苦くも甘くも
寒いから何か温かいものが飲みたい、という話になった。
美術室がある管理棟はクラス棟よりも古い建物で、窓やドアを閉め切ってもどこからともなく隙間風が入ってくる。一応ストーブはあるけれど、校舎同様に古い機体は通常の教室よりも一回り広い美術室を暖めるにはパワーが足りない。
緑茶とココアとコーンポタージュ、おしるこ、ミルクティー。
筆洗の中で筆を濯ぎつつ、昇降口脇の自動販売機の品揃えを思い出した順に呟く。筆洗い用の油がクリーム色に濁っていた。コーンポタージュにしようか。買う物が決まろうとしたところで横やりが入った。
「コーヒーは」
下の自販機、コーヒーも入ってたろ。振り向いた先で、声の主の男子部員は筆を止めることも顔をこちらに向けることもせず、自分のカンバスに向かったまま言った。
美術部の指導も受け持っている美術講師が非常勤で毎日は学校にいないため、作品製作は基本的に個人のペースで進めることになっている。次の締切まで今はまだ随分と余裕があるから、放課後の部活に出てきても途中で切り上げて帰る部員が多い。
もともとそれほどいない部員が一人また一人と帰っていき、今日は下校時刻まで三十分を残して美術室には二人しかいなかった。
「いや、コーヒーはちょっと」
筆の油を拭いながら言うと、髪の短い頭が少しだけ振り返る。
「何だ、お前まだ飲めないのか」
手を止めて心底驚いたような調子で彼がそう聞くものだから、パレットに少し絵の具を出し過ぎた。何だか悔しいような恥ずかしいような気持ちになって、言い訳するように答えた。
「だってコーヒーって苦すぎるでしょ。カフェオレとかココアとか、甘いのなら好きだけど」
授業用の机の列と、石膏像などの物置と化した作業台の間に並ぶ描きかけの絵。その中で二人は各々のカンバスに向き合ったまま会話する。
「甘いもの食う時どうするんだよ。飲み物まで甘いと味わからなくなるだろ」
油絵の具は服に付くと落とすのが大変だから、着彩時の部員はジャージにエプロン姿。ある意味これもユニフォームみたいなものか、と自分のそれよりも高い位置で結ばれている隣人のエプロンの紐に目をやった。蝶結びに失敗して結び目が縦になっている。
くす、と笑ったら怪訝な顔がこちらを見た。
「何だよ」
いや、何でもない。そう言いかけて違うことを口にした。
「男のくせに甘いものって」
からかう声に反応して、むっと彼の眉間にしわが寄る。
「男が菓子食って何が悪い」
パレットに出した絵の具を筆で混ぜながら私は笑った。
「ううん、悪くない」
カンバスの端、試しに少しだけ乗せてみた色は狙った色よりも赤みが足りず、それこそコーヒーの黒茶色に似ていた。悪くない。そう思って色を重ねていく。
冬の早い日没が窓を黒く塗りつぶす中、放課後の美術室で二人が向き合うのはそれぞれ違う絵だった。
まずはコーヒーを飲めるようになろうと心に決めた。
久し振りに姉に会った。
「大学生活、どう。一人暮らしは気楽で良いでしょ」
私も姉も下宿して大学に通っている。同じタイミングで帰省しないと他で出くわすことはまずないから、こうして二人が顔を合わせるのは盆以来だ。
私が姉の所に遊びに行く形になったので、お茶くらい奢ってやろう、と近所の喫茶店に連れてこられた。
「ケーキセット、飲み物は」
「コーヒーでいいよ」
二人分の注文を受けて店員が厨房に戻っていく。姉はすっかり落ち着いた様子でそれを見送る。何となくからかってやりたくなって私はおもむろに尋ねた。
「彼氏さんと一緒に来たりするの」
姉に彼氏ができた、となぜか母から報告のメールが来ていた。旅行先で撮ったという写真に同じ男の子がよく写っているから、試しに聞いてみたらそうだったという。
ついでのように、あんたは誰かいないの、と聞かれた。そもそも出会いがないのだと返信を打ちながら、高校を卒業してからずっと携帯の中で眠っているアドレスを思った。
「時々ね」
私の問いに姉は笑って答える。
「でもあの人、コーヒー飲めないの。だから今は飲めるように練習してるって」
練習ってねえ、と言ってまた笑う姉。くすぐったがるような嬉しそうな笑顔。からかうつもりで聞いたのに惚気で返された。
顔も知らない姉の彼氏の行動に、いつかの自分を思い出す。
コーヒーが飲めるようになったとして、それで何が変わっただろう。部活や廊下で会えば親しく話しもしたけれど、高校を出たら接点なんてなかった。交換したメールアドレスも、部活の連絡を伝える以外はただの半角英数字の羅列に過ぎなかった。
「やっぱり最初はカフェオレから始めたのかねえ。少しずつコーヒー濃くして、ミルクは少なくして」
そうだねえ、とどこか遠くを見ながら頷く姉。きっと今の彼女の目には、未だ飲めないコーヒーに挑む彼氏の姿が映っている。
「同じもの飲めるようになりたいんだよ」
同じものが飲めるようになったら、同じものが見えるようになっただろうか。確かめる勇気もないまま、時間と距離が離れていった。
店員がこってりと甘そうなケーキと、コーヒーを運んできた。
ミルクも砂糖も入れずカップに口をつける。
飲めるようになったコーヒーは苦かったけれど、甘かった菓子の味がわかるようになっただけ自分も成長できたのだと、いつかそう思えるといい。
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