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 友香ともかはかがんだ姿勢のままとなりのソファに手を伸ばし、置かれていた財布を取ると、ぶつけた頭を片手でさすりながら、むくっと起き上がった。合わせて理子りこも元の姿勢に戻る。


「いたたた……これ、忘れ物ですよね、きっと」


 痛いやら恥ずかしいやらで、苦笑したまま頭を撫で続ける友香が、もう片方の手でテーブルに財布を載せた。薄いグレーの長財布で、おそらく女性物だろう。


「……もしかして、さっきとなりにいたひとのかな」

「そうかもしれませんね。私たちよりちょっと年上な感じでしたよね」

「うん。私はうしろ姿しか見てないけど、髪が長くて……あ、マスター」


 ちょうどそこに、水を注ぐために店内を回っていた「クレール」のマスター・小山内おさないが通りかかった。緑のエプロンをかけて、白いシャツの袖をひじまでまくりあげている。理子の声に気づいて、灰色がかった両の眉毛が、幅の広い額にぐっと持ち上がった。


「ああ、理子ちゃん。ごめんね、見てのとおり、今日、忙しくてさ。全然相手してあげられなくて」


 そう言うと小山内は、理子と友香に向けてニヤリと大げさな笑顔を見せた。


 春から定期的に「クレール」に通っている理子は、来るたびにマスターやほかの常連とも会話を交わしている。小山内の相談を受けて、突然いなくなった常連客・田中の「謎」に取り組んだこともある。


「ふふふ、大丈夫ですよ。今日は友だちも一緒ですし。それにしても、ずいぶんにぎわってますね」

「ちかごろ毎日こんな調子なんだよ……それがさ」


 通路に立つ小山内が長身をかがめて、理子たちのテーブルに顔を近づける。理子と友香も身体を傾けて、片耳を寄せた。小山内が周囲の客をはばかって、二人にしか聞こえない小声で続ける。


「うちの店がね、最近出たなんかの小説の舞台になってるんだって。このあいだお客さんが教えてくれたんだ」

「え! すごいじゃないですか! マスターもついに全国デビューですね」

「て言っても、本は大して売れてないらしいんだけど。それでも少しは影響あるみたいでさ。ずっと俺一人でやってるでしょ。急に混んじゃって、ありがたいけど大変でね……理子ちゃん、うちでアルバイトしない? お給料はずむよ。ふふふ」


 どのくらい本気なのか、小山内が茶目っ気たっぷりな表情で言う。


「あはは、私、家庭教師あるしなぁ……友ちゃんは、どう?」

「私も、今学期は卒論に集中しないとですもんね……ごめんなさい」

「ああ、いいのいいの! 冗談で言ってみただけだから。まあ、すぐに落ち着くと思うし……そうだ、なにか用事があったんじゃないの? コーヒーおかわり?」


 本題をすっかり忘れていたことに気づいた理子と友香が、きょとんと顔を見合わせると、同時に「あ」と言って照れ笑いをした。理子がテーブルの上の財布を指差して、小山内のほうに顔を上げる。


「これ、となりの席に置いてあったんです。忘れ物じゃないかなって」

「あ、ほんと? サンキュー。こっちで預かっておくよ」


 理子が財布を取り、小山内に手渡す。手から離れたあとも、しっとりとした革の手触りが、いつまでも手のひらに残っているようだった。


「じゃあ、ゆっくりしてってよ」

「はい、ありがとうございます」


 小山内がレジのほうへ去って行くのを見届けてから、理子がテーブルのアイスコーヒーに手を伸ばす。氷が溶けて薄くなったコーヒーを、そのままストローで飲み干した。友香がホットコーヒーを飲んでいた古伊万里こいまりのカップも、すでにからになっているようだ。


「理子さん、来週っていつから大学に来ます?」

「月曜から行くつもり。露木つゆき先生の授業も出ようと思ってるし」

「そしたら、研究室で一緒にお昼食べません? そのときにまた授業の相談しましょうよ」

「うん、そだね……そろそろ出よっか」

「はい」


 荷物を片付けて席を立った二人は、レジで会計と小山内への挨拶を済ませ、「クレール」をあとにした。店を出て、友香と別れた理子は、忘れ物の財布のことはすっかり忘れてしまっていた。


(続く)

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