第1講 忘れられた財布

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 水色の絵の具をベタ塗りしたような十月の青空のもと、お昼休みを終えたサラリーマンたちが談笑しながら歩道を歩いている。会社に置いたままなのか、スーツの上着を羽織っているひとはほとんどいない。


 片側二車線の大通りは渋滞というほどではないが、信号が赤に変わるたび、交差点に次々と車が溜まっていく。


 そんな外の喧騒けんそうから壁一枚で隔てられた、南郷五丁目なんごうごちょうめの喫茶店「クレール」には、軽やかなピアノジャズのスタンダード曲が、静けさをかき乱さないくらいの低い音量で流れている。お昼どきで、三十席ほどの店内はほぼ満席になっている。


 音楽を聴くともなく聴きながら、東雲理子しののめりこは、テーブルに置かれた銅のマグカップの表面に、一粒の水滴がつーっと垂れるのを眺めていた。


「……理子さん、聞いてます?」


 ぼーっとしている理子に、正面に座る如月友香きさらぎともかが声をかけた。狙いを定める猫のように、ぐっと前かがみになって理子の顔を覗きこむ。はずみでショートカットの黒髪がさらりと揺れた。


「ああ、ごめんごめん……まだ秋学期が始まるって実感がなくて。なんか、ぼけーっとしちゃった」

「たしかに、全然『秋』って感じじゃないですもんね。今日なんて普通に暑いです」


 そう言って友香は、ブラウスの袖をたくし上げてあらわになった白い手首に視線を落とす。ベージュのチュニック姿の理子は、マグカップに手を伸ばし、ストローでアイスコーヒーを口に含んだ。すっきりとした苦さを通りぬけて、ほどよい甘みがあとからじわりと広がる。


 東雲理子は城京じょうきょう大学大学院の修士課程の一年生だ。一学年下の如月友香は学部の四年生である。


 学部と大学院という所属の違いはあるが、二人とも「哲学」を学んでいる。哲学専攻には女子が少ないこともあり、出会ってすぐ、学年の垣根を越えた親友になった。


 城京大学は翌週から秋学期の授業が始まるところだ。学務課に春学期の成績表を受け取りに来るのに合わせて、二人は近所の喫茶店「クレール」にお茶を飲みに来ている。


「で、理子さん、授業どうします? せっかくならひとつくらい、一緒の授業出たいんですけど……」


 友香はほんの少し気恥ずかしそうにうつむくと、理子から借りた大学院の授業時間割表を眺める。哲学専攻では、学部と大学院がたがいに互換性のある授業を開講していて、一定数の単位はそれぞれ自分の卒業単位に含めることができる。


 四年生の友香は卒業に必要な単位は揃っていて、あとは卒業論文の単位を残すだけだが、同じ授業を履修することで定期的に理子と会う機会を持ちたいようだ。


柳井やない先生は研究休暇サバティカルでフランクフルトですもんね。あとは大道寺だいどうじ先生か……」

「うーん……大道寺先生の授業は絶対に出るつもりなんだけど……」


 理子がスマートフォンを手に、もう一度「う〜ん」とうなって首をかしげた。


 大道寺だいどうじてつ准教授は理子の指導教員である。四月に着任したばかりだが、研究休暇でドイツにった柳井やない則男のりお教授にかわって、理子の指導を担当している。


「これじゃあ、なんの参考にもならないよね!」


 理子は手にしたスマートフォンの画面を思い切り友香に向けて差し出す。怪訝けげんな表情でそれを見た友香は、軽くため息をついた。


「……たしかに」


 画面に映っている大道寺の授業「精読演習B」のシラバスには、理子の怒りもごもっともなほどの、わずかな情報しか載っていなかった。


『精読演習B 大道寺哲 開講曜限――未定 授業題目――未定 

            内容――開講時に指示する』


「……これって、そもそも載せる意味あるんですかね?」

「ほんとだよね……授業のこと、なにひとつわからないし」

「……あ、じゃあ、理子さん」

「ん、なに、ともちゃん?」

「どんな授業になるのか、私たちで推理してみません?」


(続く)

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