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 忘れ物の財布から出てきた不完全な読書リストを、理子りこ友香ともか、そして大道寺だいどうじが囲んでいる。新しい客の来店があり、小山内おさないは三人に断って、仕事に戻っていった。


「理子さん、どこからいきます? 私、いくつかわかりましたよ。ふふふ」


「必読書リスト(川端かわばた俊哉としや作成)」とある紙には、七冊の書名が書かれているようなのだが、ところどころに空白がある。ヒントを参考にリストを完成させよ、というのが川端なる人物の意図だろうか。


 友香はバッグからルーズリーフを取り出して、「必読書リスト」を丁寧に書き写した。


「うーん、知らないのもあるけど、何冊かは。友ちゃん、お先にどうぞ」

「いいんですか? じゃあ……これは『死に至る病』ですよね。キルケゴール」


『死に至る病』はデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの著作だ。「死に至る病は絶望である」という文句とともに、おそらく最も有名なキルケゴールの書物だろう。


「それは私もわかった。あと、これはどう考えても『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』だよね」


 理子が挙げたのは、「現象学」の創始者エトムント・フッサールの最晩年の著作である。ナチス政権下の一九三五年に、ユダヤ系の出自のためドイツ国内での著述活動が制限されていたフッサールが、ウィーンに招かれておこなった講演をもとにしている。


 フッサールは、近代の諸科学が単なる「事実学」に堕してしまったことから来る学問の危機の淵源を哲学史的にたどりながら、あらためて自身の超越論的現象学の体系化を目指したのだった。


「それから……最初のはマルクスですよね」

「だと思う。それに、これはドゥルーズじゃない? 『差異と反復』」


『マルクスのために』はルイ・アルチュセール、『差異と反復』はジル・ドゥルーズの著作である。二人ともいわゆる「フランス現代思想」に属する哲学者だ。


「けっこうフランス系が多いのかな……だとしたら、そのまえは『白日の狂気』かなあ。モーリス・ブランショの短編小説」

「すごいですね、理子さん! よくわかりますね」

「いや、まあ……一応、学部でフランス現代思想かじってたし」


 現在は城京じょうきょう大学の大学院に通っている理子だが、学部は英央えいおう大学の出身である。卒論では同じくフランス現代思想としてまとめられる哲学者ミシェル・フーコーを扱った。ブランショも同じ二〇世紀フランスの作家である。


「私がわかるのはこのくらい……友ちゃん、あとはどう?」

「最後は……『苦海くがい浄土じょうど』じゃないでしょうか。なんか急に雰囲気が変わりますけど」


 熊本の水俣病を扱った『苦海浄土』は、日本の作家・石牟礼いしむれ道子みちこの代表作だ。


「そうすると残ったのは、二番目か。『この時代の』……なんだろう、見当もつかない」

「私もです」


 理子と友香が、となりのテーブルの大道寺にちらっと視線を向けた。ここまで沈黙を保っていたのには、二人が自力で解答にたどりつくのを見守るという教育的配慮もあったのかもしれない。


「先生、これ、なんだと思います?」

「僕の頭に浮かんだのは、エルンスト・ブロッホの『この時代の遺産』です。ナチス政権前夜の大衆文化を鋭く批評した本です。ブロッホ自身もユダヤ系でしたので、のちにアメリカへの亡命を余儀なくされました」


 教わった内容を脳内にメモするように、理子と友香が神妙な面持ちでうなずきを繰り返す。


「……ということは、これで完成ですね、理子さん」


 そう言って、友香が最後の書名をルーズリーフに書き足した。


『マルクスのために』

『この時代の遺産』

『白日の狂気』

『差異と反復』

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

『死に至る病』

『苦界浄土』


「これって、ただ『必読書』って書いてあるだけで、必読なのか、わからないよね。哲学と文学も混ざってるし」

「バラバラに見えて、川端さんにとっては共通するテーマがあるんでしょうか。読んだことがないのもあって、思いつきません」

「そうですね……非常に広い意味で、どれも近代がもたらした『危機』と関係がある、と言えなくもありませんが……そもそも」


 言葉を濁した大道寺が、自省するように続ける。


「僕たちは本のタイトルを完成させるのに夢中になっていて、、という最大の謎を忘れています」


 そう言われて、理子と友香も財布のことをすっかり忘れていたことに気づいた。書き物をするのに邪魔にならないように、財布はいま大道寺のテーブルの上に移されている。


 二人の視線を追って自分も財布に目をやった大道寺が、なにかに気づいたのか、はっきりとした声で言った。


「……なるほど。やはりこれはただの『必読書リスト』ではなかったようです」


 大道寺の断言に、理子と友香の表情が驚きで固まった。


(続く)

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