第42話ご令嬢様の憂うつ

「このへんだよな?」

杉本晴夫はつぶやいて、iPhone のグーグルマップを見ながら閑静な高級住宅街を歩いていた。

道路の両側には、晴夫の感覚では理解できないスケールの、金持ちを絵に描いたような豪邸がならんでいる。

「なんだこりゃ。すげえ家だな」晴夫は立ち止まって、目のまえの高級住宅を見上げた。「ガレージだけでも俺の部屋より広いじゃんか」

晴夫は驚きながら、世の中の不公平さに腹が立ってきた。

それはさておき、目当ての住所にはなかなかたどりつけない。道路をウロウロしながら、晴夫は歩き続けた。


この日の午前中のこと。新宿にある実家の楽器店でギターアンプのメンテナンスの仕事をしていた晴夫に、電話がかかってきたことがはじまりだった。

昼飯を食べおわったあと、晴夫が明日までに仕上げる予定のギターアンプの調整をしていると、携帯の着信音が鳴った。手にとると、ラインの通話画面が出ていたのでボタンをクリックした。

「よお、どうした」晴夫はアンプの調整をしながらたずねた。「なんか用か?」

「用がなくてはかけてはならぬのか」と電話のむこうの声が言う。

ま〜た、いちいち絡むのかよ。めんどくせえなあ。晴夫は仕事の手をとめずに、ぶつぶつと文句をたれた。

電話の主は、水戸井ジェニファーだった。平日の昼間に彼女から電話がかかってくるのはめずらしい。夏休みもおわったことだし、学校の授業の休み時間か。晴夫はちょっと疑問に思ったが、そのまま作業をつづけた。

「なんだよクリオネ。学校で携帯なんか使ってると先生にしかられるぞ」と言って、晴夫はジェニファーをからかった。

「なにをぬかすか、このうつけものが。われは小学生ではないぞ」電話のむこうで、彼女がいつものようにプンプンと頬をふくらませる姿がみえるようだった。「それに、われは学校にいるのではない」

「まったく、冗談通じないな。それじゃどこにいるんだよ?」

「知りたければ教えてしんぜよう。自宅だ」

ちぇっ、もったいぶった言いかたしやがって。可愛い気がないやつだな。こっちはお金持ちのおまえみたいにヒマじゃないんだよ。晴夫はジェニファーの上から目線な口調にイラッとしたが、いつもの話なので気にしないことにした。

「それで?」と晴夫はたずねた。

「それで、とは?」とジェニファー。

「ああ、もういい。用がないなら電話切るぞ」と晴夫は言って、通話ボタンを押そうとした。

「あ〜待てまて!そう短気を起こすではない」ジェニファーがあせったような口調で言う。

「じゃ、はやく言え」

「その…だな。じつは…であるな」

「だから、はやく言え」

「わ、わかった」とジェニファーが言ってから、やや間があった。


「うちに来い」


「なんだあ〜?」ジェニファーがいきなり命令口調で言うので、晴夫は腹がたつのをとおこしてあきれてしまった。「どういうこと?俺はお前の使いっ走りか」

「いや、そういうことではない。だからたのむ。うちに来てはくれぬか」命令口調だったジェニファーの声が、急にたよりなげなトーンになった。

それをきいた晴夫は、あれ、クリオネのやついきなりどうしたんだ、と気になった。はじめて耳にした弱気な言葉に、晴夫は仕事の手をとめた。

「よお、なにかあったのか?おまえ様子がおかしいぞ」

晴夫はいつもとちがうジェニファーの態度に面くらった。すると、なんということか、電話のむこうから、かすかな泣き声がきこえてきたではないか。

こりゃ驚いた。晴夫は椅子から立ちあがり、まじめになって話をきくことにした。

「おいクリオネ、大丈夫か。わかったよ。今から行くから、おまえの家の住所をラインで送れ。いいな?」

「すまぬ」ジェニファーは、ひとことだけ言って、電話を切った。

店の名前がプリントされたエプロンを脱いで、汚れた手をタオルでふいた。スマホをみると、LINEの画面にジェニファーの家の住所が出ている。

ええと、どれどれ。世田谷区成城三丁目…ん〜ここって、たしかお金持ちの人が住む高級住宅街だよな。やっぱり学園財閥のご令嬢ともなると、いいところに住んでやがるなあ。

晴夫は感心しながら、さっそくジェニファーの家の番地をグーグルマップに入力した。

駅はどこなんだ…地図をドラッグしてみると、「成城学園前」という小田急線の駅がみつかった。

新宿から一本。わりと近いな。よし、行ってやるか。


というわけで、晴夫は新宿駅から小田急線に乗って、成城の街にやってきたのである。

めあての住所は、地図でみたところ、駅から徒歩で十分以内の範囲のようだった。駅前のコンビニでダイエットコーラを買って、ジェニファーの家をめざした。

「おかしいな。すぐ近くのはずなんだけど、どこだろ?」あいつの家はきっと豪邸にちがいないから、すぐにわかるはずなのに。

晴夫は首をまわして、あたりをキョロキョロと見た。やっぱりみつからない。

と、道路の先がT字路になっていた。正面に高い塀が横に走り、まわりとあきらかにちがう景色がみえている。塀の上には、さらに高い樹木が茂っていた。

グーグルマップをみると、その塀のあるあたりが、まさにジェニファーの家のはずなのだ。なのにT字路まで来ても、そこに家らしきものが見あたらない。

その塀は、右にも左にもずっとつづいている。距離は百メートル以上だ。晴夫はまったく見当がつかず、しかたなくジェニファーに電話をかけることにした。

ワンコールでつながった。

「着いたか?」いきなりジェニファーが言う。

「いや。近くにきてるんだけど、ぜんぜんわからないんだよ」と言って、晴夫はあたりを見渡した。

「どのあたりにおるのだ?」

「ええと。T字路があってさ、そこの高い塀のところ」目的地がみつからずに歩き続けで、少々暑くなってきた。晴夫はコーラをぐびぐびとあおった。

「そこがわれの家だ」とジェニファーが言う。

え、なに言ってんだ?晴夫はわけがわからず、こいつは人をからかって遊んでるのか、とあきれた。

「そこってどこなんだよ?」

「とりあえず塀にそって左へ進め。曲がり角にきたら、右に行け。制服を着た男性が立っておるので、そこに着いたらまた電話をしてたもれ」と言うなり、ジェニファーは電話を切ってしまった。

「あ。おい、クリオネ!」

なんだよ、あいつ。人がせっかく来てやったのに、そりゃないだろうが。しょうがないな〜。


とりあえず、晴夫はジェニファーの言うとおりに、左へ進んだ。高い塀がどこまでも続いていると思いはじめた時、前方にようやく十字路が見えてきた。右に曲がると、さらに塀が続く。そこから五十メートル行ったところに、彼女が言っていた制服の男性が立っていた。

お、いたいた。ていうか、あれ誰なんだ。晴夫は疑問に思った。今日は、わからないことだらけだ。いつもと違うクリオネの様子。さっぱり家が見つからない。どこまでも続くこの高い塀。

アドベンチャーゲームかよ、これ。

再び電話をかけた。

「着いたぞ。それで、どうすればいいんだ?」と晴夫はたずねた。

「その者に電話を代わってたもれ」とジェニファーが言った。

「代われって。この人誰なんだよ?」

「いいから、早く電話をわたさぬか」

雲につつまれた気分だったが、晴夫はスマホを男性に差し出した。

「あの〜。代わってくれというので…」

制服姿の無表情な男は、頭を下げてスマホ受け取った。彼は「はい」「はい」と何度も返事をくり返しながら、ジェニファーの話を聞いていた。

やがて電話を終えると、男性はスマホを晴夫に返した。

「失礼いたしました。では、お入りください」彼はそう言うと、制服のポケットからリモコンを取り出して、ボタンを押す。

ギーッと金属がきしむ音を立てて、木立の奥に隠れていた巨大な門が開いていく。それを見た晴夫は、あんぐりと口を開けて、カカシのように立ちすくんだ。


おい、何だよこれ!

「その道にそって、お進みください」制服姿の男が言う。

「あ、はい。ありがとうございます」頭をぺこりと下げて、敷地内に入っていく。と、そこに現れた光景に、晴夫は度肝をぬ?抜かれてしまった。

ゴルフ場のように開けた土地に、芝生と花畑が広がっていた。道はその中を縫って続いている。夢でも見ているようにぼうっと歩いていくと、前方に晴夫が見たこともない建物が現れた。

これ、家じゃないよな。城だろ!と、晴夫はほとんど悲鳴に近い言葉をつぶやいて、その建物の正面に向かう道をたどっていった。

やがて、ドライブウェイ(車回し)と呼ばれる円形の道が、建物の前につながっていた。その中心には、大きな噴水がある。

その屋敷の入り口には二本の太い柱が立っていて、間に十メートルくらいの幅の階段がある。晴夫は、巨大で城のような館をあっけにとられて見上げていた。

とりあえず階段をのぼって、玄関と思われる場所まで進むと、壁にあるインターホンを押した。


少しして、スピーカーから男性の声が聞こえてきた。

「杉本さまでいらっしゃいますね」

「あ、はい、そうですけど…」

すぐにガチャンと音がして、大きな扉がゆっくりと開いた。そこには、黒いタキシード姿の初老の男性がいた。口ひげをはやして、眼鏡をかけている。髪は白髪におおわれていた。

男性は晴夫にむかって頭を下げると、身体を引いて、晴夫をうやうやしく家の中へみちびいた。

「お嬢様がお待ちです。どうぞこちらへ」男性は言って、晴夫を連れて歩き出す。

そこは、高いドーム天井の下に広がる空間だった。上のほうにシャンデリアがあって、壁に沿ったらせん階段がある。床は輝いて、おそらく大理石と思われた。

タキシードの男性は、左の方にある扉まで行くと、それを開けた。

その部屋は応接間のようで、真ん中に大きなテーブルが置かれている。部屋もテーブルも、晴夫のスケール感では理解できない大きさだった。

「ここでしばらくお待ちください。ただいまお茶を持って参ります」と言って、男性はまた頭を下げた。彼は背を向けて奥の扉から出ていった。


敷地に入ってからここまで、晴夫にとって、すべてが少女漫画か洋画に出てくる世界そのものだった。スケールがあまりにもケタはずれなので、頭が理解することができずにいる。

ひゃあ〜。クリオネのやつ、こんなところに住んでるのかよ。金持ちにもほどがあるだろ。セレブとかそういうレベルじゃないよな。貴族だよ、貴族。俺なんて下々の者じゃんか。


「待たせたな」


女の子の声がした。ジェニファーが部屋に入ってきた。いつもの制服姿ではなく、薄いピンク色のサテンのドレスを着ている。

「よお」と言って晴夫は手を上げた。

「うむ。遠路はるばるご苦労であった」ジェニファーはドレスの裾をサラサラと床に滑らせながら、長いテーブルを回り込んで、反対側の席に座る。

すると、先ほどの男性がトレイにティーカップを二つ載せて戻ってきた。

「お嬢様。ダージリンでよろしかったでしょうか」とジェニファーに言う。

「すまぬ、園田。客にも差し上げてたもれ」とジェニファー。

それを見ていた晴夫は気がついた。この人って執事じゃん。すげえな。召使いまでいるのかよ。


園田と呼ばれる男性は、晴夫の前にカップを置くと、引き下がって壁ぎわに立った。

「ウナギ、わざわざ足を運ばせてすまぬな。まあ、くつろいでたもれ」と言って、ジェニファーは紅茶をひと口飲む。

くつろげるわけないだろうが。晴夫は頭の中でぼやいた。そして、テーブルの向かい側にいるジェニファーを見つめた。

「おまえ、そんなに離れてちゃ話ができないだろ。面接じゃないんだから、もっと近くに来いよ」と大声で言う。

「あいや、これが客のもてなしである。気にするでない」当たり前のように言って、紅茶をすする。「ああ、それでだな…」

「気にするだろ。じゃあ、俺がそっちに行くよ」晴夫は席を立って、テーブルの横をすたすたと進む。

執事の園田が身をのり出して晴夫を止めようとしたが、ジェニファーが手を上げた。かまわぬ、という合図。


「それで?どうしたんだよおまえ」高価そうな椅子に座って、晴夫はジェニファーにたずねた。「電話で様子がおかしかったから、心配したんだぞ」

「まことか。そなた、われのことを気にかけてくれたのか?」と言いながら、ジェニファーは晴夫のほうへ身を乗り出した。彼女の顔つきは、いつもより心なしか柔らいでいる。あどけない少女の表情だ。

「だから来たんだよ。わかりきったこと言うな」と言って、晴夫は紅茶をすすった。「おっ、美味いなこれ。香りが上品ていうか、どうせ高級紅茶なんだろうな。まったく、いい暮らししてるよおまえ。うらやましいったらないぞ」

「いや、われにもそれなりの悩みはあるのだ」と言って、ジェニファーは顔をくもらせた。

「で、そのご令嬢の悩みとは?」と晴夫はたずねた。

「それは…みだりに口にはできぬ」ジェニファーはうつむくと、ドレスの襟をいじってモジモジしている。

「何だよ。わざわざ来てやったのに、それはないだろ?」晴夫は文句をつけたが、心の中では、照れやがって可愛いとこあるな、と思っていた。「それにお前、電話で泣いてなかったか?」

「な、何を言うか!そなたの勘違いだ。何ゆえそのような…」

「いいから、いいから。俺には隠しごとするな」晴夫は、片手でジェニファーの言葉をさえぎって言う。「もしかして、淋しかったたのか?俺には遠慮するな。素直になれよ」

晴夫に自分の心を言い当てられたジェニファーは、そのまま黙りこんでしまった。頬を赤く染めて、晴夫の顔を悲しそうに見つめている。

「わかった。もう何も言わなくていい。だから、ひとりで悩みをかかえるなよ。お前には俺がついてるからな」と言って、晴夫は彼女の肩をたたこうとした。

と、のばした手が紅茶のカップにあたって、中身がジェニファーのドレスにかかってしまった。

「あっ!」晴夫は驚いて、思わず大声で叫んだ。

「きゃっ!」ジェニファーは椅子から飛び上がった。

「お嬢様!」と執事の園田が叫ぶ。

「ごめん!あ〜やらかした!」晴夫はすまなさそうに言って、Gパンのポケットからバンダナを取り出した。

ドレスの胸もとからお腹のあたりが濡れて、サテンの生地が張りついている。上半身の肌が透けてあらわになった。

「熱かったろ。大丈夫か?」と言いながら、晴夫はドレスの上からジェニファーの身体を拭いた。

「あ、いや、だ、大丈夫だ…」とジェニファーは顔を赤らめた。

「大丈夫じゃないよ。ほら、じっとしてろ」晴夫は、バンダナでドレスをていねいにぬぐってやった。

「あ、そ、そこは…」とジェニファーが恥じらう。

「ん?」と、晴夫が彼女の顔を見た。「あっ、しまった。俺、やらしいことしたよな。さわってごめん」

二十歳の少女の身体に触れたことで、晴夫はあわててしまった。ジェニファーが気を許していたことで遠慮しなかったつもりが、相手が純真無垢な女の子であることに今さらながら気がついたのだ。

「いや、い、いいのだ」ジェニファーは言葉につまりながら腰をおろした。

「お嬢様、どうぞ」園田が言って、シルクのタオルを差し出した。

ジェニファーは、肌にぴったり張りついたドレスをタオルでぬぐった。恥じらう彼女の姿に、晴夫は目をそらした。

「あ〜、す、すまぬ。着替えてくるので、しばし待っててたもれ」と口ごもり、ジェニファーは席を立つと、早足でパタパタと応接間から出ていった。


あちゃあ〜ドジったな、俺。こんな上品な場で失態かよ。まいったな…

それにしてもクリオネのやつ、今日はずいぶんしおらしいな。いつもあんなに高飛車なのに。まあ、そこがあいつの可愛いところでもあるんだけどな。えへへ。

けど、さっきは焦ったよ。二十歳の乙女の素肌見ちゃったからな。身体も触っちゃったし。やば。


ジェニファーを待つ間、晴夫はジェニファーを初めて見た時のことを思い出していた。

真夏の西新宿で出会ってから、アニメの登場人物みたいなクリオネは、さえない独身男の俺にとってすごく刺激的な存在になったんだよな。ちょっと生意気だけれど、あいつのことがどうしても気になってしかたない。

三年前に母ちゃんが他界してから、俺の心にはぽっかり穴があいたままだった。親友のことみ以外とは、まったく人間関係が広がらない。外見は元気そうに見せかけて、心の中では自分の世界に閉じこもってばっかりだったっけ。

そんなパッとしない日々が続いていた時、俺はジェニファーと出会った。異世界から飛び出てきたような美少女とのつき合いは、新鮮で驚きの連続だった。

ジェニファーは、今では可愛いらしい妹のような存在になった。可愛い女性には縁のない俺だが、なぜかジェニファーにはありのままの自分の姿で接することができる。

不思議と自分になついてくる彼女のことが、少しずつ気になっているのは事実だ。まだ十代のあどけなさが残る少女だけれど、あいつの事はどうしても放っておけないんだよな…


「ちょっとよろしいでしょうか」

声をかけられて、晴夫はハッと物思いからさめた。執事の園田がそばに立っていた。

「あ、はい。何でしょうか?」晴夫はかしこまって答えた。

「じつは、お嬢様のことで、杉本さまにご相談がございまして」園田は晴夫に真剣な顔つきで言った。「お隣、よろしいでしょうか?」

「あっ、どうぞどうぞ」と晴夫は言いながら、相談て何だろう?と思っていた。

「では、失礼いたします」タキシードの裾を手でおさえて、園田はさっきまでジェニファーが座っていた席に腰をおろした。

「私は、先々代からこの水戸井家につかえておりまして。今の奥様、つまりジェニファー様のお母様がお嫁ぎになられ、初めての女の子がお生まれになってから、以来お嬢様をずっと見てまいりました」園田は遠い過去をふり返りながら、とつとつと語った。「私がこんな事を申し上げるのはおこがましいのですが、じつはお嬢様は、ご幼少の頃からお気の毒なほど内気な方でございまして。

純心女学院の幼稚部、初等科、中等・高等部を通して、ご親友と呼ばれるお友だちにまったく恵まれませんでした」

え、クリオネが内気? 晴夫は園田の話をきいて、意外な思いをした。天下のお姫さまにそんな一面があったとは。晴夫は園田にたずねてみた。

「でも、あいつは…あ、いえ、ジェニファーさんはお金持ちのお嬢様だし、ルックスも飛びぬけて可愛いし、学校じゃ人気の的なんじゃないですか?」

「ええ。皆さまそうおっしゃいます。じつのところ奥様も、お嬢さまが学院で多くのご学友さまに囲まれて、充実した学究生活を送られていると信じておられるのです」と、園田は含みのある言いかたをした。その表情が少し悲しげだ。

「でも?」と、晴夫は先をうながした。「違うんですか?」

「はい。正直申しますと、ジェニファー様はとても孤独な少女でいらっしゃるのです。財閥のご令嬢という立場にあられるために、お嬢様は幼いころからつねに特別扱いをされてきました」園田は、ジェニファーの境遇について話しはじめた。「水戸井家が主催するお茶会などでも、周囲の見る目はいわゆる高嶺の花と言いましょうか。それはもう、あたかも天使のような敬われかたなのでございます。

そのようなお育ちのせいか、すでに小学校のころには、お嬢様は、ご自分が世間から切り離された存在なのだと思い込むようになりました。そして十代の思春期には、一般の女子のようにふるまうことが許されない、厳格な教育をしつけられまして。そのような環境ゆえに、お嬢様はいつしか心を閉ざしてしまわれたのです」ジェニファーの生い立ちを語る園田の表情は、可憐な少女への限りない愛情にあふれていた。


ジェニファーの隠された一面を聞かされた晴夫は、なぜ彼女があんなに高飛車な態度をとるのか、なんとなく理解できたような気がした。

出会ってからこれまで見てきた、大人をよそおうとする少女の姿。晴夫は、急にジェニファーのことが気の毒になってしまった。

クリオネもさびしいやつなんだな。なに不自由なく暮らしてるように見えるけど、それってうわべだけなのか。

でも、俺にはわかる。母ちゃんがいなくなって、俺も世の中にとり残されたみたいですごくつらかった。それが受け入れられなくて、無理して元気にふるまってたからな。


園田が話を続けた。

「お嬢様には、お兄様と弟様のご兄弟がいらっしゃいますが、お二人とも海外で暮らしておられるのです。上のカール様は、お父様とご一緒にロンドンの弁護士事務所にお勤めです。お二人ともご多忙ですので、日本に帰ることはめったにございません。

さらに弟のジャスティン様は、アメリカの大学でフットボールのプロプレイヤーを目指しておられます」園田は、ジェニファーの家族のことを晴夫に説明した。「そんなわけで、この家は奥様とジェニファー様の二人暮らし。しかも奥様は学院の理事長のお仕事が忙しく、家をあけることがしばしばなのです。

お嬢様は学校から帰られると、いつもこの応接間で、おひとりですごしておられます。そのお姿を見るたびに、お嬢様がふびんで、私はいつも心を痛めております」


あいつの父親と兄弟って、外国で暮らしてるのか?さすが上流階級の家庭は違うなあ、と晴夫は園田の悲しそうな口調を忘れて感心していた。

でも、いつもひとりなんてちょっと可哀想だな。俺は、憎ったらしいけど親父と働いてるし、メダカだってお母さんといつも一緒だし。

俺はクリオネのこと誤解してたみたいだ。やっぱり何だかんだ言っても、まだ二十歳になったばかりの少女なんだよな…そう思うと、晴夫はジェニファーのことが急に愛おしくなった。


「そこで、杉本様にお願いがあるのです」園田は晴夫をじっと見つめた。彼はあらたまった口調で晴夫に告げた。

「ここ数ヶ月、私はお嬢様の様子が今までと変わられたことに気がつきました。お電話での快活なお話しぶりや、プライベートでお出かけになる時には楽しげな笑顔をお見せになられて。それはもう幸せそうでした。

私は気になって、お嬢様にそれとなくおたずねしました。すると、近ごろ仲の良いお友だちができたのだ、と。気取らずに心を許せる方たちのようで、私は大変うれしく思いました。お嬢様があのように陽気に話されるのは、生まれてこのかた初めてではないでしょうか。

そして今日、杉本さまがいらして、その理由がわかったように思いました。

奥様には内緒にしておきますが、杉本さま、どうかお嬢様を大切になさってくださいませ。人生で初めての喜びをこのまま失うことのないよう、私からつつしんでお願い申し上げます」園田はあふれる感情を隠すことなく、晴夫にむかって頭を下げた。

その様子に、晴夫は戸惑いながらも、親代わりのような彼の願いに応えたいという気持ちが心からあふれてきた。


「あ〜、すまぬすまぬ!」

扉が開いて、ジェニファーがあわてた様子で戻ってきた。

園田はいそいで席を立つと、壁のそばに戻ってそしらぬふりをした。

「お、おう、着替えてきたか」晴夫も何ごともなかったように言った。

「何だ?」ジェニファーは二人の様子を見て怪しんでいる。「そなたたち、何をコソコソしておる?」

「コソコソなんかしてないよ。園田さんが楽器のことたずねたんで、ちょっと相談にのってただけだ」晴夫はいいつくろってその場をごまかした。

「そうなのか。まあいい」とジェニファー。「待たせたな。さて、そなたは賓客であるから、何をしてしんぜようか〉

「いや、クリオネ。そろそろ帰るぞ」晴夫はジェニファーに言った。「バイト抜け出してきたから、もう行かないと」

「えっ、もう帰るのか?」晴夫の突然の言葉に、ジェニファーが残念そうな顔をする。「せっかく着替えてきたのだ。もう少しいてもいいではないか?」

可愛いやつめ。俺がいなくなるのが淋しいのか?えへへ。晴夫はジェニファーの困った顔を見て、彼女への自分の気持ちがふくらんでいくのを感じていた。

俺、こいつのこと好きなのかな。でもなあ、かなり年下だし。こんなお嬢様と俺なんかじゃ釣り合わないよな。まっ、いいか。あんまり考えないようにしよっと。


晴夫は席を立ったが、そのまま部屋を出ることはしなかった。そしてジェニファーをじっと見つめていた。

「う、うむ、仕方ない。わかった」ジェニファーは恥じらいながら、思わず視線をそらして園田のほうへ顔を向けた。「ということだ。車を回してくれぬか」

「はい、お嬢…」園田が頭を下げかけた。

「ちょっと待った!」晴夫は両手をあげて、二人の会話に割っては入った。「クリオネ、駅まで俺と一緒に歩こう」


「え?」


ジェニファーは、晴夫の突然の誘いにびっくりしてしまった。

「一緒に、とはどういうことだ?」

「だからさ、俺と歩いて駅まで行くんだよ」と言って、晴夫はジェニファーの手を取った。「ほら、立って」

「こ、こら、何を…」

ジェニファーは強引に手を引かれていく。晴夫は彼女を連れて行きながら言う。「いいですよね、園田さん?」

「あ、はい。では、お嬢様をよろしくお願いします」と言いながら、晴夫に向かって親指を立てた。「お嬢様、駅に着きましたらお電話ください。お迎えにまいります」

「こら、園田。何を申すのだ!あ〜、ちょっとちょっと」


二人はバタバタと玄関まで駆けていった。晴夫はジェニファーに靴をはかせると、扉を開けて外に出た。

「こら、ウナギ!そなた何のつもりだ」ジェニファーはぐいぐい引っぱられて、晴夫と一緒に敷地の入口にたどりついた。鉄の門が自動的に開いたので、晴夫はそのまま道路に出た。

「お嬢様、行ってらっしゃいませ」先ほどの制服姿の男性が深々と頭を下げた。

敷地の外へ出ると、晴夫はいったん足を止めた。ジェニファーにむかってニヤニヤと笑う。

「たまには、世間の人たちみたいに歩こうぜ。当たり前のことを普通にやるのも、そんなに悪くないぞ」晴夫はジェニファーの手を離さずに、彼女の頭を優しくなでた。「それに、もう少し俺と一緒にいたいんだろ?」

すると、ジェニファーはモジモジして黙りこんだ。

ありゃあ〜、恥ずかしがっちゃって、やっぱり二十歳の乙女なんだな。


晴夫とジェニファーは、ゆっくり歩いて駅に向かった。恋人どうしのように、手をつないで。

ジェニファーが部屋着のまま出てきたことを、二人はすっかり忘れていた。

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