第44話作戦決行の日

世田谷区成城の自宅の部屋で、水戸井ジェニファーは制服から〈ジェラール・ピケ〉の部屋着に着替えていた。おさげにしていた金髪をおろして、乾いたコンタクトレンズに目薬をさした。


大学は午前中だけの授業で、今は午後十二時五十分。ジェニファーは携帯を手に取ると、ベッドに仰向けになって今日の予定を頭に思いうかべていた。


昨日、モデルの橘ちなみから電話があった。前に二人で相談していた、田中ことみと高城ダニエルの仲を取りもつ話のことだった。


高城の家のホームパーティーで、元恋人の綾波カレンが「フィアンセ」発言をして以来、ことみは高城にいっさい連絡を取らなくなってしまったらしい。杉本晴夫からそれとなく聞いたその話を、ジェニファーはちなみに告げたのだ。


この出来事の真相は、カレンのプライドのせいであって、高城は彼女に何の恋心も抱いていなかった。ところが、ことみは彼に婚約者がいたと信じこんでしまった。そんな誤解によるすれ違いが、二人の間に壁をつくってしまったのだった。


この悲しいハプニングを何とかして解決してあげたいのだが、いかんせんジェニファーは超のつく令嬢のために恋愛にうとく、それでちなみに相談してみたのだ。

ふだんから高城を尊敬して慕っているちなみは、彼がことみに連絡を取れなくなってしまったことに心を痛めていたので、そんなジェニファーの相談にすぐに乗ってきた。


ちなみは、ジェニファーと二人で作戦を考えた。それは、ことみと高城を引き合わせて、じっくり話をさせてあげるためだった。

もともと異性のことでは気弱なことみが、今回のことで恋をあきらめてしまっては、あまりにも悲しすぎる。

高城のほうもことみを大切な人と思っているだけに、ちなみは、二人のすれ違いを黙って見ていることができなかったのだ。


ジェニファーとちなみは、それぞれがことみと高城に連絡して、特にことみには、相手が来るとは知らせないで呼び出すことにしようと考えた。

場所を決めて、先に高城を来させる。そしてあとからことみが来て、二人でよく話し合う。

遠慮がちな性格の二人ではたぶん話がまとまらないだろうから、ジェニファーとちなみが同席して助けてあげればうまくいくのではないか。それが今回の作戦だった。


やや短絡的な計画に思えなくもないが、ジェニファーは恋愛ベタ、ちなみはやや天然であまり深く考えないタチなので、それでいこう、ということで話がまとまったのだ。


作戦実行は、今日の夕方だ。

すでにジェニファーは、ラインでさんざん苦労したすえに、ことみから約束をとりつけていた。

いっぽうちなみは、仕事の話もかねて食事でもしようといって誘ったうえで、ことみのことをそれとなくほのめかして、高城に会うことになった。


何とか二人を誘い出すことに成功すると、ジェニファーとちなみは作戦現場(?)を新宿に決めた。

はじめは、ちなみのよく知る渋谷の隠れ家カフェにするつもりだったのだが、ことみの住む高円寺から新宿で山手線に乗り換えるとなると、ただでさえ引きこもっていることみが尻込みする可能性があるので、あえて混雑する新宿を選んだのだ。


ジェニファーはベッドから起き上がると、ラインでちなみに電話をかけた。なかなか出ないので、雑貨用の棚の上にならべてあるバーチャルアイドルの「ユメノココロ」のぬいぐるみを手に取って遊びはじめた。


「はい、まいど〜!ココロちゃん元気でちゅかあ〜。ジェニファーでちゅう〜」と甘え言葉で手足を動かしていると、ようやく電話がつながった。

「はい、もしもし」聞きなれない女性の声。

「だれでちゅかあ〜?」ジェニファーはぬいぐるみで遊びながらたずねた。

「はい?」

「あっ、すまぬすまぬ。ところで、そなたは何者だ?」ジェニファーは、かなり年上と思える女性にたずねた。

「わたくし、橘ちなみのマネージャーですが、そちら様は?」女性は相手の妙な口調に戸惑っている。

「われは水戸井ジェニファーと申す。ちなみどのとこれから会う約束をしておるのだ。はよう代わってたもれ」完全な命令口調で女性マネージャーに言った。

「申しわけありませんが、橘はただいま立て込んでおりまして。良ければのちほど折り返させますので‥」

「良くない。われはそなたには用がない。早くつなげ」ジェニファーはマネージャーの言葉を無視して言い、相変わらずぬいぐるみで遊び続ける。

" 何なのこの子、失礼しちゃうわね "と電話の向こうでブツブツと文句を言う声がかすかに聞こえる。

「わかりました。少々お待ちください」と不満そうな声。

「少々は待てぬ。すぐにしろ」ジェニファーは言い捨てた。


" あーもう、近頃の若い子は‥ "

女性は再びつぶやいたあと、携帯を置いて離れていった。スピーカーから、電話のむこうの様子が聴こえる。

何やら騒がしい。複数の男性が大きな声を張り上げて、若い女性がそれに返事をしているようだ。パシャッパシャッとカメラの音も聞こえる。

さきほどの女性が声を上げると、騒音がやんだ。すると若い女性が「はい、休憩入りま〜す!」と叫ぶ。これはハッキリと聞こえた。


それから三十秒ほどすると、携帯を取り上げる音がして、ようやく橘ちなみが電話に出た。

「もしもし、クリオネちゃん?待たせてごめんねー。あ〜暑い」と言って、飲み物を飲む音。

「あまり待たせるでない。ところで何やら騒がしいが、そなた何をしておるのだ?」ジェニファーは素朴な質問をぶつけた。

「もう、許してよー」と言いながらも、ちなみは含み笑いをしている。「いま雑誌のグラビア撮影してるところだったの。クリオネちゃんは、もう学校から帰ったの?」とちなみが問い返す。

「グラビア?ははあ、さてはビキニで肌をあらわにして、はしたない格好をしておるのだな。ご両親が嘆くぞよ」

「えーっ。ヌードじゃないんだからやめてよー、あはは!」ちなみはジェニファーの言うことに悪意がないことを知っているので、笑って聞き流した。「それより、クリオネちゃん夕方のことで電話したんでしょ?」

「そのとおりだ。そなた、忙しいようだが大丈夫なのか?」

「うん。撮影はあと一時間ちょっとで終わるから」とちなみが言う背後で、" 橘さーん、始めますよ! "という声があがった。「あ、ごめん。そろそろ戻らなきゃ。待ち合わせの場所だけど、どこにする?」

「どこでもかまわぬ。指定してくれれば、われが執事に言って向かわせてしんぜよう」ジェニファーは当たり前のように答える。

「ひゃあ、相変わらずね〜。ご令嬢様は違うなあ。わかった。渋谷のマルキューの近くで午後四時でどう?」とちなみ。

「ん?マルキューとは何ぞや?」

「あ、そっか。知るわけないよね。まっ、いいや。あとでラインに住所送っておくから。じゃねー」

「うむ。苦しゅうない」と言って、ジェニファーは電話を切った。


二人のプランでは、午後五時に新宿駅南口から徒歩五分のところにあるレストランで、高城ダニエルと田中ことみと四人で集まることになっていた。

もちろん、ことみには高城が来ることは伝えていない。世情にうといジェニファーは、あの手この手で苦労したあげく、やっとのことでことみを誘い出すことに成功したのだ。

いっぽうちなみは、高城にことみが来ることをそれとなく匂わせたが、ジェニファーとの作戦を明かそうとはしなかった。つまり彼らのヨリを戻させるのではなく、あくまで久しぶりにみんなで食事でもしようという誘いである。


ジェニファーはラインの電話を切ると、続けて自宅専用の固定電話を取り上げて短縮番号を押した。

「はい、お嬢様」と執事の園田が答えた。

「のちほど外出する。長くなるから、予定を開けておいてたもれ」とジェニファーが言う。

「ご予定のお時間は?」

「三時から、そうであるな‥とりあえず二時間、いや戻る時間があるから三時間だな」とジェニファーは園田に説明した。

「承知いたしました」

「あっ、これはお母様には内緒であるぞ。夜に外出すると、またガミガミ言われるからな」と釘をさす。

「了解いたしました」と答える園田は、小さくクスクスと笑っている。

「なんだ。まさか告げ口する気ではあるまいな?」

「いえいえ、とんでもございません。むしろ、お嬢様が活発でいらっしゃるので、嬉しい限りでございます」

「あやしいな。まあいい。よろしく頼む」と言ってジェニファーは受話器を置いた。


さあて。今日はどんな服を着ていこうかなあ〜。


ジェニファーは立ち上がると、ドレスルームの大きな扉を開いた。ワンルームマンションの部屋ほども広さのあるクローゼットは、数百着の洋服と百足以上の靴で埋まっている。

「ココロちゃんは何がちゅきでちゅかー。ワンピーチュ、それともドレチュ?」相変わらず甘え言葉でぬいぐるみに語りかけながら、高級ブランドの服に手を触れていく。

「んー、これかしら‥」


ジェニファーは、シルバーとエメラルドブルーの大きな格子柄の服を手に取った。ドイツ出身のデザイナー《ジルサンダー》の高級ブランド・ワンピースだ。すそ丈はくるぶしあたりまであり、ドレスに見えなくもない。一着二十万円以上するが、ジェニファーにとっては数あるアイテムのひとつにすぎない。


「ん、待て待て。今日はことみどのが主役であるな。もっと控えめな方がよいか?」

ジェニファーは格子柄のワンピースをハンガーラックに戻すと、隣の列に回った。

こんどは、グレーの花や蝶をあしらったトロピカルデザインのミディワンピース。有名ブランド《ディオール》の特注品で、いちいち説明するのも何だがこちらは五十万円以上する。さらにジェニファーは身長が低いので、どの服も直接メーカーに特注するために、ただでさえ高価な服がさらに高くなる。

「うむ。これでよき」とジェニファーはうなずく。「ココロちゃんこれに決めまちたあ〜、てへへ」と言ってぬいぐるみの頭をなでる。

靴、ピアス、ブレスレットも、ディオールのおそろいにした。バッグは最近お気に入りの《サドル》のヘビ皮模様。


今日のコーデが決まると、それをベッドにならべておき、出かける時間まで大学の研究課題に取り組むことにした。


ジェニファーの専攻は社会心理学だ。

" 現代のソーシャルメディアが世代別の個人行動におよぼす影響 " というテーマに取り組んでいる。研究室の教授からは、彼女は将来を期待される人材としてトップクラスの指導を受けており、財団の学会員に選ばれることも約束されていた。

だが、ジェニファーにとってそれは、母親がのぞむ「令嬢のたしなみ」のひとつにすぎない。高いレベルの教養を身につけることは、水戸井家の長女としての義務なのだ。

" 本当は「アイドル学」でも勉強したいんだけどなあ〜 " などとふだんから不平をこぼしているけれども、これも財閥令嬢としての宿命だから仕方がない。


一時間ほど作業を続け、パソコンの統計分析ソフト〈IBM SPSS〉のグラフィックデータを作成していると、着信音が鳴った。ジェニファーはマウスの手を止めず、空いている方の手で携帯を取り上げた。

「もしもし、クリオネちゃん?」ちなみからだった。「撮影終わって家に帰ったよー。待ち合わせの住所ラインで送ったから。これからシャワー浴びて、ヘアメイクしたら準備するね」

「うむ。承知した」とジェニファーは画面を見ながら、空返事をする。

「いまなにやってるの?」ちなみが聞いてきた。

「研究室の論文を作成しておる」またまた素っ気ない返事。

「なにそれ!」とちなみは驚いている。「クリオネちゃんてお金持ちだけじゃなくて、頭もいいんだ。どれだけお嬢様なのよ!」

「騒ぐほどのことではない。住所は執事にグーグルマップで検索させておく。それではのちほど」と言ってジェニファーは会話を終えようとした。

「あ、ちょっと待ってよー。もっとお話したいのに」ちなみが不満そうに言った。

「すまぬ。いま忙しいのだ。ではのちほど、マルキューとやらのそばで会おう」ジェニファーは電話を切った。


純心女学院大学でトップの成績を誇るジェニファーは、学業に取り組み始めると異常なまでの集中力を発揮する。なので、電話の向こうで不平をこぼしているに違いないちなみのことは、まったく気にもかけない。

こういう人との接し方が自分をまわりから孤立させている原因の一つなのだが、本人はそのことにまったく気がついていない。とはいえまだ二十歳なのだから、責めるのも酷な話なのではあるが。



マウスを動かしながら腕時計を見ると、午後二時半になっていた。そろそろ外出の時間だ。

チャートとテキストデータをファイルに保存すると、パソコンを閉じて、ジェニファーは椅子から立ち上がった。そして電話を取る。

「園田。三時すぎに出かける。シャワーを浴びて着替えたら降りていくので、用意しておいてたもれ」

「はいお嬢様。承知いたしました」と執事はうやうやしく答えた。


その頃、渋谷から田園都市線でひと駅の池尻大橋に住む橘ちなみは、ベッドルームのドレッサーの前でメイクの最中だった。

肌の仕上げを終えて、最後にアイメイクを施しているところだ。アイライナーを引きながら、鏡に向かってちなみはブツブツこぼしていた。

" もー、クリオネちゃんたら冷たいんだから。見た目はお人形さんみたいなのに、めっちゃクールだし。あたしのほうが年下みたいじゃん!"

ちなみはおっとりして誰にでも優しい性格なので、ジェニファーの上から目線な態度にときどき戸惑うことがある。それでも、やはり彼女が怒ることはない。

" ま、いっか。可愛いから許しちゃおっと。あの子って、たまに乙女なところが出るし。ギャップ萌えしちゃうのよねー "


準備ができた。

鏡でもう一度ヘアスタイルをチェックすると、クローゼットから今日のコーデを選んだ。

トップスには、トレードマークの肩出しショートニット。ピアスで飾ったおへそを出すのがちなみ流ファッションのお約束だ。色はモスグリーン。

ボトムはアディダスのフレアパンツ。白地に黒の三本ラインが入ったコントラストが、シックな色のトップスを引き立てる。

足元はシャネルのハイソールスニーカー。キラキラ光るスワロフスキーでロゴデザインをあしらっている。

寒くなった時のために、サイズオーバーの白いパーカーを持っていく。そして、最後にバレンシアーガのキャップで決まり。


いま何時‥三時十五分。

渋谷まで余裕だけれど、ちょっと早めで行こうかな。それじゃ携帯でタクシーの予約、と。クリオネちゃん待つ間、マルキューでショップ見ててもいいし。


ちなみは水色のショルダーポーチを肩にかけて、鍵とミネラルウォーターのペットボトルを持って玄関へ‥

「あっ、しまった。スマホスマホ!」あわててベッドルームへ引き返すと、ドレッサーの上に置いてあったiPhoneを取り上げてポーチにしまった。

ちなみはやや天然な性格なので、ちょくちょく忘れ物をすることがあるのだ。ほかにはないよね‥と確認して、再び玄関に行き、部屋を出た。


外は十月なのに、気温十度の寒さ。それでもパーカーは着ない。日焼けした肌が売りのギャルモデルだから、夏の格好のイメージはくずさない。それに、マンションの前からタクシーに乗るので気にする必要もない。

ワイヤレスイヤホンでEDMを聴きながら、ちなみはエレベーターで一階へ降りていった。


ちなみがマンションを出た頃、ジェニファーが乗るロールスロイスのリムジンが、世田谷区砧(きぬた)から首都高速3号線に乗って渋谷へ向かっていた。

平日の夕方前とあって、まわりには数多くの車が飛び交っていた。東名高速道路の終点の用賀インターから都心へ流れてくるルートの3号線は、ふだんから混雑する高速として有名だ。


「園田。聞きたいことがある」携帯でYouTubeの画面を見ながら、ジェニファーは運転中の執事に声をかけた。

「はい。何でございましょう?」

「今年のクリスマスのことなのだが‥」と言いかけたところで、園田がジェニファーの言いたいことを察知した。

「お父様のことでございますね?」心配気な声で言った。

「まだ何も言ってなかろうが。最後まで聞け」とジェニファー。

「はいはい。失礼いたしました」

「はいは一回でいい」

「はいお嬢様」

「お父様と兄上は、今年も帰ってくるのか?」と言うジェニファーの声は、心なしかさびしそうだ。

「ご安心くださいお嬢様。ロンドンの事務所もクリスマスはお仕事が少ないようで、三泊五日のご予定で帰国するそうです」園田は明るい声で言った。

「で、カイルは?大学のフットボールで忙しいのか」とジェニファー。

カイルは三人兄弟の末っ子、ジェニファーの弟だ。アメリカンフットボールの名門、ノートルダム大学の一軍で活躍しており、プロリーグNFLからドラフト指名候補として名前があがっている。

「はい。残念ながら、カイル様はご試合がありますようで。何でもプロチームのセインツという球団と、クリスマスのエキシビションマッチでニューオーリンズに遠征に出られるそうです」

「ふーん、そうか。あやつも能天気であるな。肉体ばかり発達しておるが、頭は空っぽだ。くそマッチョめ!」ジェニファーは巨体の弟の姿を思い出していた。

「お嬢様、そのようなお下品なお言葉、奥様に聞かれたら卒倒なさいますよ」と園田が思わずうろたえた。

「そなたが告げ口しなければ問題ない。ん?まさかこのようなことまで報告しておるのか?」ジェニファーはリムジンのロングシートから立ち上がって、運転席につながる窓に顔を近づけた。

「いえいえ、めっそうもございません。お嬢様のプライバシーは、私がしっかりとお守りいたします。まあ、許される範囲の話でございますが‥」

「そうか。ならいい」ジェニファーはシートに座り直してYouTubeの続きを見た。


「そろそろ渋谷に到着いたします」園田が後部ラグジュアリールームに呼びかけた。「ナビによりますと、出口をおりると道玄坂上に出て、坂を下ったところがイチ‥えー『イチマルキュー』というショッピングビルのようでございます」と園田は説明した。

「承知した」と返事をすると、ジェニファーはYouTubeを閉じてラインの電話アイコンを押す。

三回目のコールでつながった。

「もしもしクリオネちゃん?」ちなみの声だ。

「待たせたな。あと‥あ〜五分ほどで到着である。そなたはどこにおるのだ?」ジェニファーはたずねた。

「いまマルキューにいるよ。下におりるねー」とちなみ。

「車はどこに止めればよいのだ?」

「マルキューの前でいいんじゃない。あっ、そっか!クリオネちゃんの車ってリムジンだよね?う〜ん、それだと難しいかなあ」少しの間。「じゃあね、マルキューの前に信号があるから、そこでうまく車を止めてくれる?あたしそこで待ってるから、来たらすぐに乗るから」

「ややこしいが、まあいい。執事に伝えておく。ではのちほど会おう」と言って電話を切ると、話の内容を園田に伝える。


「お待たせー!」

明るい声をあげて、ちなみがリムジンに乗り込んできた。スライドドアが自動で閉まって、リムジンはすぐに発車した。

「へえ。クリオネちゃんていつもこんな車に乗って学校とか行ってるんだ。すごいね〜」ちなみは広いラグジュアリースペースを見回した。それからジェニファーの服装に見入った。「そのワンピースってどこの?めっちゃ可愛い!」

「ディオールのオーダーメイドだ。それより‥」ジェニファーは言いかけた。

「え〜っ、特注品なら何十万もするんじゃない?ちょっと触らせて」と言って、ちなみはワンピースの裾の生地をつまんだ。腿、肩、ウェスト、身体じゅうをチェックする。「うわあサラサラ。さすが超高級ブランドは違うわね」

「こ、こら!くすぐったい、よさぬか‥」

「お肌も透き通るように綺麗だし、やっぱ若いっていいなあ〜」と言って、ちなみはジェニファーの頬をなでる。

「きゃあ〜!」とジェニファー。

「あはは!」ちなみは笑っている。

リムジンの中で、二人は小学生のようにじゃれあって転げ回った。

「あー、おかしい。あ、ところでレストランの住所だけど」ちなみは急にわれに返って携帯を取り出した。「えーと、これこれ。《La Grace(ラ・グラース)》ね」

「 " 神の恩恵 "であるな。なかなか良き名前だ」と、ジェニファーは店名の意味を教えた。「それにしても、そなた悪ふざけがすぎるぞよ。おなごはもっと上品にふるまわねば‥」

「へえ、クリオネちゃんて教養あるなあ〜。美少女、御令嬢、お金持ち、頭いい。完璧じゃん。不公平だよ、ふん!」と言ってちなみは顔をそむけた。「なーんちゃって。可愛いから許してあげる。あはは」

「馬の耳に念仏とはこのことであるな」ジェニファーはあきれている。「ギャルとかいう種族はみなこうなのか?下等生物め」

「何それ。年上なんだからもっとうやまってよ〜」とちなみ。

「あー、園田。目的地の住所はであるな‥」ジェニファーはちなみを無視して執事に告げた。

「承知いたしました。お嬢様」と園田は返す。


リムジンは明治通りを走って新宿をめざしている。交通量はそれほど多くもなく、スムーズに進んでいた。


「ところで、ダニエルどのは何時ごろに参るのだ?」ジェニファーはこのあとの予定についてたずねた。

「あたしたちは四時半ごろに店に着く予定だけど、健二くんには十五分あとくらいでって言ってあるよ」とちなみが答える。「クリオネちゃんは、メダカちゃんに何時って言ってあるの?彼女、ほんとに来るのかなあ」

「五時だ。約束はしておるが、たしかに不安ではあるな」ジェニファーは心配げな表情をうかべている。「何度もくどいてやっと了承させたのだ。もちろん、ただの食事会と言ってな。もしダニエルどのが来ると知れたら、まず来ぬであろうな」

「健二くんにはいちおうメダカちゃんが来るかもって言ったんだけど、うまくいくかなあ」

「考えてもしかたあるまい。あとは流れにまかせるべきだ」とジェニファー。

「え〜っ。クリオネちゃんがそんな適当なこと言うなんて珍しい」ちなみはジェニファーの投げやりな態度に驚いている。

「われにも予想がつかぬのだ。男女の恋心というのは、まことに不可解であるな。わずらわしいことこのうえない」


「お嬢様。まもなく目的地に到着いたします」と園田が運転席から告げた。「お店近くの道はこの車では入れませんので、大通りの紀伊國屋書店の前でおろさせていただきます。よろしいでしょうか?」

車は新宿三丁目の交差点を左折して、新宿通りに入った。

「かまわぬ。そなたはどうするのだ?われらは二時間ほどかかるが」とジェニファーは問いかけた。

「大丈夫でございます。地下の大駐車場で止める場所を見つけますので。お嬢様たちはごゆっくりなさってくださいませ」と園田は言った。「ご予定が終わりましたらお電話ください。お迎えにあがります」

「うむ。苦しゅうない」とジェニファーが答えると、リムジンが速度を落として道路のわきに止まった。

ドアが開いて、ジェニファーとちなみは車から出た。

「ありがとうございました!」ちなみは園田に礼を言い、頭を下げた。

「とんでもございません」園田が答えると、リムジンは大通りの流れに戻っていった。


新宿通り沿いの歩道を少し歩いたところで、交差点の歩行者信号が青になると、二人は通りの向かい側にわたった。

二人は、紀伊國屋書店の左にある区役所通りを進んだ。四分くらい歩いて路地を右に曲がる。少し歩いたところに、トリコロールカラーの《ラ・グラース》と書かれた看板が見えた。


「ここだよ。さ、入ろう」と言って、ちなみは店の扉を開けた。

「うむ。狭苦しい店であるな」と文句を言ってジェニファーも続いた。

《ラ・グラース》の店内には、テーブル席が九つある。壁や天井、照明などは曲線的な装飾デザインのインテリアで、ところどころに絵画の額縁がかけてあった。


「いらっしゃいませ!」と店員が迎えると、二人をみちびいて壁際の席に案内した。席につくと、メニューをテーブルに置いた。

「お飲み物はいかがなさいますか?」と注文をとる。

「わたしは赤ワイン」とちなみ。

「われはシャンパンだ。〈クリュッグ〉はあるか?」ジェニファーは店員を見上げて言う。

すると、店員がびっくりした様子でジェニファーの顔を見つめる。

「あのう、お客様。未成年の方にはお酒は‥」申しわけなさそうに言う。

「うつけもの。われは二十歳だ」と言って、ジェニファーは身分証明証をバッグから取り出して、店員に渡した。

その女性はカードケースを開いてしげしげと見てから、あっと驚いた。

「これはお客様、大変失礼いたしました!何しろあまりにもお若くいらっしゃいますので‥」


口ごもる店員を制してジェニファーはケースをひったくった。

「言いわけはいらぬ。早く‥」と言いかけたところで、ふと壁の絵画が目に入った。「ん?これはアルフォンソ・ミュシャの『ジスモンダ』であるな?ふむ、そういえばインテリアもアール・ヌーヴォー調か。なかなかセンスが良いな」

「クリオネちゃん、それってなあに」と、ちなみはさっぱり話がわからなくて首を傾けている。

店員の女性がパッと笑顔を浮かべた。「お客様、よくご存じで!当店のテーマは‥」

「うむ、あれはクリムトの『接吻』、カウンターの花瓶はエミール・ガレ風であるが、もちろんまがい物だな。本物はフランスのディジョン美術館に所蔵されてあるのだから、このようなみすぼらしい店にあるわけがない」ジェニファーは完全に見下した口調で言うと、ふたたび店員に顔を向けた。「まあ、わが家のように高貴な名画を手に入れられるわけもないか。下々のものは、まことに気の毒であるな」

子供のような相手にバカにされて、店員はムッとした表情を隠せなかった。

「ただいまお飲み物をお持ちいたしますので、少々お待ちください」と言って素早く去っていった。


「なんかあの人怒ってなかった?」ちなみがジェニファーに言った。「難しそうな話でよくわからないけど。クリオネちゃん、また上から目線でやらかしたんでしょ」

「事実を言ったまでだ。エセ芸術論をぬかしそうになったゆえ、たしなめておいた」と言って、ジェニファーはフンと鼻を鳴らした。

「またまたよくわからないけど。ていうか、クリオネちゃんに勝てる人っているのかなあ‥」


と、その時、ちなみのポーチの中から携帯の着信音が鳴った。

「あ、たぶん健二くんだよ!」ちなみはそう言って、携帯の画面を見てから電話に出た。「健二くん?今どこにいるの‥うん‥そうなの‥ラ・グラースって言うレストランだよ‥えーと、まだ来てない‥おっけー、待ってるね」ちなみは電話を切った。

「ダニエルどのが着いたのか?」とジェニファー。

「うん。いま紀伊國屋書店の前にいるって。ことみさんは来てるの?って聞いてたよ」

「あとはメダカどのであるな。はたして連絡は来るのであろうか?」ジェニファーは心配そうに言った。


「お待たせいたしました」

店員の女性が赤ワインとシャンパンを持ってきた。二人の前にていねいにグラスを置いた。

「お料理はお決まりになりましたでしょうか?」と女性はたずねる。

「すみません。待ち合わせの人が来るので、それから注文します」とちなみが答える。

「ご承知いたしました。では、その時はお声をおかけくださいませ」

女性はふただび去っていく。ジェニファーのほうをチラッと横目で見ながら。


カランコロンと音がして、入口の扉が開いた。


高城ダニエルが入ってきた。ちなみが手を振って呼ぶ。店内を横切って二人のテーブルまで来ると、高城はちなみの隣に腰をおろした。

「やあ、ちなみん久しぶり。ジェニファーちゃんも元気そうだね」と言う彼の声は、いつもより沈んでいるように二人には思えた。

「われは元気であるが、ダニエルどのはやつれておるな。食事はきちんととっておるのか?」とジェニファーは遠慮なしにたずねた。

「ま、まあそれなりにね。そんなに疲れたように見えるかい?」高城は困ったという表情だ。

「見える。いつものはつらつとしたダニエルどのはどこへいったのだ?」

そのやりとりを聞いていたちなみは、高城に見えないように、ジェニファーにむかって手のひらをパタパタさせている。

" クリオネちゃん、ダメダメ!"

"ん‥?あっ、しまった!"

ちなみのサインを見たジェニファーは、あわてて表情をにこやかにして話題を変えた。つい、いつもの調子で話してしまったのだ。

「今日はみなでフランス料理をいただこうではないか。ここのメニューは絶品らしいぞよ」ジェニファーの言い方は明らかにわざとらしかった。

「そうだね」と高城。「ところで、ちなみん。あの‥」

「大丈夫だよ、健二くん。ちゃんと会えるから」と言って、ちなみは高城の不安をぬぐってあげた。

「そうかい。緊張するなあ‥」と言いながら、高城はグラスの水をゴクゴクと飲み干した。


その後、三人はそれぞれ料理のメニューを頼んだ。

高城はオーダーしてあったウォッカのロックを一気にあおると、さらに二杯目を店員に注文した。明らかに気つけのための酒だ。これからの出来事にそなえて自分を勇気づけている。

「健二くん、大丈夫?」ちなみは心配げにたずねる。「そんなに飲むと、肝心な時に‥あっ、何でもない」

「かまわないよ。最近は酒に酔ってばかりなんだ。そうでもないと、悪いことばっかり考えちゃうからね」と言って、高城は顔をうつむけている。

「しっかりするのだダニエルどの。われは恋愛にはうといが、そなたは誠実な紳士なのである。ポジティブシンキングという言葉があるではないか」

十歳も年の離れた少女に励まされて、高城は思わず苦笑いしてしまった。

「あはは。そんなに僕が情けなく見えるかい?でも、ありがとう、ジェニファーちゃん」


やがて料理が運ばれてきた。

三人はそれぞれ、仔牛のカツ、エスカルゴのブルゴーニュ風、舌平目のムニエルを食べながら、仕事のことや学校のこと、ファッションや音楽の話題で時間を過ごした。

やがて、食後のデザートが並べられた時だった。ジェニファーの携帯に電話がかかってきた。

「おっ、どうやら来たようであるぞ」ジェニファーはラインのアイコンをクリックして電話に出た。「メダカどのであるか?あー、いやいや。遅くはないぞよ‥で、ここの場所はわかっておるか‥なに!そなた、どこにおるのだ?」

ジェニファーがやけに驚いているので、高城とちなみはじっと聞き入っている。

「なんだと!新宿駅から動けない?うーん‥少し待ってたもれ」ジェニファーは携帯のマイクを手でおおうと、目の前の二人に向かってささやいた。「メダカどの、改札とやらを出たが、どこへ行ったらよいのかまったくわからぬそうだ」

「えーっ、マジ!」ちなみは思わず叫んでしまった。

「しかたない。われが迎えにいこう」と言ってジェニファーは電話を続けようとした。

「ダメだよー!ジェニファーちゃん、駅の中なんて知らないでしょ?」

「それもそうだ」とジェニファー。

「じゃあ、僕が行くよ」と言って、高城は立ち上がりかけた。

「あっ、いいから健二くん!あたしが迎えにいくから、ここで待ってて」ちなみは席を立った。「じゃ、行ってくるね」

「たのむぞよ」とジェニファー。

「悪いね、ちなみん」と高城。


ちなみは急ぎ足でJR新宿駅の新南口まで行くと、改札口のあたりを見回してことみを探した。

いた。券売機の横でしょげている。ちなみはことみに近づくと、明るくふるまって彼女を元気づけた。

ことみの手を取って、二人でレストランに向かった。十五分後、ちなみとことみは〈ラ・グラース〉の扉を開けた。


ちなみと一緒にテーブルに近づいたことみは、そこに高城がいるのを見てピタリと立ち止まった。大きい眼を見開いて、棒立ちになっている。

「あ、メダカちゃん。今日ね、健二くんも呼んだの」ちなみはできるだけ自然をよそおった。「久しぶりだし、四人でお食事しようってね」

「メダカどの、ご無沙汰であるな」と、ジェニファーもことみを見上げて言った。こちらのほうは、表情がやや固くなっている。

「さ、座ろう。みんな待ってたんだよ」と言って、ちなみはことみの手を引いた。

だが、ことみは身体を硬直させてしまって、顔を引きつらせている。そして、視線を壁の方へそらした。

これはまずいと感じたちなみは、ことみの背中を押してジェニファーの隣の席にあえて強引に座らせた。


「やっぱりみんな揃うと楽しいね」と、ちなみが明るくふるまった。「今年もあと二ヶ月よね。クリスマスはどこに行こうかなあ。ねえ、クリオネちゃんは何か予定あるの?」

「ん?あ、ああ。われはお父様と兄上がイギリスから帰ってくるので、家族で宴を開く予定である」と言いながら、ジェニファーは隣のことみをチラチラと横見する。

「健二くんは、クラブでイベントだよねー。どのお店で回すの?」ちなみは高城に話をふった。

「え?」気を取られていた高城は、一瞬驚いてわれに返った。「うん‥今年は《ヒドラ》でイヴから二日間、イベントだね」と言う高城は、明らかにぎこちない。

気まずい雰囲気をなごませるために、ちなみはことみの方を向いて語りかけた。

「メダカちゃんは、何か予定はあるの?もしよければみんなで‥」

ジェニファーもことみに顔を向けて、ふだんはあまり見せない笑顔をつくろった。

だが、じっと動かずにうつむいたままのことみが、何も答えない。ちなみは焦った。

" やばい‥どうしよう?困ったなー。あー、もうどうしたらいいの。クリオネちゃん、何とかしてよー "

ちなみは笑顔を浮かべつつ、ジェニファーと目を合わせた。だが、彼女も顔を戸惑わせていた。

" こら、われを見るでない!そなたが何とかしろ。メダカどのはおびえてしまっておるではないか。どうすればよいのだ‥助けてたもれ、お母様 !"


その時だった。困り果てている二人と無言のことみで静まり返った場に、高城が声をあげたのだ。

「ことみさん。今さらこんなこと言うのも何だけど、良かったらクリスマスのイベント、一緒に‥」

だが、高城がいい終わらないうちに、ことみはうつむいたまま声をふりしぼった。

「クリスマスは‥ゲーム大会があるので‥」ことみはそれだけ言うと、また黙りこんでしまった。これが、今日はじめての言葉だった。


気まずい雰囲気につつまれて、その場の時間が止まってしまった。全員が言葉を失ってしまい、無言のまま三十秒近くが過ぎた。

やがて、再び高城が口を開いた。

「ことみさん。どうか話を聞いてほしいんだ」下を向いて肩をふるわせていることみに、高城は思い切って語りかけた。「あの時は、君にほんとうに嫌な思いをさせてしまってすまなかった。僕にもわけがわからないうちに、あんなことになってしまって、謝罪の言葉もないよ。でも、ちゃんと説明させてくれないかい」

高城の誠意ある言葉を聞いて、ちなみとジェニファーはしきりにうなずいている。だが、みんなの期待が果たされることはなかった。


それまで身じろぎもしなかったことみが、顔をあげて高城を見た。

「ダニエルさんはすごいですよね」ことみは無表情で話し出した。「みんなに好かれて、いつでもまわりにはきれいな女の人ばかり。あたしとはまるで違う世界です。お金持ちだし、仕事も華やか。だから、どうかあたしのことなんか気にしないでください。クリスマスのDJ、がんばってください」

ことみのかたくなな態度に、三人は言葉を失ってしまった。これは、もう打つ手がない。固く閉ざしてしまった彼女の心は、どんな方法でも溶かすことはできそうになかった。


そんなことみの前で、高城は苦しげに目を閉じた。ちなみもジェニファーも、何も言えずにうつむいてしまった。

「あの、あたし予定があるので、帰ります」と、ことみが淡々と言った。「それじゃ、みんな楽しんでください。会えてよかったです」

それだけ言って、ことみは席を立った。相変わらず顔をうつむけたまま、頭を下げて去っていく。

「あっ、メダカちゃん、待って!」立ち上がって、ちなみが叫んだ。「メダカちゃん!」

顔をゆがめたまま、ちなみは力を失ってドスンとくずれ落ちた。頭をかかえて、テーブルに突っぷした。

「あ〜あ。もうだめ。どうしたらいいかわかんないよー。クリオネちゃん、助けて」

「うーむ。万策つきたとはこのことであるな」と、ジェニファーもあきらめ顔だ。


すると、高城が沈んだ声で二人に声をかけた。

「ごめんね。せっかくこんな場を作ってもらったのに。ぜんぶ僕のせいだから、君たちには何の責任もないよ」

「そんな。健二くんは悪くないよ」ちなみは今にも泣きそうな顔をしている。「誤解!ぜんぶ誤解!こんなのってない。悲しすぎるよ。健二くんもメダカちゃんもほんとは好きどうしなのに。やだよー、絶対いや!」

「ちなみどの、しかたないのだ。ことみどのはあまりに純粋ゆえに、絶望もまた大きいのであろう。もうあきらめるしかない。これ以上ことみどのを追いつめるのはよそうではないか」ジェニファーはあくまで冷静をよそおった。

だが、本当は彼女がいちばん心を痛めていたのだ。まだ汚れを知らない二十歳のジェニファーは、大人たちの間で荒波に飲まれるようにもがき苦しんでいた。生まれてはじめて暖かく受け入れてくれたことみが自分の世界から消えてしまうことを思って、少女は心の中で泣き叫んでいたのだ。


やがて、食事会は目的を果たすことなく、静かにお開きとなった。高城はみんなの勘定を払って、さわやかな笑顔を浮かべて帰っていった。


ちなみとジェニファーは、レストランを出ると立ち止まって肩を落としていた。このまま帰るのはさびしいと、二人とも同じ思いだった。

「クリオネちゃん。どこかで飲み直さない?」ちなみは気を取り直して、ジェニファーに言った。

「うむ。それも一興であるな」ジェニファーも同意した。

「そうだ!ねえ、杉本くんを呼ぼうよ。たしか仕事場ってこのへんでしょ?」とちなみ。

「そのとおりだ。そろそろバイトが終わるころであろうな。あやつはどうせヒマだろうから、おそらく尻尾をふって出てくるに違いない。" えっ、マジか!いくいく!" とか言ってな」と言って、ジェニファーはフンと鼻を鳴らした。

「あはは!クリオネちゃん、おかしい」さっきまでの落ち込みようはどこへやら。天然なので、ちなみは立ち直りも早い。「ねえ、杉本くんに電話しようよ」

「承知した。しばし待て」ジェニファーは携帯を出すと、ラインで電話をかけた。「おー、われだ。なに!無礼な!くだらぬことをぬかすでない。それより、われはいま、そなたの近くにおる。だから出てこい‥つべこべ言うな。そうだ、あー、ちなみどのも一緒であるぞ‥よし、わかった。店の住所を送っておくゆえ、早う来てたもれ」

ジェニファーは、晴夫と毎度おなじみみのやり合いを終えると電話を切った。

「どうだって?」ちなみはたずねた。

「あやつめ、はじめは面倒くさいとかぬかしておったくせに、ちなみどのもいると言ったとたんに、ヨダレをたらした犬のようになりおった。けしからん!」

「あはは、面白い!クリオネちゃんと杉本くんて、ほんと相性いいよねー」ちなみは笑って、ジェニファーの顔をのぞきこみながら頬を指でつついた。「ねえ、クリオネちゃん。杉本くんのこと、じつは好きなんでしょ?ほらあ〜、白状しなさいよ〜、あはは」

「ば、バカを言うな!あんなうつけものなど、われが気にいるわけが‥」

と言ってはいるものの、実際のところジェニファーは心の中で心をウキウキさせていた。晴夫に会えると思うと、自然と顔がほてってしまう。

「おっけー!じゃ、行こうか!知ってるクラブあるから、VIP予約するねー」ちなみは手をジェニファーの腰に回して、新宿通りを歌舞伎町に向かって歩き出した。

「承知した」とジェニファー。


二十六歳のモデルと二十歳の令嬢は、作戦失敗のことをすっかり忘れて、夜の新宿に消えていった。




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