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「……推理って、大道寺だいどうじ先生の授業の中身を?」

「はい……そうだ! せっかくですし、賭けませんか?」

「賭ける? なにを?」

「そうですね……サタドのドーナツとか?」


 ふふふと友香ともかは笑うと、いたずらっぽい表情で理子りこの目を見つめた。


 サタドとは、国民的なドーナツ屋のチェーン「サターン・ドーナツ」のことだ。二人が仲良くなるきっかけになった店でもある。


「……サタドのドーナツか……よし、やろう」

「ふふ。負けませんよー」


 不敵な笑みを浮かべる友香につられて、理子も思わず腕まくりをするような仕草をした。二人は緋色ひいろの布地が張られたソファを引いて顔を近づけ、あらためて紙の時間割表とスマートフォンの画面とを交互に眺める。


 ウェブ上のシラバスには『開講曜限――未定』とあるから、当然、時間割表のどこにも大道寺の授業「精読演習B」は記載されていない。


「……ていうか、来週から授業始まるのに、曜日も確定してないなんて、まずくない?」

「ですよね……さすがに先生のなかでは決まってるんでしょうけど……」

「大道寺先生って、ああ見えて、いまいちよくわからないからなあ……」


 理子の頭のなかに、スリムな長身で、細い銀色フレームの眼鏡をかけた大道寺が浮かんだ。人目を引く容姿の大道寺だが、茫洋ぼうようとしたところがあり、理子もまだ大道寺の本当の姿をつかみきれていない。


「理子さん、『精読演習』ってことは、講義じゃなくて演習形式なんですよね」

「うん、大学院の授業だしね」

「じゃあ、なにを輪読するのか、テクストを考えましょうよ」

「テクストか……うーん、なんだろう。いくらなんでもアリストテレスってことはないだろうし」


 大道寺の専門は古代ギリシアの大哲学者・アリストテレスである。大学院の「精読演習」の授業は原典講読が原則だから、仮にアリストテレスを授業で扱うとなると、参加者には古典ギリシア語の読解能力が求められることになる。


 理子は修士課程でカントを研究していて、友香は卒論のテーマにハイデガーを選んでいる。カントもハイデガーもドイツの哲学者だ。二人とも、アリストテレスをギリシア語で読む能力はもちあわせていない。


「理子さん以外の修士一年エムイチの方も、古代哲学が専門のひとっていませんよね」

「うん。えっと……フッサール、ニーチェ、アーレント、フォイエルバッハだからね」


 理子と同期の修士一年は、春山はるやま夏川なつかわ秋田あきた冬木ふゆきの男子四名である。それぞれの専門は、順番にフッサール、ニーチェ、アーレント、フォイエルバッハだ。


「てことは、履修する可能性のある学生の側から考えたら、アリストテレスの線は薄い……ということでしょうか」

「そうなるよね。私が知らないだけで、誰かがギリシア語ができれば別だけどね」

「大道寺先生の大学院の指導学生って、理子さん一人ですか? 卒論の指導学生はいませんけど」

「うん、私だけだと思う」

「じゃあ、カントじゃないですか、やっぱり。指導学生は自分の授業に出るはずだから、研究対象のテクストを一緒に読んだほうが指導の効率もいいですし」

「それはそうだけど。どうなんだろう。大道寺先生ははじめてちゃんと授業をもつわけだし、履修者はそれなりにいるんじゃない? だとしたら、もっと最大公約数的なテクストを選ぶ可能性もあるし……」


 そう言うと、理子は腕組みをして、首をかしげた。友香も同じように、思い悩む素振りを見せている。


 カタッと床をソファが擦る乾いた音がして、二人の隣に座っていた女性が席を立った。細い指でテーブルから伝票を拾い上げると、テーブルのあいだの狭い隙間を上手に抜け出して、音も立てずにレジのほうへと歩いていく。


 理子が顔を上げて見ると、黒いスーツの背中に長い黒髪が静かに揺れていた。


「最大公約数的なテクストですか。その面子めんつだとけっこう難しい問題ですね……それこそ、本当にカントくらいじゃないと務まらないような」

「たしかに。ちなみにほかの先生の授業はなにやるんだろ……あっ」


 理子が時間割表を広げたはずみで、手元に置いていたペンが転がって落ちた。友香がすぐに反応し、テーブルの下に身体を滑りこませる。


「ごめん、ともちゃん、ペン落としちゃった」

「大丈夫です……私の足元に……ととと」


 突然、ゴンッという鈍い音が響いて、テーブルが縦に振動した。慌てて理子が下を覗きこむと、友香が両手でおでこのあたりを押さえている。


「いたた……」

「頭ぶつけたの? 大丈夫?」

「あ、はい……なんとか……」

「ごめんね、私のせいで…………あれっ?」


 かがんだ理子の視線は、友香のとなりの席に置かれているなにかを捉えていた。痛みに目を潤ませた友香も、頭をごしごし撫でながら、理子が見つめる先に顔を向ける。


「……それ、もしかして忘れ物かな……お財布?」


(続く)

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