第50話お付き合いさせて下さい
クリスマスまであと四日の午後。
小田急線の〈成城学園前〉駅で二人の若者たちがおりると、外は身を切るような寒さだった。真冬の冷気に思わず顔をしかめて、彼らは住宅街のほうへと歩いていく。
コンビニで買ったジャスミン茶を飲みながら互いに親しげな会話を交わすその姿は、他人が見たらカップルだと思われるかもしれない。
通り沿いには高級住宅ばかりがならんいた。ひと目見ただけで、この街が富裕層の住むエリアであることがわかる。駅にその名前がついた〈成城学園〉は、良家の子女や芸能人がかよう進学校として有名だ。駅前のスーパーマーケットひとつとっても、これでもかと高級な食材ばかりが売られている。とにかく格調の高い街だ。
小麦色の焦げた肌に毛皮のハーフコートをはおった女性が、まわりをきょろきょろ見ながら連れの男に顔をむけた。
「ねえ、杉本くん。クリオネちゃんの実家ってどんなところなの?」橘ちなみはブロンドの長い髪をかきあげて、となりを歩く晴夫にたずねた。
「そうだなあ。ひとことでいうと『城』だね」晴夫はそう言って、ちなみがどんな反応を示すか待った。予想どおり、彼女はびっくりして眼をむいた。
「お城 ⁉︎」ちなみは悲鳴のような声をあげて立ち止まった。「なにそれ。城って、大阪城とかのあれ?」
「いやちがうってば。武士じゃないんだから、あはは!ちなみん面白い!」ちなみの天然っぷりに晴夫は笑いをこらえきれなかった。「あ、ごめんごめん。たとえば、ヨーロッパには中世の貴族が住んでた城がたくさんあるじゃん。あれだよ。キャッスルのほう」
晴夫が説明しても、ちなみはポカンとして首をかしげている。セレブで有名人のモデルとはいえ、教養までそなえているとはかぎらない。
「話がむずかしいよ、杉本くん。あ〜ん、クリオネちゃんのおうちはやく見たいなあ」ちなみはジャスミン茶に口をつけて、ふたたび歩きだした。
晴夫は、前回ジェニファーの家を訪れたときの道順をたどっていく。ちなみの先を歩きながら、美形のギャルモデルといっしょなんてラッキーだな、と心の中でニヤついていた。
今日の水戸井家訪問は、杉本晴夫にとって人生最大のイベントになるはずだった。
前回ジェニファーの自宅をたずねたとき、執事の園田から財閥令嬢の悲しい身の上話をきいた晴夫は、彼女のことを守ろうと心に誓ったのだ。
母親を亡くした晴夫は、家族に甘えられない淋しさをいやというほど経験している。だから、ジェニファーの心の扉を少しでもひらいてあげて、人を愛することの喜びを実感してほしかった。
水戸井家の敷地をとりまく、長い塀(へい)と、高く茂った樹木がみえてきた。秋に花を咲かせたアカシアとキンモクセイが、目隠しとなって外からの視線をさえぎっている。
晴夫はちなみと路地を歩きながら、ジェニファーのことで思案にくれていた。
周囲からお姫様あつかいばかりされることで、あいつは人間関係にうんざりしちゃったんだよな、と晴夫はジェニファーの心境を思いやる。心を許せる相手が誰もいないなんて、まだ二十歳なのにきっと傷ついてるはずだ。俺みたいなさえない男に懐(なつ)いてきたのも、きっと、俺が遠慮なしに本音で接しているからなんだろう。
ちょっと生意気だけど、たまに見せる可愛い素顔がギャップ萌えするんだよな。俺は最初に会った時からあいつを気に入ってた。最近になって知ったんだけど、どうやらむこうも俺のことを気にしてるらしい。
家庭環境は天と地ほども差はあるけれど、こんな俺でよければ恋人として大切にしてやりたいな。それに、あんな美形の少女なんてめったにお目にかかれないぞ。あいつとつき合ったら毎日がアニメの世界だよ。天国だあ、えへへ。
愛情とロリコンがごたまぜになって、晴夫はあらぬ想像までうかべてしまった。しかしなにを隠そう、そのかざらない性格こそがジェニファーの心を溶かしていたのだが、晴夫はまだそれを自覚するほど恋愛にたけてはいなかった。
はたして、本日の面会を無事におえることができるのだろうか。
水戸井家の屋敷を警備する、黒いスーツ姿の男性が見えてきた。晴夫は彼に近づいて頭を下げた。警備員は前回の訪問で顔を覚えていたのか、それとも前もって晴夫たちの来訪を知らされていたのか、軽くうなずいてみせた。
「どうぞ」と短い言葉を口にする。
茂みのなかに隠れていた鉄製の大きな扉が、グワングワンと金属の音を立てて開いた。
「え〜っ、なにこれ!映画の中に出てくる刑務所の門みたい!」ちなみは早くもスケールの大きさに圧倒されている。たとえ方が多少ズレてはいるが。
「まだまだ。これで驚いてちゃ先がもたないよ」晴夫は先に門を通りぬけて、屋敷につづく長い道を歩いていく。
「おじゃましま〜す」ちなみは誰もいない庭園にむかって声をかけた。
五分くらい道を進むと、屋敷の本館と別館が見えてきた。コロニアル様式の白と青を基調としたその建物は、晴夫が言うようにまさしく城を思わせる。二つの館の屋根にそびえる塔が目立っているが、これはゴシック建築の特徴である。水戸井家の屋敷は、コロニアル調にゴシック様式を取り入れた独自の設計で作られていたのだ。
自動車用のドライブウェイ(車回し)と呼ばれる円形の道をまわりこんで、本館の正面へと二人は近づいていった。
玄関前の二本の柱のあいだに、黒いタキシードを着た男性と背の低いドレス姿の女の子が立っている。
「おっ、執事の園田さんだ!」晴夫はめざとく見つけると言った。「あれ?クリオネじゃんか。わざわざお出迎えなんてめずらいしな」
「あっ、クリオネちゃん。やっほ〜!」ちなみがうれしそうな声をあげて二人のほうへ飛び跳ねていった。
執事の園田がうやうやしくお辞儀をしたので、ちなみはまず彼にあいさつをした。
「先日はありがとうございました。リムジンに乗せていただいて、すごく楽しかったです」
「とんでもございません。お嬢様の大切なご友人ですから。本日はわざわざお越しいただきありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いしま〜す」
園田は明るい性格のちなみにニッコリと微笑んでみせた。
あいさつを終えたちなみは満面に笑みをうかべると、腰を曲げて大好きな女の子の顔をのぞきこんだ。ジェニファーは態度こそ大きいが背は小さいため、たいていの場合こういう体勢になってしまう。
「クリオネちゃんお久〜。ていうか、そのドレスめっちゃ素敵」と言ってジェニファーをぎゅっと抱きしめた。
「こ、こら、ベタベタするでない」ジェニファーは身体を持ちあげられて、赤ん坊のように足をバタバタさせた。「われは人形ではないぞよ、おろさぬか」
「え〜だって可愛いんだもん!じゃあ、はい」ちなみはジェニファーを開放すると、彼女の全身をながめた。「その服、またどうせ高級ブランドの特注品なんでしょ?お金持ちはすごいなあ〜」
「はしゃぐでない。そなたといると、ギャルとかいう生物の習性がうつってしまいそうだ」とぶっきらぼうに言ったものの、歳の差を気にせず姉妹のように接してくれるちなみに、ジェニファーはすっかりなついていた。「このドレスはブランドものではない。ドイツの貴族の方から寄贈されたものだ。パリコレのデザイナーとやらがあつらえたらしい」
「ちょっと〜マジでどういう世界なの?『やら』って、完全に上から目線だし」ちなみは驚きを通り越してあきれている。「もう、クリオネちゃんといると自分が虫みたいになっちゃうよ。クモの巣に引っかかったチョウチョよね」
「そなた、表現が完全に混乱しておるな。無理するでない。教養がないことがバレるぞよ」
「なにそれ〜。あたしのこと頭空っぽのギャルモデルって思ってるんでしょ」
「ちがうのか?」
「ううん。そのとおり。あはは!」
「まったく世話がないな」
「園田さん。今日もお世話になります」晴夫がやってきて姿勢を正した。執事にむかって深々と頭を下げる。「これ、大丈夫ですかね?あまり着慣れてなくて」と言って晴夫は自分の服を指さした。
今日の訪問のために、晴夫はめったに着ることのないスーツを身につけてきたのだ。このあとに予定されている面談には、いつものカジュアル服をあらためて、失礼のない服装でのぞまなくてはならない。晴夫自身もまた、服に負けない心意気で挑もうと決意していた。
「見ちがえるようでございますよ、杉本さま。ですが心配はご無用です。奥様は気品あふれる知性的なお方ですから、人のあらを探すようなことはされません」園田は晴夫の手を取って、彼の不安をやわらげた。
「ありがとうございます。でも、やっぱり緊張しますね。僕みたいなやつを認めてくれるかどうか…」
「いいえ。お嬢様へのあなたのお気持ちは必ず伝わりますとも。心のままをお話し下されば、それで良いではありませんか」と言って晴夫を勇気づける。
「はい。ジェニファーさんのためなら怖いものはありません。気合いを入れてかんばります!」と晴夫は目を輝かせた。
「では皆さま、参りましょうか」執事は扉を開いて若者たちに呼びかけた。
「じゃあ、みんな入ろう」と晴夫は女の子たちに言う。
「オッケー!」とちなみの返事。
「えらそうに言うな。ここはわれの家だ」ぷいっと顔をそむけてジェニファーは先頭に立った。
「ちぇっ、可愛げのないやつめ」と言いつつも、晴夫の顔は優しさにあふれている。
執事の園田に導びかれて、ジェニファー、晴夫、ちなみの三人は、水戸井家の豪邸に足を踏みいれた。
玄関をぬけると、頭上に高さおよそ十メートルの天井がそびえていた。そこに描かれた絵画は、有名なミケランジェロのシスティナ礼拝堂画を思わせた。ちなみは、この屋敷のあまりのスケールの大きさに、口をポカンと開いたままあっけに取られていた。
天井から床までの壁は、ステンドグラスや彫刻模様に彩られている。まるで教会のようだ。晴夫たちがいるエントランスホールは床一面に真っ赤なシルクの絨毯が敷きつめられていて、正面奥に見えるらせん階段まで続いていた。
左側の壁沿いには大きな木製の扉が三つならんでいて、それぞれが応接間、リビング、食堂につながっている、と執事の園田は説明した。
晴夫はこの屋敷をすでに訪れていたものの、水戸井家の格調の高さにはつくづく感心させられるばかりだった。
俺ってちっぽけな人間なんだなあ、と一瞬ひるんでしまいそうになったが、負けじと気力をふりしぼって立ち直った。財閥だろうがなんだろうが、同じ人間だ。堂々としてりゃいいじゃないか…
「こちらでございます」と執事は言って、いちばん手前の扉を開けた。
三人は園田に連れられて、応接間へ入っていった。
その部屋は奥行きが六メートルの長方形で、真ん中にメープルウッドの大きなテーブルが置かれている。壁ぎわには古くから使われていると思われる暖炉があって、来客を迎えるためにすでに薪(まき)を燃やしてあった。天井の中央からは、シャンデリアがきらびやかな光を落としている。
応接間の奥で、一人の女性が背をむけて、花瓶に生けた白い花を整えていた。花の高さは一メートル近くあり、てっぺんの花びらは女性の頭をこえている。
『胡蝶蘭(こちょうらん)』の大輪、七本立ちで、花言葉は「清純」です、と執事の園田がささやき声で説明する。さらに、英語の花言葉は「ラグジュアリー=高級・豪華」「上品・優雅」で、どちらかと言うと英語の方が水戸井家にはふさわしいでしょう、ともつけ加えた。
解説をすませると、園田は背筋を伸ばして手を前で組み、女性の方へと近づいていった。
「奥様。皆さんいらっしゃいました」と言って、彼はうやうやしく女性にお辞儀をした。
水戸井麗子。〈純粋女学院〉の理事長にして財団法人〈水戸井文化教育グループ〉の会長、それがジェニファーの母親だった。
四十九歳。背丈は157センチとやや小柄ではあるが、発散するオーラが彼女のシルエットをひとまわり大きく見せていた。その端正で理知的な顔立ちは、セレブならではの優雅さにあふれている。
財閥の会長である水戸井麗子は、園田にむかってうなずくと、ゆっくりと振りむいた。その姿に最初に息を飲んだのはちなみだった。
一目で高級ブランドとわかるシルクの薄青色のブラウスと、ボトムには銀色のスパンコールが光る〈ディオール〉のパンタロンパンツを合わせている。髪はアップにして、ふわりとしたウェーブを右に流した上品なスタイルだ。
メイクはプロのアーティストがほどこしたような完璧な仕上がりである。ヒスイのような深い緑の瞳が、切れ長で大きな目の中で輝きを放っている。
ジェニファーの人形のような美形のルックスは、ハーフであることだけでなく、母親からゆずり受けたものであることは間違いなかった。
「園田さん。今日の顔合わせのこと、夫に報告していただけました?」と麗子はたずねた。
「はい、奥様。旦那様はたいそうお喜びで、奥様にすべておまかせになるとおっしゃられていました」と言って、園田は微かな笑みをうかべた。
「そう。ありがとう」と麗子は執事をねぎらった。「カールは元気だって?明後日の帰国が楽しみね。クリスマスの料理、給仕長にとどこおりなく仕込むよう伝えておいて下さいね」
「はい、了解いたしました」
麗子の夫で英国人のコリン・ヘンドリクスンは、ロンドンの大手弁護士事務所〈ターナー&ヘンドリクスン〉の共同経営者である。長男の水戸井カールはその事務所でシニア・アソシエイトという役職で働いており、市内のストラトフォードにあるタウンハウスで父親とともに暮らしている。
カールは、オックスフォード大学のロースクールを経て弁護士の仕事についたので、かれこれ十年近くも日本を離れていることになる。そんな彼の一番の楽しみは、毎年クリスマスに父親と帰国して、母親と妹とともに家族だんらんのひとときを過ごすことだった。
カールとジェニファーの下には、ジャスティンという末の男の子がいる。米国インディアナ州の〈ノートルダム大学〉にアメリカンフットボールでスポーツ留学している彼は、NCAA(全米大学体育協会)も注目する、プロリーグNFLのドラフト有力候補のプレイヤーである。
ジェニファーは、もう長いこと母親の麗子と二人だけで暮らしていた。ところが、麗子は財団と学院理事長の仕事で家をあけることが多く、身のまわりの世話はほとんど執事の園田が仕切っている。
一緒にすごす時間が少ないために、麗子はジェニファーの暮らしぶりにやたらと干渉してくる。大切な娘のために自分がしっかり教育しなくてはならないという焦りが、彼女の母性本能を必要以上に駆り立てるのだ。そのせいで、ジェニファーにはついつい腫れものにさわるような態度になってしまう。
麗子は、礼儀作法から交友関係、学業、女性のたしなみなど、あらゆる面で娘を思いどおりにしなくては気がすまない。水戸井財閥会長婦人としては当たり前といえばそうなのであるが、ジェニファーはそんな母親の熱心さがうっとうしくて、苦痛にさえ感じていた。
そのいっぽうでジェニファーは、望まれた教育水準をはるかにこえ、あらゆる分野で最高レベルの教養を身につけている。知識、芸術、技能に万能なジェニファーは、さしずめ女神アテナの少女版と言ったところか。まさしく才女という名がふさわしい。
なかでも学業は、在籍する〈純粋女学院大学〉でつねにトップ。飛び級で大学院に進むと、文化人類学の研究員にむかえられた。指導する教授からは、研究者として将来を期待されている。
また社交界では、なみいる名家の令嬢たちの憧れの的で、セレブの親たちはジェニファーをぜひ息子の相手にと、ことあるごとに王女のごとくあがめる始末だった。
習い事は、バイオリンからピアノ、バレエ、乗馬など例をあげればキリがないが、彼女はこれらも一流の腕前でこなす。家庭教師たちは上級レベルのレッスンを受けさせようとするのだが、ジェニファーの能力があまりに高すぎて仕事にならないとこぼしている。
さらに、公の場やプライベートを問わずマナーは完璧。海外の晩餐会などでも、あどけなさの残る容姿ながら、上流階級の紳士たちから一目置かれる存在なのだ。
要するに、ジェニファーは正真正銘の名家の令嬢であり、たとえるなら現代版の貴族のような存在なのである。
にもかかわらずジェニファー自身は、そんな形式ばった暮らしや、格式ばかりを重んじる上流階級にうんざりしていた。そればかりか、人間味がなくて中身がからっぽの世界だと軽蔑さえしているのだ。
若干二十歳、多感で純真な少女はくる日もくる日ももがき続けていたが、そこに救世主のごとく現れたのが、いま隣に立っている青年だったのだ。
ふたたび応接間。
麗子は花に触れた手をタオルでぬぐい、髪とブラウスを整えた。そしてテーブルから眼鏡を取って耳にかける。その動作は落ちつきはらって、由緒ある家柄の女主人らしく品の良さと余裕を感じさせた。
晴夫とちなみは、彼女の貫禄に押されぎみである。その場にたちすくんだまま、息を止めてつぎの動きを待った。
麗子はようやく、正面に立つ若者たちに視線をむけた。おだやかな笑みをうかべると、両手をすり合わせて顔を軽くかたむけた。
「本日はようこそわが家へお越しくださいました。どうぞおかけくださいな」手を差しのべて着席をうながした。
晴夫は椅子の背をつかんで、手前に引きよせた。明らかに輸入物とわかるアンティークチェアで、背もたれの優雅な曲線と彫刻が高価な家具であることをあらわしていた。
椅子まで豪華だな、と感心しつつ、晴夫は座りごこちの良さそうなクッションに腰をおろし、背を伸ばして姿勢を正した。
ちなみも同じようにして、毛皮のコートを椅子の背にかけて腰をおろした。ジェニファーの母親とは初対面なので、印象を良くしようと笑顔をふりまいた。上品にふるまったつもりだったが、麗子はそんなちなみに、めずらしい生き物でも見るような視線を注いでいるではないか。
" やば、あたしギャル丸出しじゃん。奥様こっち見てる。こんな人種見たことないよね、ぜったい露出多すぎとか思ってるって!けいべつされちゃうよ〜助けてクリオネちゃん "
ちなみは心の中で悲鳴をあげた。女主人と目を合わせらなくて、部屋の中をチェックするフリをして顔をそむける。すると、そんな彼女にいきなり麗子が声をかけた。
「あなた、お名前は?」と麗子の歌うような声。
「え?」ちなみの顔が凍りつく。あわてて気を取り直した。「はい。橘ちなみです」
「ちなみさん、ね」と穏やか言うと、麗子はいたずらっぽく表情をくずした。「あら、ごめんなさい。つい気になってしまったの。あなたのそのショルダーポーチとっても可愛いらしいけど、どこのブランドなのかしら?」
思いがけない質問をされて、ちなみはびっくりしてしまった。てっきり自分の服装にクレームをつけられると思っていたのに…
" えっ、クリオネちゃんのお母様ってけっこうイケてるのね。マジびびったよ、死ぬかと思った。やっぱギャルは世界共通よね〜 "
「これはHAIGHT(ヘイト)っていうブランドです!いまおシャレな人たちの間で流行っていて、とくにショルダーポーチは海外ブランドより人気があるんです。ヒップホップアーティストのデザイナーが…」とそこまで言いかけて、あわてて口を閉じた。麗子が戸惑った顔になっている。「あ、興味ないですよね、すみません」
「あら、そんなことないわ。どこで売ってるのかしらと思ってね。もし良かったら、あとで教えて下さいな」と言ってから、麗子はジェニファーにも微笑んだ。「ジェニーちゃんも欲しいかしら?」
「お母様、私はもうたくさん持っていますよ。娘をやたらに甘やかさないでください」とジェニファーは冷ややかに言った。
「勘ちがいしないでよジェニーちゃん。若い人のトレンドアイテムを婦人会で自慢するのよ。グッチやシャネルなんてもう古いってね、おほほ」
「お母様、大人げないですよ」
となりで二人のやりとりを見ていたちなみは思った。口喧嘩まで上品だわ〜。
「じゃ、おつぎは殿方ね」麗子の口調が変わった。柔らかい顔が、キリッとひき締まる。「杉本さん、でしたね?」
「はい!初めてお目にかかります。杉本晴夫と申します。お会いできて恐悦至極に存じます」と挨拶しながら、晴夫は席を立って頭を深々と下げた。
ジェニファーの母親との面談に先立って、晴夫は電話で園田から正式な場での作法を教わったのだ。大好きな彼女の前で恥をかかないよう、紳士の礼儀を身につけたかったからである。
とりあえず出だしは乗り切ったけれど、くれぐれも失態を演じないようにしよう、と晴夫は気をひきしめた。
左側で身をよせて座っているジェニファーが、晴夫のスーツのズボンをぎゅっと握りしめている。
心配するな、クリオネ。俺にまかせろ。
「そう固くならないで。リラックスしてお話ししましょう」言葉とは裏腹に、麗子の目は真剣そのものである。彼女は執事のほうへ顔を向けた。「園田さん。しばらく杉本さんと二人にしてくれない?ジェニーちゃんは残ってね」
「承知いたしました」園田は麗子の言葉の意味をさとった。そして、ちなみにそれとなく声をかける。「橘さま。いかがでしょう、屋敷の中をご覧になりませんか。よければ私がご案内いたしますので」
「え、あ、はい。お願いします」ちなみは言葉につまりかけたが、すぐに席を立って園田にうなずいた。去りぎわに、小声で晴夫に言った。
「ファイト!」
ジェニファーを恋人にむかえるため、晴夫にとって人生最大の儀式が幕を開けた。
「さて、今日お越しいただいたのは、ほかならぬ娘のことでごさいますが」
麗子は晴夫にむかって口をひらいた。「園田さんからおおむねうかがいましたけれども、やはりご本人から率直なお気持ちをお聞きしなければなりません。ご了解いただけますでしょうか?」
ジェニファーを思う母親の気持ちは痛いほどわかっているので、晴夫は大きくうなずいた。
「もちろんです。僕もありのままをお伝えするために参りました。どうぞよろしくお願いします」
「それはようございました」麗子は微かに笑みをうかべたが、真剣な目つきは変わらない。
応接間に静かな緊張感が漂った。
二人のやり取りをじっと見つめていた園田は、祈るような気持ちだった。彼は長年ジェニファーの面倒を見てきた、いわば父親代わりのような存在だった。その彼女が生まれてはじめて心を開いた目の前の青年を、どうか奥様が受け入れてくれますように、と。
「杉本さん。うちの娘、いえジェニーとは、どこで知り合ったのかしら?」と麗子がたずねた。
晴夫はその質問におくすることなく、数ヶ月前の夏の出来事をそのまま伝えようと思った。
「新宿のコンピューターショップです。娘さんは学校のお友達と一緒でした」晴夫はジェニファーに初めて会ったときのハプニングを思い出した。「失礼かもしれませんが、初対面の印象は変わった女の子だな、というのが正直な気持ちでした」
「うちの娘が変わった女の子?」と言いながら、麗子は眉を上げた。「どういうことかしら。ジェニーは誰よりもまっとうな教育を受けています。よそ様に対しておかしな態度を取ることはありませんよ」
自分の意見に母親がそう反応することはわかっていたが、晴夫はひるむことなく話を続けた。
「もちろんそれは存じています。ただ、彼女はプライドが高くて、無意識にまわりの人間に対して壁をつくってしまうのではないかと僕は思いました」
晴夫は、下を向き両手をきつく握ったままのジェニファーをちらりと見た。「最初のうち、そんな自尊心の高さの理由がわからず、僕は彼女のことを年下のくせに生意気だな、とさえ思っていました。あ、すみません。ご無礼は承知ですが、どうか話を続けさせてください」
麗子は晴夫の言葉にやや驚いたようだが、気を取り直して続きをうながした。
「ですが何度か会って話をするうちに、そんな彼女の態度は、自分の中にある淋しさや、まわりの人たちには自分の本心が理解できないという、ある意味あきらめに近い感情からくるものではないかと思うようになったのです」
長年しっかりと育ててきた自負がある麗子は、気づくことさえなかった娘の話に、意表をつかれてしまった。
「では、ジェニーは今の暮らしに満足していない、ということですか?」と言う口調には戸惑いがあらわれていた。「そんなはずありませんわ。ねえ、ジェニーちゃん。あなたはよくできた娘よ。私の自慢だもの」
麗子は晴夫の言うことがよく理解できず、ジェニファーに顔をむけて問いただした。と、そのとき目にしたことが彼女の心を激しく揺さぶることになったのだ。
いとおしい愛娘の目から、大粒の涙がこぼれ落ちている。ジェニファーはそれを隠そうともしなかった。こんな悲しみにくれた娘の姿をただの一度さえ見たことのない麗子は、ふだんの落ちつきを失ってうろたえた。
「ジェニーちゃん、どうしたの!ごめんなさい、お母さんのせい?ああ、どうしましょう…」
「大丈夫です、お母様」と晴夫はキッパリと言った。「二十歳の女の子が泣くことなんて、べつにめずらしいことでありません。それよりも、こうして自分の感情を素直にあらわすのは、彼女が心を開いたからでは?それってすごく素敵なことだと思いませんか。僕は、そんな彼女がとても幸せなのだと思います。
生意気なことを言うようですが、この数ヶ月でジェニファーさんは変わりました。自分の殻を破った彼女は、とても純粋で、ある意味ふつうの女の子でした。僕は、そんな彼女に少しずつ惹かれていきました。そして、彼女も同じ思いだということに、最近になってようやく気づいたのです」
晴夫はジェニファーの前で、自信と誇りをもって思いのたけを打ち明けた。一気に話したことで、心臓が暴れていた。うわあ、言っちゃったよおれ、と心配でもあったけれど…でも、自分が恋している年下の令嬢の本心を、なんとしても母親に伝えたかったのだ。
その横で、ジェニファーが晴夫の顔を見あげていた。うれしくて、幸せで、胸がいっぱい。そんな表情だった。二人は一瞬見つめ合って、お互いの手を握った。
少し前に、二階でちなみを案内していた執事の園田は、応接間に戻っていた。
壁ぎわに立って晴夫の話を聞いていた彼は、正直いって驚きを隠せなかった。ジェニファーの心を開いたこの青年が、奥様との面談で勇気ある態度を示すだろうことは予想していた。それでも、ここまで堂々として、財閥の会長夫人に自分の意見を言い放つとは、考えてもみなかったのだ。
その立派で清々しい姿に、園田は関心を通りこして感動すらおぼえてしまった。若干二十六歳の若者が、なんとあっぱれなことだろう。私の見立ては間違っていなかった。この青年こそ、お嬢様のお相手にふさわしい方だ。家柄や育ちなどさしたる問題ではない。旦那様もきっとお許しくださるだろう。なによりも人柄を重んじることは、あのお方のビジネスでも証明されている。あとは奥様のお心しだい。どうか杉本さまの思いが通じますように…
「そう。そうね。じつを言うと、私もここ数年の娘の様子には心を痛めていました。でも、あなたのおっしゃるようなことは、まったく考えてもみなかったわ」麗子はそう言いながら両手を顔にあて、しばらく口をつぐんでいた。そして、ふたたび話し始めたときには、それまでと明らかに違う表情になっていた。「ひとつ聞きたいの。杉本さん、あなたは娘のお相手として、この子になにをしてあげられますか?」
その質問が、お金のことなのか、裕福な暮らしなのか、または将来の暮らしのことなのか、晴夫にはわからなかった。しかし、ジェニファーに対して自分が捧げられるものはたった一つだ、と確信していたのだ。
「とくにありません。なにかと言われれば、僕はふつうのおつき合いを望みます。もちろん、僕の家とジェニファーさんの家柄が天地ほども違うこともわかっています。僕の実家は、新宿の楽器店です。ようするに商売人です。たぶん僕が跡をつぐでしょう。ちなみに、母親は亡くなりました。けれど、僕は店の仕事に誇りをもっていますし、頼りにしてくれるミュージシャンもおおぜいいます。
というわけで、ジェニファーさんには財産も、高級住宅も、裕福な生活も与えることはできません。でも、一つだけお約束します。僕はこの命にかえてでも、娘さんを守ります。彼女を悲しませることは絶対にありません。彼女を幸せにできるのは、この世で僕しかいないという自信があります。
僕がお伝えしたいことは以上です。それでも交際を許されないのであれば、キッパリ身を引きます。お母様の反対にそむいてつき合いたいとは、いっさい考えていません」
晴夫は言い終えると、口を固くひき締めて立ち上がった。そして、麗子に対して深々と礼をする。
晴夫の決意を見届けた園田は、その顔を麗子に向けた。彼女が口を開くのを待った。
晴夫の横で自分の好きな彼をじっと見ていたジェニファーも、母親を見た。
応接間がしんと静まりかえっている。
そして、麗子が口を開いた。
「あなた、とても立派な方ね。近ごろでは富や名声ばかりを追いかける殿方ばかりなのに、見上げたふるまいだわ」と言うと、麗子は椅子に背をあずけてリラックスした様子になった。「正直いって、ジェニーちゃんに近づいてくるなら、うちの家柄が目的ではないかと疑っていたの。私の言いたいことわかるでしょ?でもね、私の望むことは娘の幸せだけよ。ジェニーちゃんが認めたなら、それは間違いではないでしょう。この子はまだ幼いところもあるけれど、自分にふさわしいお相手を見極めるだけの分別はあります。その点は私も心配はしておりません。あなたが娘を守って、幸せにしてくださるというのなら、それを断る理由はないわ」
麗子の言葉を聞いて、晴夫は全身から一気に力が抜けた。まだ信じられない気持ちもあった。
マジかよ、ほんとに許してもらえたのか…晴夫は急に心細くなってしまった。たったいま、財閥の会長夫人に正面からぶつかった自分が他人のように思えてきたのだ。ヤバい、おれ震えてる…
執事の園田は、顔にこそ出さなかったが、数十年ぶりに心が満たされた気持ちになっていた。もちろん、まだ解決しなければならない課題はあるだろうけれど、それはゆっくり時間をかけて解決していけばいい。いまはお嬢様の願いが届いただけでじゅうぶんではないか。ほんとうにお世話をしてきたかいがあった。
麗子が話を続けた。
「とはいっても、娘はまだ二十歳ですから、これから覚えなければならないことも学ばなければならないことも、たくさんあります。それはわかっていただけますね、杉本さん?」麗子は、冷静さと温かみの混ざった口調で晴夫に問いかけた。というより、確認した。
「もちろんです。お嬢様の将来を邪魔するつもりはありません」と晴夫は答えた。
「けれど、それはあくまでたしなみの問題。大切なのはこの子の心の安らぎです。たしかに家柄の違いはあるけれども、それはなんとかなるわ。クリスマスに夫が帰国するので、そのときに話し合ってみます」麗子は愛娘の問題に良い結論が出て、すっかり機嫌をよくしていた。「こんど、あなたのお父様をお招きしてお食事でもいたしましょう。気に入っていただけるといいけど」
気にいるかって…親父ぶっ倒れるぞ!晴夫は頭の中で、この豪邸で親子で招待されるときの風景をイメージした。まずは服装だな。親父のやつ野暮ったいから、ちゃんとした身なりさせなきゃ。あと、礼儀作法も…おっといけない。うろたえるな晴夫。
「承知しました。ご配慮いただき感謝します」と晴夫は礼を言う。
「では、このへんでお話はおしまいにしましょうか」と言って、麗子は立ち上がった。「園田さん。杉本さんたちを送ってさしあげててくださいな」
「承知したしました、奥様」と園田。
「ジェニーちゃん、良かったわね。彼を大切にしなさい」と言って、麗子は応接間を出ていった。
「クリオネ、大丈夫か?」晴夫は椅子から立ち上がりながら、ジェニファーの手を取った。
「うん。あの…ありがとう…」ジェニファーは頬をピンク色に染めて、恥ずかしそうにうつむいている。
「なんだよ、おまえらしくないぞ。いつもの調子でいこうよ。はいはい、立って」
「じゃじゃ〜ん!やったね!」
いつの間にか、ちなみが戻っていた。晴夫たちが仲むつまじくしている姿を見て、すっかり盛りあがっている。
「お話は聞けなかったけど、杉本くんってほんとすごい。クリオネちゃんは幸せよねえ〜。これからは堂々とイチャイチャできるじゃん。あたしもこんな白馬の騎士みたいな彼氏欲しいなあ」
「こら、からかうでない。われと正式につき合えるとは、こいつもつくづく幸せものであるぞよ」とジェニファーがいつものお姫様に戻って言った。
「ほらほら、照れちゃってえ。可愛い〜」
「おっ、その調子だ。そうこなくちゃおまえらしくないぞ、クリオネ」晴夫も笑っている。そして、こちらを見て微笑んでいる園田にむかって親指を立てた。やりましたよ…
それから晴夫とジェニファー、ちなみの三人は、園田につきそわれて玄関を出た。晴夫は園田に晴々とした顔をむけている。そして言った。
「今日はほんとうにありがとうございました。園田さんの励ましがあって、なんとか乗り切ることができました」
「なにを言われます。すべてあなたのお力ですよ杉本さま。私はもう胸がいっぱいで。お嬢様が幸せになられることを思うと…」園田は言葉につまって、思わず目頭をおさえた。
「園田、おおげさであるぞよ。泣くでない」と言いながら、ジェニファーは晴夫のそばで彼の顔をうれしそうに見あげていた。
「とにかく、めでたしめでたしよね〜。来てよかったあ。クリオネちゃんの部屋も…あっ、なんでもない」
「ん、今なんと申した?」ジェニファーはちなみを不審げに見た。「そなた、まさか…われの寝室に入ったのか!」
「あっ、そうじゃなくて〜」
「こら、園田!そなた許さぬぞ!」
「まあまあ、お嬢様。そう目くじらを立てなくてもよろしいではありませんか。今日はめでたい日ですので」
「いいじゃんかクリオネ。ちなみんは女の子なんだから気にするなよ」と言って、晴夫はぷんぷん怒っている恋人の顔をのぞきこむ。「ま、そういうところが可愛いんだけどな〜」
「な、なんだ皆んなして。くそ!」
「クリオネちゃ〜ん。汚い言葉使わないの!」とちなみもジェニファーをからかった。
まあ、とにもかくにも、晴夫の重大イベントは無事にハッピーエンドをむかえた。
「では、お気をつけて。お嬢様は、もちろん駅までご一緒に行かれるのですね。あとでお迎えにあがります」園田は笑顔で三人を見送った。
ジェニファーは晴夫の腕につかまって、頭を彼の肩によせていた。それを見てちなみが冷やかしている。
三人はワイワイ騒ぎながら水戸井家の屋敷をあとにして、成城学園前の駅へと歩いていった。
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