

 知識はないが、ビギナーズラックというのはある。

 初めて麻雀をしたときも、手ほどきを受けながら大勝したことがあった。


 私は、パドックで最も艶のいい馬を選ぶことにした。ある黒毛の馬が目に留まった。3番人気のそれは、クロノジェネシスという名だった。

 新馬戦に勝ったばかりの若い馬だった。


 オッズは6.5倍で、当たったときの旨みもあると思った。

 私は300円でクロノジェネシスの単勝馬券を買って、レースを待った。


 10月20日、東京競馬場第9レース、アイビーステークス。芝1800m。


 レースが始まった。 

 クロノジェネシスははじめ、4番手を走っていた。

 先頭から3馬身を離れて、馬群の内側で3、4番手の位置を保ちながら、第3コーナーを回り、第4コーナーを越えて、最後の直線に入った。


 周りから、次々と怒声が響いた。私は固唾を飲んだ。

 クロノジェネシスはまだ3番手にいた。どうか、と思ったその時だった。


 クロノジェネシスがスパートをかけた。騎手がここだ、と鞭を打った途端、クロノジェネシスはじわじわと前の馬を抜きはじめ、気がつけば先頭を走っていた。

 

 私は昂揚した。「よし! よしっ!」と、叫んだ。

 

 私の目の前を、クロノジェネシスは一心不乱に駆け抜けていった。

 なんという速さだろう。そして、なんと観ていて気持ちがいいのだろう。


 クロノジェネシスは、2番手以降を離して、1着でゴールした。

 私は知らず知らずのうちに拳を握って、叫んでいた。

 競馬場で、我を忘れた一人になっていた。


 自動払戻機に馬券を入れると、1950円が出てきた。 

 私はその金で次のレースの券を買ったが、見事に外れてしまった。


 「Easy come, easy go...」という言葉を思い出した。

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