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 翌週の月曜日。お昼休みに共同研究室でお喋りしただけでは物足りなかった理子りこ友香ともかは、前週に引き続き、大学近くの喫茶店「クレール」を訪れている。午後の店内は、今日もなかなかの混み具合だ。


 席についた馴染みの二人を見て、マスターの小山内おさないがニコニコしながら注文を聞きにやってきた。


「いらっしゃい。なににする?」

「えっと……たまには『トレフル』にしようかな。ともちゃんは?」

「私は、いつもの『クール』にします」


「クレール」のブレンドコーヒーには、トランプのスートを意味するフランス語から借用した「カロー」「クール」「トレフル」「ピック」の四種類がある。「クール」はハート、トレフルはクローバーだ。


「オーケー。ちょっと待っててね」

「……あ、マスター。このあいだのお財布、取りに来てくれました?」


 理子が忘れ物の財布のことを思い出して尋ねた。小山内はため息混じりに「うーん」と漏らすと、お盆を抱き抱えるように持ち直してから答える。


「それが、まだなんだよ。遅くても週末には来るかなと思ったんだけど」

「そうですか……あの、こういう場合って、なかを見たりするんですか?」

「いや、うちは一週間待って取りに来なかったら、そのまま警察に届けてる。交番すぐそこだしさ。開ければ電話番号くらいわかるのかもしれないけど、なかなかね……特に最近は個人情報とかうるさいから」


 小山内が唇を固く結んで、肩をすくめる仕草を見せた。


「たしかに。知らない番号からいきなり携帯に電話かかってきても、取りづらいですしね」


 理子も友香と顔を見交わして、小さなため息をつく。厨房へ去っていく小山内の背中を眺めていると、カランカランとドアの鈴が鳴り、背の高いほっそりとした人影が見えた。理子が「あ」と声を上げる。


 店にやってきたのは理子の指導教員の大道寺だいどうじである。理子と友香に気づくと、細い銀縁眼鏡の奥の目が一度大きく広がってから、曲線を引いたように細くなった。秋晴れの空の下にふさわしい爽やかな笑顔を見せながら、二人のテーブルにゆっくりと近づいてくる。


「こんにちは、東雲しののめさん、如月きさらぎさん。二人でお茶ですか。いいですね」


 そう言うと、首を回して、混雑した店内を見渡す。理子たちのとなりの二人席は空いているが、それ以外に空席が見当たらない。


「ずいぶん混んでますね……となり、よろしいですか? お邪魔でなければ」

「はい、もちろん。どうぞどうぞ」


 二人が手のひらを見せて、横の席に大道寺を促す。大道寺は壁側のソファに黒のバッグを無造作に置くと、通路に背を向けて、理子と斜めに向き合うように腰を下ろした。


「先生、いつもありがとうございます」


 小山内が伝票を手に、愛想のよい笑顔を浮かべて寄ってきた。手慣れた様子で大道寺が注文を伝えると、丁寧にお辞儀をして去っていく。


「今日はどんな話で盛り上がっていたんですか?」

「あ、ええ、さっきは……」


 理子が忘れ物の財布のことを簡単に説明した。


「へえ。ちなみに、その財布、使いこまれていましたか?」

「いえ、すごくきれいだったような……ねえ、ともちゃん」

「はい……持った感じ、ほとんど新品って感じでした」

「なるほど」


 喉が渇いていたのか、テーブルの水をごくりと口に含むと、大道寺がうんうん、と首を縦に振る。そこに小山内が、アイスコーヒーの入った銅のマグカップをお盆に載せて運んできた。


「マスター、すみませんが、その忘れ物の財布、ちょっと見せてもらうことはできますか」

「先生もお聞きに? もう明日にでも届けるつもりなんですがね。少々お待ちを」


 小山内がきびすを返して早足でレジの奥に向かい、財布を手にふたたび戻ってきた。大道寺は、小山内がテーブルに置いた灰色の長財布を一瞥いちべつすると、こともなげに言い放つ。


「では早速、開けてみましょう」

「「「えっ!」」」


 にぎやかな店内の片隅に、三人の驚く声がひとつになって響いた。


(続く)

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