その結末は失くしたまま
閉ざされたカーテンの隙間から、ほんの僅かに外の明るさがこぼれるだけの薄暗い部屋。
室内に置かれているものは、薄闇の中で輪郭が曖昧な影になっている。壁際に家具と思われる大きな影がいくつかある他、床の上にも少なくない数の小さな影が転がっていた。
誰もいない静かな中で、どこかに置かれた時計が規則的な音で時を刻んでいる。
不意に部屋の外、ドアの向こう側から声が聞こえた。
「イスミ、この部屋には何があるの?」
廊下の突き当たり、閉ざされたドアを見上げてぼくは尋ねた。この家に暮らし始めて一年、目の前のドアが開いているところを、まだ見たことがない。
傍らに立つイスミは微笑んで言う。
「私にとって大切なもの。だから絶対入っちゃだめだよ」
いつもと変わらない、優しい笑顔で返された言葉は答えになっていない。でも、問いを重ねる間もなく、彼女はそのまま廊下の向こうに行ってしまう。
イスミの大切なものって何だろう?
疑問と一緒にその場に取り残されたぼくは、自分の目線よりも少し上にあるドアノブを見つめて考える。答えを求めて手を伸ばしてみても、鍵がかかっているようでドアノブは回らなかった。
「うさこー?」
廊下の向こう、アトリエの方からイスミが呼ぶ。慌てて廊下を引き返すぼくの頭の上で長い耳が揺れた。
アトリエとして使われている部屋の前にやってくると、画材がそこかしこに転がる中でイスミはもうキャンバスに向かっていた。ぼくはいつものように、廊下に小さな座布団を敷いて座り込む。そして居間から持ってきた本を開いた。
絵の具がつくといけないから、とアトリエの中には入れてもらえない。だけどイスミが絵を描いている時は、こうして部屋の前で本を読む。最近読んでいるのはイスミが買ってくれた童話集。細かく描かれた挿絵がきれいな本だ。
時々、本を読みながら彼女の様子を窺う。
今は細かな部分の彩色をしているのだろうか、イスミは息を詰めて筆先に集中していた。その様子に少し前、彼女が裁縫の針に糸を通そうとしていた時の姿を思い出す。確か、この座布団はその時に作られたものだ。縁を手でなぞると縫い目が少し歪みながら続いているのがわかる。
座布団だけでなく、彼女は上手くはない裁縫や編み物で服や帽子も作ってくれた。形が不格好だったり、編み目が抜けている部分があったりもするけど、どれも優しい肌触りで暖かい。
イスミが小さく慎重に動かしていた筆をキャンバスから離す。しばらく画面全体を見てから、ほっと息をついた。その顔がこちらを見る。
「どうしたの?」
視線に気づいたイスミが笑いかけてくる。座布団の上で座り直して、ぼくも笑顔を返す。
「ううん、何も。ちょっと見てただけ。」
何の意味も無いやりとり。でも、こうやって過ごす静かな時間が好きだ。
イスミが在宅の仕事であるのをいいことに、ぼくらはいつも一緒にいた。
「うちにおいで」
一年前、イスミはそう言って、道端に打ち捨てられていた僕に手を差し伸べてくれた。この黒いタオル地の、くたびれたぬいぐるみに過ぎないぼくを拾ってくれたのだ。
家に連れ帰った後には、泥だらけだったぼくをお風呂に入れてきれいにしてくれた。
「ウサギの人形だから、『うさこ』って呼ぼうか」
きれいになったぼくを抱き上げてイスミはそう言った。
漢字から考えるに人形というのは『人』の『形』をしたものを指すんじゃないか、とぼくは思うのだけど、イスミはぼくをウサギの人形だと言った。でもまあ、気にするほどのことでもないと最近は思う。
イスミはぼくに名前を付けてくれた。いつもイスミは優しく笑って、ぼくの頭をなでてくれる。朝はベッドから転がり落ちたぼくを捜して大慌てしてくれるし、夜はその腕に抱いて一緒に眠ってくれる。ついこの前はぼくらが出会った日をぼくの誕生日として祝ってくれた。
イスミはぼくを『うさこ』と呼んで、ぼくは彼女を『イスミ』と呼んだ。
別に、ぬいぐるみだろうと人形だろうと、こうしてイスミと共に名を呼び合って暮らすことには、何の問題も無いのだ。
イスミはぼくを愛しているし、ぼくも彼女を愛している。でも、二人で一緒にいられない時というのもある。愛し合う二人を引き裂くもの、それは『締め切り』だ。
ぼくとイスミが暮らす家の近所に、小さな喫茶店がある。客足の少ないこの店は若い店長一人で切り盛りされていて、今も店内には店長とぼくの他に誰もいない。締め切りが迫ってイスミの仕事が忙しくなると、ぼくは彼女の邪魔にならないように、いつもここにやってくる。
「入っちゃだめ、って言ったってあの部屋は鍵が掛かってて入れないんだ。鍵はいつもイスミが持ち歩いてるみたい」
童話集を開きながら、ぼくは言う。
「確かに中は気になるんだけどさ」
今日の話題は、あの閉ざされたドアのこと。イスミはあの部屋には『大切なもの』があると言っていた。それは一体何だろう。ぼくよりも大切なものなんだろうか。
静かな店内。カウンター席の背が高い椅子の上で不満を口にするぼくに店長は笑って言った。
「開けない方がいいよ、その部屋は」
「何で?」
ぼくは首を傾げる。
「青ひげの部屋だからさ。その本にも載ってただろ」
店長の言葉で、数日前に読んだ童話を思い出した。
「ああ、次々奥さんを殺して部屋の中に隠してた人でしょ?」
青ひげが留守の間に、その部屋を開けてしまった新しい妻。部屋の中には、青ひげに殺された前妻たちの無残な死体が。
「挿絵が怖かったなあ」
壁に吊るされた美しい妻たちの死体が暗がりの中に浮かび上がる。そんな開かずの間を描いた挿絵を思い出してぼくが身震いすると店長は、そう言えば、と話を変えた。
「絵と言えば、イスミの絵は順調?」
「……微妙」
どちらかと言うとあまり良くない。だから、ぼくはここに来ているのだ。
「締め切りが近いからぴりぴりしてる。締め切りなんてぶっちぎっちゃいたい、とかよく言ってるよ」
浮かない気分でそう言ってから、ぼくは首を傾げる。
「ぶっちぎるってどういう意味?」
「ええと、反古にするっていうようなとこかな」
「ふうん」
ぼくは曖昧に頷いた。何となくわかったような微妙な感じ。
でも、と店長は苦笑する。
「絵描きたる者、締め切りはちゃんと守らないとなあ」
「言ってるだけだと思うよ」
いつだってイスミは唸ったり転がったりしながらも、締め切りを守ってきたのだ。ぼくはそのことを店長に教えようとしたけれど、必要なかった。
彼は苦笑いのまま頷く。
「うん、分かってる」
店長はイスミの友達で、人形でしかないぼくよりもずっとイスミの事を知っている。ぼくはそれを時々無性に寂しく思う。このままではいつかきっと寂しさのあまり死んでしまうだろう、とも思う。
どんなに辛い締め切り前だって、締め切りが来ればそこで終わる。
何だかんだ言いながら、イスミは今回もなんとか締め切りに間に合った。昼過ぎにやってきた業者に絵を引き渡した後、居間で寝転がったまま夕方になっても起きあがろうとしない彼女に、ぼくは尋ねた。
「青ひげ、ってどういう意味なんだろ?」
ぼくの問いにイスミは首を傾げる。
「どういう意味って?」
締め切りの後の緩んだ空気の中、二人掛けソファに転がっているイスミが訊き返す。
ぼくは居間と続きになっているキッチンで夕食の準備を始めていた。食事の支度はぼくの仕事だ。まな板の上に野菜を並べながら、ぼくは言う。
「青毛の馬は黒色でしょ? だからそれと同じで、青ひげの髭も黒いのか。それとも髭を剃ったところが青くなってるのか」
「何だそりゃ」
はは、と笑うイスミ。締め切りの恐怖から解放された彼女はとても穏やかだ。
「店長は髭を剃ったところが青いんだ、って言ってたよ」
「駄目だよ、あいつから変なこと教わっちゃ。適当なことばっかり言ってる奴なんだから」
昔からそうだ、と言うイスミの目はどこか遠くを見ている。
ぼくはフェルトで出来た三白眼で彼女の視線の先を見ようとするけど、ガラス玉ですらないこの目にイスミの見る世界は映らない。
タマネギの皮をむいただけなのに、目が染みる気がする。ぼやけた視界で、イスミがテーブルの上の童話集を手に取るのが見えた。ぼくは言う。
「青ひげの周りにいた人たちは、彼が青い髭を生やしているのが怖くて怖くて仕方なかったんだって。黒い髭を見ても別に怖いとは思わないから、もしかしたら本当に青色の髭だったのかな?」
本を見ながらイスミはのんびりとした声で言う。
「髭はどうだか知らないけど、青ひげにも色々あるんだよ。原作はやっぱり怖いけど、オペラになるとまた雰囲気が違うし」
ぼくはタマネギを刻みながら黙ってそれを聞いている。
「うさこ、私が小学生の時の話」
イスミの声に顔を上げるけど、目を開けていられず涙がこぼれた。ぼくとタマネギの戦いに気付かないままイスミは話を続ける。
「学校の図書館で青ひげ借りたんだ。家に帰って読み始めて、しばらくして気付いた」
「何に?」
尋ねると、イスミは絵本の表紙に触れて答える。
「ページが足りないことに」
「足りない?」
刻み終わったタマネギを鍋に放り込む。
「よりにもよって起承転結の結の部分がなかったんだよ」
「うわあ」
イスミは滑らかに青ひげの物語をかいつまんで紡ぎ出す。ぼくは包丁でジャガイモの皮をむきにかかる。
「青ひげの言いつけを破って、扉を開けてしまう妻。室内の惨状に思わず鍵を取り落とし、鍵は血に染まった。いくら洗っても落ちない血。そうこうするうちに青ひげが帰ってくる。そして、」
言葉の糸がぷっつりと切れた。
「そこから先がなかった」
「嫌なところで切れたね」
ジャガイモの皮はまだ細く長く続いて、まな板の上に小さくとぐろを巻く。
「うん、しかもね」
本を弄びながらイスミは続ける。
「その本、あいつに薦められたんだよね」
「あいつ?」
誰のことかと一瞬考える。でも、二人の間で『あいつ』で通じる人物といったら一人しかいない。
「店長?」
イモの皮が途中で切れた。
「何冊か同じ本がある中で一番ぼろぼろのやつを『絶対これ!』って渡してくるからさ、何かあるとは思ってたんだけど」
店長がイスミを知るようにイスミも彼を知っていて、それは二人が子供の頃からのこと。出会ってたった一年しか経たないぼくに比べれば、店長の方が彼女にとっては近しい存在だろう。
「青ひげって聞くと、話の結末よりもこのことの方を先に思い出すんだ」
結局最後はどうなるんだったか、と絵本を開くイスミ。そのくせ、途中でページを飛ばして別の童話を読み始める。
シチューの具を一通り刻むのにずっと黙っているのは寂しかったけど、本を読んでいる人に話し掛けることは酷く気が引けて、ぼくはそのまま何も言わなかった。
次の日、ぼくはまた喫茶店に来ていた。
イスミは次の仕事の打ち合わせがあるとかで家にいない。一人でいることが急に寂しく思えたのと、店長としたい話があったから、イスミが出掛けた後にぼくも家を出た。
「いらっしゃい」
いつも通りにこやかに出迎えてくれた店長に、開かずの部屋のことを訊く。
「店長はあの部屋に何があるのか知ってる?」
「青ひげの部屋のこと?」
彼は少し考えるような素振りを見せて答える。
「見たことは無い。でも、何となくわかるよ」
これが共に過ごした時間の差だろうか。
「ぼくにはわからない。一年一緒にいたけど、イスミはまだぼくが知らない部分を持ってる。店長もイスミもお互いのことをよく知ってて、お互いの昔話をするときはすごく楽しそうで。だけどイスミが楽しそうに振り返る過去にぼくはいないんだ」
やっぱり一年ぽっちじゃ足りないのだろうか。だけど、どれだけ一緒にいても、ぼくには店長とイスミの時間に追いつける気がしない。
カウンターを挟んだ向こう側で店長は困ったように微笑んで言う。
「僕にだってイスミの全てがわかるわけじゃない。わからないことだって、いくつもある」
ぼくは首を横に振る。
「でも、ぼくよりも店長の方がイスミに近いでしょ。あの部屋に何があるのかもわかってるんだから」
店長が、ぼくの知らないイスミを知っていることが悔しかった。その差を埋められないのが寂しかった。唇を噛んで俯く。人間ほど器用なつくりをしていないぼくの手では、たくさんのものは掴めない。
店長が小さく息をつくのが聞こえた。
「確かに、長く一緒にいるだけでわかることもあるけど、それが全部ってわけじゃないよ」
上から宥めるような声が降ってくる。
「知りたいことを知るには、教えてもらえるのを待っているだけじゃだめなんだ。とはいえ反応が見たいからって、イタズラをしかけてばかりいるのもどうかと今では思うけどね」
ぼくはその言葉に昨日のイスミの話を思い出す。
「じゃあ、ページの足りない青ひげは」
店長は苦笑する。
「なんだ、イスミから聞いてたのか。あの後はしばらく睨まれたなあ」
「そりゃあ、ちゃんと話が終わらなかったんだから」
うん、と頷く店長の目は昨日のイスミと同じ。どこか遠くを懐かしそうに見ている。
「でもあの頃は、とにかくイスミにこっちを見てもらいたくて」
「見てもらう?」
訊き返すと、彼は目線をぼくに戻して言った。
「君はもうイスミの世界の真ん中にいるんだからイタズラなんてする必要はない。知りたいことに向かっていきなよ」
ぼくは店長を見上げる。まっすぐにぼくの目を見て店長は言う。
「開けてみればいいんじゃないかい。何もしなければ何も変わらない。たとえそれが悪い方に進んでも、行動してみる方がいい」
とはいえ、あの部屋に入るにはイスミが持つ鍵が必要で、貸してくれと言ったところで彼女がそれを渡すとは思えない。店長は、申し訳ないけど自分からは言いたくない、と言って部屋の中にあるものを教えてくれなかった。
どうしたものか、と童話集をぱらぱらと捲りながら考えていると玄関の方から物音がした。イスミが帰ってきたのだ。
「おかえり」
廊下で出迎えると、彼女は随分疲れた顔をしていた。
「ただいま。今日は何してた?」
イスミは荷物を置くために部屋に向かう。ぼくはその後をついて歩く。
「今日は店長のところに行ってきたよ」
「あいつのところ?」
イスミが足を止める。驚いたような顔がぼくを見た。
「うん。色々話せて楽しかった」
ぼくがそう答えると、イスミの顔が曇ったように見えたのは気のせいだろうか。
そう、と小さな声でイスミは頷いた。
それから後も彼女はどこかぼんやりとしていて、ぼくが呼ぶ声を何度か聞き落とした。
「イスミ、さっきからどうしたの。考えごと?」
「いや、何でもないよ」
訊いてみても、そんな答えが返ってくるばかりだった。
ただ夕食の時にイスミは、ふと思い出したように言った。
「ああ、そうだ、明日も打ち合わせが入ったんだ」
だから留守番よろしく、と。その言葉の通り翌朝、彼女は出掛けていった。
「寂しかったら、あいつのところに行ってもいいから」
そう言い置く時の表情は、気のせいか少しこわばって見えた。
昨日から一体どうしてしまったのか、心配しながらもイスミを送り出して居間に戻る。するとテーブルの上に、普段ここでは見かけないものがあった。いつもはイスミが肌身離さず持ち歩いているのに、どうしてこんなところに。
開かずの部屋の鍵。小さなぼくの手にも収まる、ありふれた形の銀色の鍵。
『開けてみればいいんじゃないかい』
店長の声がよみがえる。イスミはたった今、出かけていった。
ぼくは鍵を手に取ると廊下の突き当たり、あのドアの前に向かう。ドアノブの下についている鍵穴には、とても背の低いぼくも簡単に手が届いた。鍵を差し込み、回す。
かちゃり、と小さな音をたてて鍵が開く。
ぼくは閉ざされていたドアを開けた。
真っ暗という訳ではないけど、何があるのかわからない程度には薄暗い。一歩、二歩と足を踏み入れる。つま先が何か柔らかいものを蹴った。何だろう?
目を凝らす。暗い室内に転がるもの、薄闇に慣れていく目が捉えたそれは、虚ろな目をした人形達。どれもこれも不器用な出来の服を着て帽子を被っている。
すぐにわかった。これは過去、イスミに愛されてきた人形達。
ああ、青ひげの部屋だ。
ぼくは鍵を取り落とす。店長の言葉は確かに的を射ていた。後ろを振り返ると、ほら、そこには青ひげが。
開け放された部屋の入口にイスミが立っていた。今朝と変わらず、ぼんやりとした様子で彼女は口を開く。
「打ち合わせがあるっていうの、嘘なんだ」
その声に感情はこもっていない。
「鍵を置いたままにして、どうなったかなって。入っちゃだめ、って約束守ってくれてるかなって」
様子見に戻ってきた、とイスミは言う。
「見ちゃったね」
ぼくは頷く。
「うん」
ぼくはイスミの顔を見上げる。
あの童話集はどこに置いてきたっけ。
「イスミは青ひげだったんだね」
「そう?」
イスミの顔には怒りも驚きも戸惑いもない。その顔をまっすぐ見つめて、ぼくは言う。
「ねえ、イスミ。青ひげが奥さんを殺しては閉じ込めたのは、奥さんのことをすごく愛してたからだと思うんだ」
誰かと親しくしているのを見ると嫉妬や不安に駆られる。後妻達があの部屋を覗いてしまえば、その惨状に悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
「どこにも行かないで、ずっと私のそばにいて、ずっと私のことだけ見ていて、って」
殺した妻を壁に吊り下げながら、きっと青ひげは言うのだ、『これでずっと一緒だ。もう離さない』と。
葬られて土に還ることさえ許さない独占欲、それが青ひげの本質だった。
「そうでしょ、イスミ」
イスミは何も言わず歩み寄ってくると、そっとぼくを抱きしめた。
「寂しかった」
愛する人は殺してしまえば、もうどこにも行かない。だけど、どこにも行けない。
一緒に出掛けることも、食事することも、言葉を交わすこともできなくて、それが寂しくて青ひげは、新しい奥さんを連れてきては同じことを繰り返した。狂ったような残忍な行動ではあるけれど、その底にあるのは奥さんへの愛情だった。
イスミも同じ。彼女は子供の頃にその結末を失くしたまま、青ひげの物語を繰り返す。
きっと、ぼくもその繰り返しの中の一つに過ぎない。
どんな顔をしているのか腕の中のぼくからは見えないけれど、イスミは静かに言う。
「寂しかったんだよ、うさこ。最近はあいつのところに行ってばかりで、帰ってくればいつも楽しそうに笑ってて」
どこへ行っても、ぼくはイスミのことばかり考えているのに。
愛に狂った青ひげにはそんな言葉も通じない。
ぼくは足下の人形に目をやる。
次から次へと新たな人形を連れてくる中で、イスミはかつて愛した人形達全てを覚えていられるのだろうか。愛情は過去のこととして思い出される時も、当時の温度を保っていられるのだろうか。青ひげは物語の終わり、その死の間際に、最初に愛した妻の顔を思い出すことができたのだろうか。
床に転がる人形たちは、埃の積もった虚ろな目でぼくを見上げている。
「ここに、ずっと。もう離さない」
だけど、ぼくはイスミを愛してる。
たとえこの部屋の闇に埋もれて忘れられていく人形の一つになるとしても。
閉ざされたカーテンの隙間から、ほんの僅かに外の明るさがこぼれるだけの薄暗い部屋。
室内に置かれているものは、薄闇の中で輪郭の曖昧な影になっている。壁際には家具と思われる大きな影。床の上、あちらこちらに転がる小さな影はイスミが愛した人形たち。ぼくもその一つとなって薄闇の中に溶けている。
誰もいない静かな中で、どこかに置かれた時計が規則的な音で時を刻んでいた。
不意に部屋の外、ドアの向こう側から声が聞こえた。
「イスミ、この部屋には何があるの?」
「私にとって大切なもの。だから絶対入っちゃだめだよ」
また青ひげの物語が始まる。
「いらっしゃい」
一人で店にやってきたイスミに僕は尋ねる。
「うさこはどうしたんだい?」
訊くまでもないことだ。
「もうここには来ない。あのこはずっと、私だけの『大切なもの』だから」
カウンターの席についてイスミは問う。
「寂しい?」
「いや」
「私は寂しいよ」
いつもあのこが座っていた隣の席を見やる。
「あのこは私だけのものになったのに、私は寂しい」
そしてまた彼女は繰り返すのだろう。どれだけ繰り返してもその愛情が人に向けられる事はない。
ずっと彼女に思いを寄せてきた僕でさえ、彼女の目には映らない。
僕は未だあの部屋に入った事がない。
そして、きっとこれからも。
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