ふわふわのバトン
緑茶
ふわふわのバトン
ふわもこは、狭い路地のはざまで、母親と二匹で暮らしていた。
父親は二匹に対してあたたかい段ボールと小枝で出来た家を作った後、どこかへと行ってしまった。それ以降会っていない。
きっと他の動物に襲われたか、車に轢かれたりしたのだろう。
遺してくれたその家のおかげで、母親は凍え死ぬこともなくふわもこを守ることが出来ていたが、ひもじくて、狭くて、苦しい世界であることは変わりない。
時たま夜になると、路地の隙間から沢山の色とりどりの光を見て、そこに幸せそうな声が響き合っているのを見た。
ふわもこにはそれがなにか良く理解できなかったが、自分たちはそちら側には行けないのだということはなんとなく知ってしまっていた。
それでも、二匹ならなんとか生きていくことが出来ていた――その時までは。
ある時、二匹は路地裏の外に出た。
新しい食物を探すためである。
二匹はどこまでもさまよい続けた。
みすぼらしい自分たちの姿を見て、2本足の大きな生き物は侮蔑の視線を向けて、冷たく響く言葉を投げつけていった。
――2本足はあれだけ沢山食べているのに、自分たちに分けるものは持っていないのだ。
それでも、食べ物が見つかった時は、彼らは喜んだ。特にふわもこは喜んだ。
やった、これでまた母親と一緒に生きていける――。
そう思い、彼の気持ちは舞い上がった。
そして、ついついはみ出してしまった。
細い歩道から、車道へ。
……轟音を立てて、車がやってきたのはその時だった。
空腹で判断力が弱まっていたのか、ふわもこは気付いていなかった。
だが、母親は気づき――咄嗟に行動を起こした。
ふわもこに体当りして、歩道へと押しやったのである。
――巨大な鉄の塊が、ぐしゃりという音を立てて母親を轢き殺したのは、その直後だった。
当然ふわもこは自分を責めたし、あの時何が起きたのかを理解して怖気が走ったのもまた事実だった。
しかし、悲しんでいる暇もなかった。
彼はただ、本能的に……生き続けることを選ばなければならなかった。
遺された食物を少しずつ食べながら、生きていく。
どこまでも寒くて、孤独で、苦しい、一人ぼっちの路地。
ぬくもりを求めても、そこにはなにもない。
幼いふわもこは、色とりどりの光をぼんやりと眺めながら――弱った頭と身体で考えた。
生きることに、意味はあるのか。
もう、誰も居ない。
だったら、なんのために自分は生きて、死んでいくのだろうか。
無邪気に母のあたたかさを共有していればよかった日々はとうの昔に終わり、
彼は、このまま何もわからないまま自分は死んでいくのだろうと悟っていた。
それはあまりにも悲しい、心の成長だった。
彼は夜の路地裏にうずくまって、このまま目覚めなくてもいいという気持ちのまま……闇に心を浸した。
「ああ……かわいそうに。こんなに痩せ細ってしまって」
だが、彼は死ななかった。
自分に降り注ぐ、深くて静かな2本足の声を彼は聞いた。
それから、自分の体が持ち上げられるのを感じた。
……母親とは別のあたたかさが、そこにあった。
それを身に受けながら、彼は再び意識を失った――。
◇
再び彼が目を開けた時、自分の体がなにか柔らかくてあたたかいものに包まれていることに気付いた。
そしてそのそばには、鼻孔をくすぐる食べ物のにおい――。
彼は顔を上げた。
そこには、自分を覗き込んでくる2本足の顔があった。
白い髪と深いシワ。随分と歳をとっている――それは分かった。
ここは、この2本足の住処なのだ。
どういうわけか、自分はここにいるのだ。
あの路地から、連れてこられて。
ふわもこは警戒した――2本足は残酷で容赦がないと、母親から聞いていたから。
しかし……そこはあたたかく、心地よかった。
だから、ふわもこの危惧は徐々に弱まっていった。
2本足は、自分が起きたのを確認すると、どこかへ行ってしまった。
暖かくて柔らかいものと、おいしそうな食べ物だけを残して。
……気づけばふわもこは、その食べ物に食らいついていた。
いつからまともな食事にありついていなかったのか、もう忘れてしまっていた。
夢中で食べた、食べた。
そして……食べ終わる頃には。
すっかり彼は、その場所のあたたかさに順応してしまっていた。
あの2本足が、自分に危害を加えるような存在であるとは、どうしても思えなくなっていたのだ。
その日から彼は――そこで眠るようになっていた。
父と母が遺してくれていた寝床も、そのままのかたちでそこにあったから。
あの2本足が――自分のために、とっておいてくれたのだ。
……彼を警戒する理由は、もはやなかった。
ある夜、ふわもこは眠りから目を覚ました。
耳を動かすと、2本足が歩いている音が聞こえた。
彼は寝床からはいでて、その足音を追った。
――2本足は、どこか別の広い場所に移動したのがわかった。
そして、その様子は――隙間からはっきりと見えた。
広くて白い場所に、もうひとりの2本足が横たわっていた。
メスで、年齢は、傍らに座っている2本足と同じぐらい。
一人は、寝たきり。もうひとりは、そのそばでじっとしている。手を握って。
それが何を意味しているのか、ふわもこには分からなかった。
だが、2本足に手を握られながら、じっと外の月明かりを見ているメスの2本足から発せられるにおいには気付いた。
……自分たちが一番おそれ、遠ざけていたにおい。
それが何かは、すぐにわかった。
死のにおいだ。
――あの2本足から、それがにおっている。
あれは、もうすぐ死ぬのだ。
ふわもこには、2本足達の生き方なんてわからない。でも、彼らもまたその匂いを嫌うのは知っていた。
生き物みんなが、そのはずだった。
だけど、その横たわる2本足は違っていた。
彼女はじっとして、黙り込んで、外を見ている。
――彼女は、死の匂いを、抵抗することもなく、受け入れようとしているのだ。
だから、あんなふうに黙っているのだ。ずっと、ずっと……。
……同じじゃないか。
ふわもこの頭の中がしびれた。
――あの2本足は、自分と同じじゃないか。
母親に死なれて、ただ冷たくなっていくだけの自分の体を冷静に受け止めていた、あの頃の自分と。
だから、ふわもこが彼女の傍に居ようと決めたのは自然なことだった。
◇
ふわもこは、彼女の寝床の傍で眠るようになった。
彼女は特に抵抗したり、嫌な顔をしたりしなかった。
ただ、じっとしていた。そのまま、外を見ていたのだ。
だが、時折その弱々しい手が、ふわもこの身体を撫でたり、小さく何かを語りかけたりした。
……あの2本足とそっくりな目つきと、喋り方だった。
どこまでも優しかった。ふわもこは安心した。
だが……2本足は、日々を重ねるたびに弱々しくなっていった。
どれだけ自分がそばにいて、身体のぬくもりを感じやすいように仕向けても、いっこうにそれが伝わらない様子だった。
あの匂いが、更に強くなっていく。
ふわもこは苛立っていった。
「……私はね。もう死ぬのよ」
そんなことを2本足は言っていた。
ふわもこには理解できるはずもない。
でも、2本足が、あの忌々しい匂いを受け入れようとしていることだけは分かった。
――そんなの、ありえない。
母に似たぬくもりを持った、2本足たち。
そのうちの片方が、生き物としてしてはならないことをしようとしている。
それは……生きることを、すっかり投げ捨ててしまうこと。
あの匂いに、完全に打ち負かされてしまうこと。
……駄目だ。
それだけは、させてはならない。
ふわもこは、なんとか自分の思いを伝えようと頑張った。
めちゃくちゃに吠えてみたり、その場で暴れてみたり。
だが――何も伝わらない。
オスの2本足に怒られても、止められない。
だって……横たわる彼女には、何も伝わっていないから。
ただゆっくりを目を細めて、自分を見てくるだけだから。
駄目だ、それだけじゃ駄目なんだ。
――ふわもこは暴れ続けた。
自分の中にあるものを、なんとかして渡したくて、うまくいかなくって。
彼は……抑えが効かなくなってしまっていた。
まもなく、ふわもこは――衝動のままに、彼らの住処を飛び出してしまった。
死にゆく2本足を外の内側に残して。
◇
ふわもこは、土砂降りの雨の中を歩いていた。
体の内側がどんどん冷えていっても、彼は気づかなかった。
車が近くを通って、泥水をはねても、ふわもこはひとつのことを考え続けていた。
それは――命について。
その、意味についてだった。
もちろんふわもこは2本足ではないから、思いを言葉にすることは出来ない。
しかし、考えていくうちに、形にすることは出来た。
だから彼は……冷たい水に打たれながら、必死に思っていた。
……あの2本足に対して、一体何が出来るのだろうか、と。
――どうせ死んでいくだけの、命。自分ができることはなにもない。
ふわもこは、ずっと暗い外で暮らしてきたから、沢山の小さな生き物が、それに抗えずに死んでいくのを見てきた。
それは絶対だ。どうあっても、変えることは出来ない。
ならば。
――ならば、どうせ消えてなくなるだけの自分たちは、なぜ生きているのだろう。
なぜ、生きることを選ぼうとするのだろう?
空を見上げても、答えは出なかった。
だから彼はさまよい続けた。
さまよい続けて――ひとつの場所に辿り着く。
2本足が、公園と呼ぶ場所。
そのはずれにある、小さな雑木林。
少しでも冷たい水をしのごうと、そこに行った。それだけのことだった。
だが、足元で小さな枝がぱきりと音をたてると、何か、おかしな感覚が漂ってきたのを感じた。
それは、においだった。
ふわもこにとって、どこか知っているにおい。
一体どこから、来ているのだろう。
ふわもこは、鼻をくんくんさせながら林の中に入った。
雨は、においをまんべんなく広げて、どこまでも薄くしてしまう。
だから、探すのは大変だった。しかし、やめなかった。
その匂いは、どういうわけか、鼻の奥にこびりついて離れない。
それほどまでに、知っている匂い――。
そうして彼は、ひとつの場所に辿り着いた。
……そこは、何の変哲もないぬかるんだ地面だった。
だが、枯れ葉がひとつも落ちていなかった。
代わりにそこにあったのは、何かの欠片の集まりだった。
近づいてみると、それが白い骨であることが分かった。
何かの動物が、ここで死んだあかし。
ふわもこは、鼻を近づける。においは、ここからだった……。
――最初、信じられなかった。
そこからしたのは、父の匂いだった。
間違えるはずもなかった。考えるより先に、その事実がびりびりと頭を痺れさせたのだから。
ああ――これは。
この、横たわる四足の白骨は。
間違いなく、亡き父の亡骸だ。
ふわもこはしばらくのあいだ、その周囲をぐるぐるとさまよった。
どうすればいいのか分からなかったからだ。
まるで急に、自分の目の前に現れた、死んだ父。
一体何故、こんな場所で父は死んでしまったのか。見当もつかない。
そうして彼は、白骨に対して、さらに顔を近づけた。
その動作自体に意味はないはずだった。
だが――それは、ひとつの新しい事実を気づかせた。
白骨の父の亡骸は――長い枝を咥えていた。
白い歯が、確かなかたちで、咥えていた。
◇
意味していることは、たった一つしかない。
父が死んだ時、母もまた、死にかけていた。
襲ってくる寒さで、自分共々。
だが、助かった。
父の用意した、段ボールと枝の家。
それによって、生きながらえた。
――ほぼ同時に父は居なくなり、そして、ここで死んだ。
死んだ父は、枝を咥えている。
家を作ってくれた時と同じような枝を。
――ならば。
――ならば、父は。
家を、もっと暖かくしてやろうと思っていたのではないだろうか。
だから、こんな場所にまで来て、枝を集めようとしていたのだ。
あるいは、毎度ここに来ていたのではないか。
あの路地裏に、植物はわずかしかない。
家を作るには、長い旅を何度も繰り返さなければならなかったのではないか。
それを何度となく行うことで、父の身体は蝕まれ、やがてここで――。
――ああ、だとしたら。
ふわもこは、その小さな体のなかに、一つの小さな炎が生まれるのを感じた。
――だとしたら、父は。
◇
父は。
――母に命を分け与えて、死んだのだ。
◇
そして、その母は。
命を引き換えに、自分を生きながらえさせた。
◇
だとすれば。
――今、自分がすべきことは。
◇
ふわもこは、ようやく全てを理解した。
言葉はわからない。だが、内側に宿る炎が、やるべきことを教えてくれた。
彼は、父の亡骸を暫く見つめたあと、背を向けて雑木林を去った。
それから、猛然と駆けながら――あの2本足達のところへ向かった。
◇
何度も何度も、転んで怪我をした。
痛みと疲れが、彼を幾度となく諦めへと誘った。
眠りはすぐそばにあった。
しかし、彼は決して眠らなかった。
……駆け出してから、随分と時間がたった。
そして、周囲がすっかり暗くなり、別の黄色の光が、あたりいちめんに散らばる頃。
――ふわもこは、2本足たちの住処に戻った。
◇
「ああ……なんということだ」
老人が玄関を開けると、そこにはずぶ濡れになって、傷だらけの小さなふわもこが居た。
急に居なくなって、気が気でない状態を過ごして数時間。
再び、彼は帰ってきてくれた。すっかり弱りきって。
身体が震え、足取りもおぼつかない。そんな姿だが――確かに、そこに居る。
ふわもこは老人を細まった目で見ると、小さく一鳴きした。
「帰ってきてくれたんだな。お前は、帰ってきてくれたんだな」
老人は――その小さな体を、優しく抱きしめた。
それからすぐ、ふわもこを暖かいシャワーにつれていき、柔らかいタオルでその身体を拭いてやった。
◇
ふわもこは、悪い心地はしなかった。
ここは自分の居場所ではない。2本足たちの住処だ。
それなのに、わけもなく嬉しかった。
2本足が、自分が帰ってきたことで、喜んでいる。
それだけで、十分であるような気持ちになったのだ。
だが、ふわもこにはやるべきことがあった。
彼は鳴いて、その意志を2本足に伝えようとした。
……すると、大きな2本足は。その言葉を、しっかりと受け取ったのだ。
彼は笑い、しっかりと身体を抱いた。
大きくて、暖かな腕。
その空間に入ると、死にかけた2本足はやはりそこに居た。
――ふわもこは、すぐに駆け出して、彼女の傍にうずくまった。
「……あら」
彼女はうっすらと目を開けて、小さく感嘆した。
自分に手を伸ばして、そっと撫でてきた。
ふわもこは、抵抗しなかった。
その存在を感じながら、身体を丸めた。
それが、ふわもこにとってのやるべきことだった。
彼女は自分を撫で続けている。嬉しそうな声を上げて。
弱々しいが、彼女はまだ――生きている。
だから……間に合う。
それが分かっただけで、十分だった。
体の内側にある火がどんどん凍てついていっても、気にならなかった。
ふわもこはその夜、ぐっすり眠った。彼女のすぐそばで。
それはとても気持ちのいいものだった。
意識を失う前、彼は母親のあたたかい身体が、すぐそばにあるように錯覚したのだった――。
◇
翌日、彼女は目を覚ました。
朝日が、カーテンの隙間から差し込んでくる。
そこですぐに、違和感に気づく。
身体の奥底を支配していた鉛のような重苦しさが、消え失せていたのだ。
同時に、全身でうごめいていた痛みもすっかりなくなっている。
――これは、どういうことなのだろう。
いつになく、身体が軽い。
自分が起床したことに気付いたらしい夫が、部屋に駆け込んできた。
心配そうに様子を聞いてくる彼に、このことを伝えた。
――私、もしかしたら、治ったかもしれないわ。すっかり元気になったのよ。
……夫の顔がほころんで、明るくなった。
それが嬉しくて、彼女もまた笑った。
自分の体から憂いが消え去ったことよりも、それこそが喜びだった。
しかし、彼女はそこでハッとした。
――あの子は、どうしたのかしら。昨日の晩、私の傍に来てくれた。
……間もなく。
夫が、気付いた。
――ふわもこは、彼女の傍らで、冷たくなっていた。
眠るように、安心しきった顔で――旅立っていた。
「ああ……なんてこと」
妻は泣き、夫は彼女を抱きしめた。
――あの夜は、雨だった。
その冷たさが、小さな体をすっかり蝕んでしまったのだろう。
――何故、この子はあの日、飛び出してしまったのかしら。
彼は、それに答えることが出来なかった。
悲しかった。
何よりも悲しかった。
まるで、家族のひとりを亡くしてしまったような気持ちだった。
二人はその気持ちを共有した――完全に、ひとつに融け合うまで。
やがて、妻が涙を拭って、言った。
「きっとこの子が……私に与えてくれたのよ。命を」
「……!」
――彼の中で、こみ上げるものがあった。
だから、彼もまた――涙を流し、ふわもこを悼んだ。
その悲痛の中で、彼は妻に言った。
「ああ……きっとそうだ。だからこそ我々は生き続けなきゃならないんだな。残りの火が消えるまで」
永遠の眠りに旅立ったふわもこの、硬くなり始めた身体を撫でる。
夜は明けて、朝が始まる。
その中で二人は、悲しみよりもむしろ、感謝を彼に伝えたくて仕方がなかった。
――彼らは生きて、そこにいる。
今は何よりもそれが、大事であるように思えたから。
◇
老人とその妻は、小さなふわもこを地面に埋葬した。
安心して眠れるように、柔らかい土を丁寧に上からかけた。
それから二人は、残りの人生を噛みしめるように、毎日をしっかりと生きていったという。
ふわふわのバトン 緑茶 @wangd1
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