第33話ことみと健二
二階の自分の部屋で、ことみはあわたただしく服を着がえていた。
母親の言いつけどおり、美容室のかたづけと明日の準備をおえたのが午後六時十五分。七時に阿佐ヶ谷へいくのに、いそいで準備しなくてはと、気持ちがはやるばかりだった。
地味でぱっとしないふだん着を脱ぎすてると、姿見で全身をながめた。う〜ん、さえない。二十六歳にしてメリハリのない自分のシルエットに、われながらなさけない思いがした。せめて胸がもう少しだけ…。
あっ、こんなことしてる場合じゃない!ことみはわれにかえった。
高城ダニエルが経営する原宿のアパレルショップ 〈ゾーン〉の袋をひらいて、薄黄色のサマードレスをとり出した。背中のジッパーをとめて、鏡でチェック。肩があらわになった膝上丈のワンピースに、ことみは心が浮きたった。ダニエルさんの服って、ほんとにすてき。あたしみたいなさえない女でも、可愛くかざってくれるもん。
テーブルの前にすわって、鏡のまえでヘアメイク。表参道のヘアサロン〈ウ"ォヤージュ〉のシャロンたちにおそわった手順と、ネットのアプリを参考にしながら、なれない手つきで仕上げた。最後にピンクのリップを唇にのせ、髪の毛をすいて作業おわり。
ダニエルさんと出会うまでおしゃれに縁がなかったけれど、外見を飾るのがこんなに楽しいなんてうそみたい。まったく、二十六年間なにやってたんだろ。
着がえとヘアメイクをおえると、これも高城からプレゼントされた、シャネルのネックチェーンをつけた。
よし、これでオッケー。よそいきのファッションコーデに満足したことみは、通販で購入したアニエス・ベーの肩かけバッグを手にして、部屋を出た。
廊下に出たとたん、左のリビングから妹のくるみが出てきた。しまった、とことみはうろたえた。案の定、妹はクリクリした目を見ひらいて、姉のすっかり様変わりした姿に仰天している。
「お姉ちゃん、その格好どうしたの!」くるみは悲鳴に近い声をあげた。
あ〜まいった。みんなに内緒で出ていくつもりが、いちばんヤバいやつに見つかってしまった。最悪!
「そのワンピ、どこのブランド?見たことない。ていうか、肩と足丸出しじゃん」ことみの全身をなめまわすように見ながら、不審な目つきをしている。「そのネックチェーンってシャネルでしょ。ヤバい、よく化けたわね。ていうか、彼氏でもできたの?」
ことみがその場にかたまって立ちすくんでいると、ニヤリと不適な笑みをうかべて、妹はかけ出した。そして、階段をおりていった。
まずい。あいつお母さんにチクるつもりだ!ことみはあせって妹のあとを追い、階段をかけおりた。だが、すでに一歩おそし。
「ママ〜大ニュース!お姉ちゃんが大変なの!」くるみは、美容室の床をみがいていた母親のキヨに近づいて、大声で叫んだ。
「なんなのよ、大騒ぎして」キヨが掃除の手を休めずに言う。そして顔をあげた。「お母さんはいまねえ…」と言いかけて、階段の下に棒立ちしている長女の姿に見入った。
ことみ、キヨ、くるみの三すくみ状態に、美容室の中が静まりかえった。
最初に口を開いたのはくるみだった。
「これは事件よ、事件!だって地味を絵に描いたようなお姉ちゃんが、こんなおしゃれしてるなんて信じらんないよ。マジでヤバいわ」
くるみの言葉を聞き流して、キヨは着かざったことみの姿をじっと見つめる。そして、笑みをうかべた。
「あら、あんた見ちがえたわよ」キヨの言いかたには、心なしか安堵感のようなものが感じられる。「めずらしいじゃない。デートでも行くの?」
「え?これはその…」と言葉につまることみ。
「そうなのよ!お姉ちゃんね、彼氏が…」と言いかけたくるみの口を、ことみは手でふさぐと、わざとらしい笑顔を見せる。「ふがふが…おねえひゃんね…」とジタバタする妹を、ことみは羽交い締めにした。
「じつはね、ある人からパーティーに招待されてるの。参加者はみんなドレスアップしてくるから、変な服装じゃまずくてさ。そういうわけ」ことみは言いつくろった。
「かれひ…ふがふが」くるみが手をバタバタさせて、ことみのヘッドロックからのがれようとする。
妹に暴露されるまえに脱出するべし。ことみはわざとらしい笑顔を見せながら、店の入り口へ後ずさった。
「あはは。なにあわててるのよ」とキヨがあきれたように言う。「あんたもう二十六歳でしょ。恋人ができないほうがおかしいのよ。このままずっと引きこもりだったらどうしようかと心配してたけれど、とうとう春が来たわね」
母親にすっかり見ぬかれたことで、ことみは力がぬけてしまった。
「早くいってらっしゃい。できればあとで報告してね。ふふ」と言って、キヨはまた掃除をつづけた。
「ママあ〜、そんなこといってる場合じゃないでしょ!」くるみはことみの手をふりほどいて、キヨにつめよった。
「あんたはよけいなこと言うんじゃないの。いいから勉強しなさい!」とキヨは声をあげて、くるみをしかりつけた。
めずらしく姉をかばう母親に、ことみは驚いた。こんな服を着て出かけることに少なからず引けめを感じていたのに、お母さんがよろこんでくれるなんて。そんな小さなことが、なぜかとても幸せに思えた。
「ありがとう。じゃ、行ってきま〜す!」
ことみは浮き立った気分で、残暑の西日が照りつけるなか、高円寺駅にむかった。午後六時四十分。これなら阿佐ヶ谷にちょうど七時につけるわね。セーフ!
駅の改札を通って、エスカレーターをおりた。JR中央線の立川・高尾方面行きは、18:50分発車と、電子掲示板が知らせていた。
ことみはホームにたたずみながら、今日は電車に乗るのがこれで二度目、と一日の出来事をふりかえった。
家にとじこもってゲームばかりのあたしにとって、大変な日だったなあ。妹のいうとおり事件だわ、ほんと。それにしても、お母さんと一緒にいたあの男の人は、いったい何者なんだろう?う〜気になる。
電車がホームにすべりこんできた。車内は、仕事帰りの通勤客でめちゃくちゃに混んでいる。ことみは冷房の風にあたりながら、バッグからコットンパフを取り出し、汗にぬれたオデコと鼻をぽんぽんとたたいた。コンパクトミラーで化粧をチェック。大丈夫、くずれてない。
高校生のころ、よく電車の中でメイクをしている女の人を見ると、はしたないなあと思ったものだ。まさか自分が同じことをするなんて。
ダニエルさんに会ってからというもの、あたしの暮らしはガラリと変わった。でもまあ、今までが何もなさすぎたのよね。これからも良いこといっぱいないかなあ〜。
電車が速度を落とした。阿佐ヶ谷駅への到着を知らせるアナウンスが流れる。ドアが開いて客が押し出されると、ことみもその流れにのってホームにおりた。
OLさんが多いなあと思いながら、女性客たちの洋服に自然と目がいってしまった。ぼうっとしていたことみは、一階の改札におりるエスカレーターの列につきあたった。おっととと。あたしやっぱりドジだわ。
阿佐ヶ谷は、両となりの荻窪や高円寺にくらべると、高級な街並みのエリアである。ひとり暮らしの若者にも人気の街だ。おちついた住宅街が広がり、多くの俳優も好んで住むという。
南口から700メートルつづく商店街の『パールセンター』は、都内でも屈指のぜいたくな造りのアーケードとして有名だ。通りぞいには、女性がひとりで気楽にすごせるカフェや、大型スーパー、固定客の多いグルメショップなど、バラエティに富んだ店がならんでいる。
一階の改札口を出ると、ことみはスマホを取り出してラインの画面をひらいた。高城に電話をかけて、阿佐ヶ谷駅についたことを知らせる。四度目の呼び出し音でつながった。
「ことみさん?」と高城がひとこと。
「あ、はい。いま駅につきました」高城との会話は、なんどやりとりしてもドキドキする。
「じゃあ、そこで待ってて。今からむかえにいくよ」
高城の言葉に、ことみは遠慮がちに返事をした。
「あ、いいんです。道順おしえてくれれば自分で行きますから」
「ほら、またあ。もっと気楽に接してよ、ことみさん。ぼくがむかえにいきたいんだから、それでいいの。オッケー?」高城はことみの言葉をさえぎって、強引に話をすすめた。
だって緊張しちゃうんだもん…ことみは心の中でつぶやいた。なんてったって、二十六年間も男の人と縁がなかったんだから。どうやって距離を縮めたらいいかなんて、わかるわけないじゃん。でもうれしいなあ。ダニエルさんが積極的に引っぱってくれるから、すっごく安心。
「はいっ、わかりました。待ってます。ふふふ」とことみは明るくふるまった。
「おっ、いいねいいね!それじゃ、五分くらいでいくから」と言って高城は電話を切った。
ことみは、まさにドキドキワクワク状態。まさか今日ダニエルさんに会えると思ってなかったから、心がはずむなあ、きゃ〜。
その場ではねまわる年齢不詳の童顔女に、通りすがりの女子高校生たちがクスクス笑っている。
おっと〜はしゃぎすぎた。落ちつけ、ことみ。
高城を待つあいだ、バッグからスマホをとり出すと、ラインに二件の着信が入っていた。晴夫とジェニファーからだ。
なんだろう、ウナギのやつ。
"おい、はやく来いよ。きれいなモデルさんたち、みんな集まってるぞ。がんばってお洒落してきたんだろうな。おまえさえないから、おれに恥かかせるなよな。ウハウハ"
ウナギのやつ、なに調子こいてんのよ。腹立つわ〜!美女にかこまれてウハウハとか、オタクの風上にもおけないじゃん。どうせあたしは地味女よ。ちなみさんなんか、同い年なのにめっちゃかわいいし。立つ瀬がないなあ〜トホホ。
それで、ええと、クリオネちゃんは…
"ことみどの、下々のものが待っておるぞよ。ささやかなパーティーとは聞いておったが、まことにせま苦しい。ダニエルどのの家は、わが家の使用人と変わらないではないか。ウナギは…その…あ〜、まあいい。早くココロちゃんの話を聞かせてたもれ。待っておるぞよ"
あはは。クリオネちゃん合いかわらずのお嬢様ぶりね。でも、妹みたいでかわいい。仲よくしてくれてうれしいなあ。ていうか、うちのくるみとは大違いじゃん。やっぱ育ちが違うわよね。あ〜お金持ちに生まれたかった。
「お待たせ、ことみさん!」
ゲームのアプリを開こうとしたとき、高城が息をきらしてあらわれた。彼は、Tシャツにハーフ丈のカーゴパンツ、皮のサンダルという格好だ。ことみはあれ?と思って首をかしげた。ずいぶんラフな服装だな。
「ああ、これね」と高城は頭をかいた。「ことみさんと会うときはいつもキメてるからさ。ふだんはこんな感じなんだよ」
「ダニエルさんて、その、なんていうか、スキがないイメージなので、意外です」と素直な感想をのべてから、ことみはあわてて言いなおした。「あっ、変な意味じゃないですよ」
「いいんだよ。そう思ってくれるほうが距離が近くなるからね」と言うと、高城はことみの姿をじっと見つめた。「今日もすてきだね。ことみさんて、なに着ても似合うんだよなあ。ほんと不思議。僕のまわりにそんな女の子いないよ」と高城は言って、とびきりの笑顔をみせた。
「そ、そんな。でもうれしい。あたし、ええと、とても会いたかったです!」気持ちがはやってしまい、ことみはめずらしく想いをあらわにした。
ひゃあっ、言っちゃった。めっちゃ恥ずかしい!高城の顔から思わず目をそらして、ことみは自分の大胆さにあきれていた。どうしちゃったのよ、あたし。
そんなことみを、高城はいとおしい目でみつめていた。
「今日はなんだかすごく積極的だね!いつもより百倍かわいいな」と言う彼の表情には、ことみをここで抱きしめたい、というせつない思いがあらわれていた。「僕も会いたかったよ。すごく。もし毎日一緒にいられたら、ことみさんと…あ、ごめん。失礼だよね」と言って、高城は顔を赤らめた。「でもね、ひとり暮らしはわびしいんだよ。ハードワークの合間にフッとさびしくなると、いつもことみさんのことが頭に浮かんでしまうんだ」
純真な子供のような高城の表情をみて、ことみは彼の胸にとびこみたくなった。でも、そんな勇気があるわけがない。あ〜もう、なんでいままで恋愛してこなかったんだろ。経験ないから、どうしていいかわかんないよ〜。そんな泣きそうな気持ちを懸命におさえて、なんとか言葉をふりしぼった。
「あたしでよければ、ダニエルさんの役に立ちたいです」せめてものお返し。とはいえ、その言葉にひとつもいつわりはない。
「ありがとう。僕たち、もう恋人だよ。気持ちが通じあってるもんね」高城がとびきりの笑顔をみせる。「じゃあ、立ち話はこれくらいにして、そろそろ行こうか」と言って、ことみの手を握った。
彼のあたたかい気持ちがつたわってきて、ことみはますます想いをつのらせた。
これが恋なのかしら?
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