第39話 決別
英国の名車アストンマーチンが、青山通りを赤坂方面に向かって走っていく。
土曜日の午後三時の通りは、平日にくらべて車の数がそれほど多くない。
運転している高城ダニエルは、右車線に車を走らせて、赤坂警察署を通りすぎる。しばらく進むと、外堀通りとの交差点を右折した。
そのまま車を走らせると、高層オフィスビル《プルデンシャルタワー》に着いた。行き先は、二十四階の《ジュール》。アパレル業界の大企業だ。
二ヶ月前にプレゼンした、来年の春ものデザイン、レーヨン生地の女性向けアウタージャケット・ブランド『RECO2(レコドゥー』が、提案先の大手アパレルメーカー《ジューヌ》に選ばれたのだ。
今後、自分のデザインしたジャケットは、メーカーの主力商品として、来季の二月に販売がスタートする予定である。
今日は、メーカーと本契約を結び、展示会をはじめとする販売促進についても打ち合わせることになっている。ファッションデザイナーとして、新商品にかかわる仕事は多いのだ。
自分のブランドイメージを世の中に広めるためなら、どんな苦労もいとわない。高城はすでにアパレル業界で成功しているデザイナーなので、洋服を考案していく段階から、つねにプロモーションのことまで想定して作業をしている。
車を駐車場にとめると、ラップトップパソコンのMackbook Airを手にして、車をロックした。
ビルのエントランスを通り抜けて、広いロビーの奥へ歩いていき、エレベーターホールへ向かった。
二ヶ月ぶりだなあ、と高城は前回来社した日のことをふり返った。プレゼンはうまくいったけれど、あの頃は、仕事づけの毎日に心労をきたして、精神的にややまいっていた。
そんな時に彼女と知り合って、その存在は彼の癒しとなっていたのだ。
だけど、今は‥
エレベーターが到着して、彼は物想いから冷めた。ほかの客とともに乗り込んで、24階のボタンを押した。
《ジュール》のオフィスに着くと、販売部長の男性と営業企画チーフの女性が待っていた。高城は、二人と一緒にミーティングブースに入って席につくと、さっそく打ち合わせをはじめた。
「それでは、契約内容を確認しましょう」と、販売部長の男性が口を開いた。「高城さんには、まず企画デザインのギャラをお支払いします。加えて、来年二月の《レコドゥー》発売までの販売促進に関する契約ですね」
高城のMackbookに、契約書のデータが送られてきた。
《レコドゥー》の初回リリースは五千着。デザイナーの取り分は、一着あたり10%だ。販売予定価格が12500円なので、1250円の五千着ぶんで625万円となる。もちろん、追加発注されたときには、さらにギャラが上乗せされる。
半年をかけて作り上げたが、企画デザイン料としては悪くない金額だ、と彼は満足げな表情をうかべた。
「販売プロモですが、高城さんには、展示会の企画・プロモーションに携わっていただきます」今度は、営業企画チーフの女性が説明する。「契約書の四ページをご覧ください。会場のデザインから、商品展示のバリエーション、ブランドのコンセプトなど、当日の企画全般に関して、うちの営業企画担当たちのプロデュースをお願いしますね。高城さんはお店の経営をしていらっしゃるので、インテリアにも詳しいでしょう?」彼女はそう言うと、期待を含ませた笑顔をうかべた。
高城は、契約書の項目にひとわたり目を通した。
すべての業務について、自分のワークスキルをこえた内容はないか。準備のスケジュールは妥当か。作業に求められるクォリティはどの程度か、など。また、自分が経営するショップ《ゾーン》のブース設置についても明記してある。
「問題ないですね。展示会のコンセプト作りは、一ヶ月半前から始めましょうか。うちが提携している建築事務所にも会場デザインに加わってもらい、そちらのスタッフと原案を起こしていきたいと思います」高城は、契約書に添付されたプランシートを見ながらうなずいた。
こちらの仕事についての料金は、インテリアデザイン料金と、その他の作業時間の対価ぶんが支払われる、と契約書に明記してあった。
全部で150万くらいかな、と高城は計算した。オリジナルブランドを受け入れてくれたのだから、デザイン以外の作業もサポートするのは当然だろう。
「では、ご了承していただければ、契約書にサインをお願いします」と言って、販売部長の男性が、紙の書類を二部わたした。
高城は、再度文面をチェックすると、最後のページにサインして、印鑑を押した。一部を先方にわたして、もう一部を自分のファイルにしまう。
契約書の内容はすべてパソコンにデータ化されているので、あとで一言一句までチェックするつもりだ。
「では、これで契約は完了です」
「発売までお手数をおかけしますが、ぜひともよろしくお願いします」
販売部長と営業企画チーフは立ち上がって、高城と握手した。
よし。これでひと区切りついた。
展示会の企画デザイン期間中は、ショップの運営は美波さんにお願いしよう。新しいアルバイトの女の子も入ることだし、心配ないだろう。
高城は、すっかり満足してビルを出ると、車へ戻っていく。
と、そのとき、スーツの胸ポケットで、電話の着信音が鳴った。スマホの画面を見ると、綾波カレンからだった。高城は通話ボタンを押した。
いきなり、カレンが早口でまくしたてた。
「もしもし健二?大事なことだから、よく聞いて。時間がないから簡単に伝えるね」カレンの口調は、きわめてビジネスライクである。
「どうしたんだ?やけに真剣じゃないか。何かあったのか」高城はカレンの態度に、なにやらただ事ではない空気を感じ取った。
「ほんと、ごめんなさい。じつは会社に問題が起きて、すぐにアメリカへ戻ることになったの。あなたには申し訳ないんだけれど、第一に伝えておこうと思って」カレンは早口で言った。
高城は、彼女が言ってきた内容よりも、その話ぶりにあきれていた。
七年前と同じだ‥
仕事のことになると、彼女は、人間関係をいっさいかえりみない。どうしても選択しなければならない理由は、こちらも理解しているつもりなのだ。問題は、そのことに対する相手への思いやりだった。
高城は、短い言葉で返事をすると、あきらめに近い感情で、すぐに電話を切った。
カレンに対してわずかに残っていた想いが、決定的に崩れた瞬間だった。
もう二度と会うことはあるまい。
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