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「え、先生、開けるんですかい? さすがにそれは……」
忘れ物の財布を開けてみるという
「大丈夫です。おそらく、なにも入ってませんから」
「本当ですかね……他人になかを見られたのを知って、持ち主があとで嫌な気分になるのもねえ。理子ちゃん、どんなひとだったか、覚えてる?」
「えっと……私たちより少し年上の女性が一人、となりに座ってて……そのひとが帰ってから、財布が置いてあるのに気づいたんです。もしかしたら、そのひとのまえにいたお客さんの忘れ物かもしれませんけど」
ふーん、と漏らした小山内が、難しい表情でしげしげと財布を眺める。すると、大道寺の発言に背中を押されたのか、友香が自分の直感の正しさを確認するように、うなずきながら口を開いた。
「でも、やっぱりどう見ても新品ですよね、この財布」
「そうなんだよね。使っていたようには見えないっていうか……それに」
理子も友香に同調して付け加える。
「さっき思ったんですけど、マスター」
「ん?」
「どこかに財布を忘れてきたことに気づいたら、すぐ心当たりの場所に探しに行きますよね。ないと困るから」
「まあ、そうだけどね、普通。でも現に取りに来ないわけだ」
「だから、やっぱり使ってない財布だったのかも……そもそも、もしあの女性が使っていた財布だとしたら」
理子が顔を上げて、小山内の目をまっすぐ見つめて言う。
「財布がないのにどうやってお会計したんでしょうか」
「……と、いうことです」
わが意を得たり、という風に、大道寺が穏やかな声で言った。
「たしかに、そう言われると……このところ会計のトラブルなんかなかったしねえ……待てよ、二人客の片方が忘れて、たまたまもう一人が会計をしたってこともあるのかもしれないな」
「もちろん、その可能性も残っています」
「まあ、先生を信じて開けてみるにしても、俺は嫌だな……理子ちゃん、やってよ。第一発見者なんだから」
「えっ、私ですか」
理子が人差し指で自分の顔を指差す。言い出した本人の大道寺は、なにも言わずにただ微笑んでいるだけだ。仕方なく、大切なものに触れる手つきで、おそるおそる財布を持ち上げてみる。ファスナーをつまもうとして、ふと指を止めた。
「これって鹿革かなあ」
「理子さん、わかるんですか?」
「うーん、そこまで自信があるわけじゃないけど……私、山梨に叔父がいて、たまにブドウとか送ってくれるのね。遊びに行ったこともあって、たしか鹿の革を使った財布があったような……」
「
大道寺が理子の言葉を引き継いで言う。
甲州印伝とは、鹿の革に細かな
「はい。なんとなく手触りが近いような……でも微妙に違う気も……」
「漆の模様もありませんね」
「そうですよね……とにかく、開けてみます」
理子ができるかぎり優しく、ゆっくりとファスナーを動かして、財布を開いた。大道寺の予想どおり、なかには紙幣はおろか、カードのたぐいも入っていなかった。
「ほんとだ、
「やはりそうでしたか。小銭も入ってなさそうですね……そうそう、新品だとしたら、タグが付いていたりしませんか」
「えっと……これかな? なんか紙が入ってますよ」
生地に爪を立てないように気をつけて、理子が財布の内ポケットに入っていた紙を取り出した。手帳から切り取ったような薄い紙質の紙片が、小さく折り畳まれている。
「商品の注意書きですかね。ん? なんだこれ」
理子がテーブルに開いてみせた紙に、全員の視線が注がれる。そこには商品を取り扱う際の注意事項とはまったく関係なさそうな文言が、細かい整った文字で書かれていた。
必読書リスト(
『 クスのために』
『この時代の 』
『 日の狂気』
『 と反復』
『 ッパ諸学の危機と超越論的現象学』
『 に至る病』
『 海浄土』
「必読書リスト? 川端さんってひとがつくったって書いてあるけど……なんか穴だらけですね」
「面白そう! 完成させましょうよ!」
奇妙な虫食いリストをまえに首をかしげる理子をよそに、正面に座る友香がペンを握りしめて、黒い瞳を輝かせている。
(続く)
――作者より――
今回からクイズ的な要素が入ってきますので、しばらくのあいだ「応援コメント欄」を閉じさせていただきます。「9」の公開時にふたたび開けさせていただく予定です。
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