第27話お母さんが変

隔週の水曜日は、杉並区高円寺にある田中ことみの実家、美容室フローラの定休日だ。店がお休みの日は、いつも朝から母親のキヨが手作り料理をご馳走してくれる。

ことみの食生活は、ほとんどが外食かコンビニ弁当、サンドイッチと決まっている。だから、フローラの定休日はことみの健康にとって貴重な1日なのである。


ちなみに、ことみはゲームは達人だけれど、料理はまったくできない。26歳の乙女としては情けない限りである。まあ、いい歳してオタクな女なんてこんなものか?なんて言うと反感買うかもしれないから、ここは不器用なんだくらいにとどめておくとしよう。


ことみは、週に5日、高円寺駅南口のCDショップ《エクストラレコード》でアルバイトをしている。

週に4日間は夕方4時からの夕勤、1日は午前11時からの昼勤というシフトである。週休2日というわけだが、それ以外に、実家の美容室が休みの時に合わせてバイトの休みを取っている。

ふだんから母親は仕事で忙しく、親子の接する時間が少ないので、休みを合わせてコミュニケーションを取ろうというのが、キヨとことみの間で暗黙の了解となっている。


9月第3週の水曜日、ことみはいつもの休日より数時間早く、ベッドから出て1日をスタートした。

「あ〜眠い。きのうバイトから帰ってきて夜中まで『LightningBolt(ライトニングボルト)』やってたからなあ。睡眠不足だよ」ことみは、パジャマから部屋着のピンクのジャージに着替えながらつぶやいた。『ライトニングボルト』とは、日本のゲームメーカー《LINCON(リンコン)》社のSFバトルアクションゲームである。「ま、でもステージ4までクリアしたからいっかあ〜。後でウナギのやつに自慢してやろうっと。うひひ。あいつまだステージ3でもたもたしてるって言ってたからな。悔しがる姿が眼に浮かぶわ」と言って、ことみはニヤニヤと顔をゆがめて唇を引きつらせた。

ウナギとは、オタク仲間の同い年、杉本晴夫の事である。

着替えを終えると、ことみはGalxyのスマホを2つ手に取って、部屋を出た。

2台のスマホのうち1台は、ことみが最近、淡い恋心を抱いているイケメン男性、高城ダニエルから買ってもらったものだ。ダニエルは表参道でアパレルショップを経営しており、副業でDJもやっているという100%リア充のハイスペック男子である。そのへんの経緯は以前のくだりで述べたので、ここでは割愛させていただくことにする。


階段で2階から下へ降りると、キッチンへ向かった。いつも定休日のこの時間は、母親のキヨが自分のために料理を作っているはずだ。

「お母さ〜ん、今日の朝ごはんは‥‥」と言いかけて、ことみは立ち止まった。あれ?誰もいない。ガランとしたキッチンの風景に、ことみは肩透かしを食らった。「どいうこと?お母さんたら、あたしのこと放ったらかしてどこ行ったのよ」ことみはきょとんとしてその場にたたずんだ。

仕方がないので、ダイニングテーブルのコーヒーメーカーにDOTOR(ドトール)の豆を入れてスイッチを押し、朝イチの一杯の準備をした。

見たところ、コンロには鍋もフライパンも乗っていない。というより、今日キヨがこのキッチンを使った形跡がない。う〜ん、もう。お母さん、朝めし〜。


コーヒーが出来るのを待ちながら、ことみはテーブルにひじをついて天井を見上げていた。

その時だった。静まり返った家のどこかから、ふふふ〜んと口ずさむ鼻歌が聞こえてきたのだ。「ん‥‥」ことみはおやっと思って顔を上げた。耳をすますと、それは2階から聞こえてくるようだった。

ということは、いまこの家には2人しかいないから、出どころはお母さんという事になる。妹のくるみは学校に行ってるもんね。ことみは状況が読めずにポカンとしていた。それから我に返って、母親が2階のリビングか寝室にいるのだと気がついた。


それにしても鼻歌とは‥‥。ふだんから、仕事でもいつも淡々としているキヨのイメージとはかけ離れている事に、狐につままれた気分だ。

ポコポコと音がして、コーヒーがカップに注がれた。ことみは立ち上がって髪の毛をカキカキしながら、ミルクと砂糖を入れてひと口すすった。その間も、上にいるであろう母親の様子をうかがっていた。


しばらくすると、鼻歌が止まった。ことみはカップを持ったままキッチンを出ると、2階に向かって声をかけた。

「お母さん、そこにいるの〜」

階段を上ってそのままキヨのところへ行ってもいいのだが、この時は、なぜかそれがいけない行為のような気がした。「朝ごはん食べたいんだけど。そこで何やってるの〜」

返事がなく、10秒くらいが過ぎた。すると、上からキヨの声が聞こえてきた。

「あら、ことみ起きたの!母さん今日は外出するから、ご飯は外で済ませてくれる?」とキヨが声を張り上げた。

妙に投げやりなその言葉に、ことみは髪の毛をかきむしった。

「え〜、せっかく定休日に合わせて休み取ってるのに、それはないじゃん!」コーヒーを飲みながら文句をたれた。「ていうか、外出ってどこ行くのよ。今日は介護センターの講師の日じゃないでしょ?」

「うるさいわね、もう!あんた子供じゃないんだから、ちょっとは親離れしなさいよ。私にだってプライベートってものがあるのよ。答える必要はない!」とキヨはビシッと言い放った。

「ちぇっ、ケチくさいなあ〜。大事な娘に向かって失礼しちゃうわ」と不満をたれて、ことみは2階に向かってベーっと舌を出し、キッチンに戻った。


あ〜ほんっとに、いつも妹ばっかりチヤホヤして、あたしはほっぽらかし。まあ、そりゃ、毎日バイトとゲームだけの華のない女子だけど、これでもいちおう適齢期の乙女なんだからさあ、くるみみたいに「ことみちゃん、お弁当持った?アルバイト頑張ってね〜」とか言ってもらいたいわけよ。なんでお母さんこんなにあたしに冷たいんだろ?ダニエルさんはあんなに優しくしてくれて、それにあたしの事「ことみさん、とっても綺麗だよ!」とか言ってくれるし、きゃああ〜‥‥


まったくこの女、イケメンの前ではしおれそうな花みたいに振る舞ってるくせに、実家の暮らしぶりを見たら、さすがの紳士な高城ダニエルでも愕然としてしまうのではないか?


それにしても、お母さんどこに行くつもりなんだろう?さっきの様子では服を着替えていたみたいだよね。間違いなく、仕事じゃなくてプライベートだな。仕事と家事以外見向きもしないと思ってたけど、それはあたしの勝手な思い込みなのかなあ。

ことみはコーヒーを飲み終えて、カップを洗って洗い物カゴに入れた。さあて、今日は何しよっかなあ。


ん?ラインにメッセージ来てる。ダニエルさんかしら。や〜ん、今度はどんなお誘いなの。また表参道でお洒落して、カフェレストランでも連れて行ってくれるのかな。

ラインを開くと、ウナギとジェニファーちゃんからのコメだった。あらあ〜、ダニエルさんのラブリーメッセージかと思ったのに。無念。どれどれ?まずはウナギ。

「おいメダカ。こないだの幕張EDMフェスティバルだっけ、あん時の写真送ったぞ。めっちゃイケてるよ。ちなみんさんて、ホントに可愛いよなあ。ライラさんなんて人間とは思えない美人だし。綺麗な女性に囲まれてウハウハよ。あっ、クリオネもまあまあ可愛いけどな。お前はほどほどか。あとでお前が撮った写メ送ってくれ。よろしくな」

何がほどほどよ。あいつ最近調子に乗ってるわね。あんなに女に縁がなかったくせに。アイドルオタが笑わせるわ。

ジェニファーちゃんは何の用かな。

「ことみどの。先日は世話になった。下々(しもじも)の者たちと一緒にはしゃぐのも、たまには一興(いっきょう)であるな。

そなたの恋人のダニエルだが、あの者はなかなか人間ができておる。おそらく一生に一度の、いや、最後の機会であろうから、くれぐれも粗相(そそう)をするでないぞよ。

何なら、われが仲を取り持ってしんぜようか。婚約の宴(うたげ)を開いて、盛大に祝ってやろうではないか。我が家のプールガーデンなら、500人くらいは呼べる。各界の著名人を招待するから、そなたの幸(さち)多き未来に花を添えるがよい。

それから、これは助言であるが、ことみどのはもう少し外見に気を使ったほうが良いな。とくに家におる時のヘアメイクと普段着は、絶望するほど貧乏くささ丸出しであるぞ。ネットのアプリで研究せよ。

気合いを入れて外見を洗練すれば、とくにダニエルどのたちほか殿方の見る目も変わるからな。お母様も言っておる。女子は身だしなみを毎日欠かすべからず。まあ、そういうわけだ。では、失礼する。敬具」

あらあ〜。さすが上流階級のお嬢様。20歳なのに言うことしっかりしてるわねえ。

ていうか、あたしの外見、やっぱり悲惨よねえ。ダニエルさんとか表参道「ヴォヤージュ」の美容師シャロンさんに手伝ってもらえれば何とかなるんだけど、自分じゃお化粧ひとつ出来やしない。ジェニファーちゃんの言う通りだわ。雑誌とかお洒落アプリ見て勉強しなくっちゃ。お友達の前でダニエルさんがっかりさせたくないから、頑張ろうっと。


それはそうと、朝ごはん何にしよ?松屋で朝定でも食べようかな。ソーセージエッグ定食納豆付き。あれ美味いんだよなあ。海苔に卵の黄身浸してご飯と一緒に食べると、そりゃまあ絶品。やだ、お腹すいてきた。


外へ出かけようと、財布を取りに2階に上がろうとした時、階段の上から母親のキヨが降りてきた。

「あ、お母さん。ねえ、どこへ‥‥」と言いかけて、ことみはその場で固まった。キヨの服装に驚いた。

ノースリーブのライトグレーのコットンシャツ。淡いピンクのジョガーパンツの下から、白いハイヒールの靴がのぞいている。髪の毛はアップにまとめて、首には高価そうなネックレス。真っ赤なケリーバッグを手に抱えてる。とどめはサングラス。大きめのGUCCIである。もちろん、ことみにはこんなアイテムの詳しいデータは分からない。

何この格好、これがお母さん?ファッションモデルみたいじゃない。ことみは口をポカンと開けたまま、セレブのようなキヨの変貌した姿に目を釘付けにされていた。一体どうしちゃったの?

「あら、ことみ。母さんこれから出かけるから、戸締りちゃんとしておいてね。帰りはたぶん遅くなるから、夜ご飯はくるみと一緒に出前を頼みなさい。じゃ、行ってくるわ」キヨは何ごともなかったように言い捨ててことみの横をすり抜けると、カツカツと音を立てて店の扉を開けた。「ああ、そうだ。明日の予約の確認しておいてちょうだいな。休み明けはお客さん多いから、時間区切りはとくにね」チャイムの音が鳴って扉が閉まった。


ことみは頭が空っぽになったように立ちすくんで、意味もなく手に持ったスマホを見つめている。わけがわからなかった。いま起こった事が理解できず、脳の回路がショートしたかのようだ。2〜3分棒立ちになって、フィギュアのように動かなかった。


プルルルル〜!!


Galxyの着信音が鳴って、ことみはビクっとして我に帰った。電話がかかってきたのは、新しい方のS9だった。通話ボタンを押して電話に出た。高城ダニエルの爽やかな声が響いてきた。

「あ、ことみさん。僕だよ、ダニエル。たしか、今日はアルバイトお休みだったよね」

「あ、はい」とことみは言葉少なに返事をした。

「今夜、僕の部屋でホームパーティやるんだけど、良かったらその前に海外ドラマでも観ない?シャーリーズセロンの『CORD9』の新シーズンのブルーレイが手に入ったんだよね。僕がランチの手作りメニューご馳走するから、招待したいんだ」

なんと、憧れのダニエルから、自宅へのお招きである。天にも昇る心地‥‥のはずだったが、いまのことみにとって、そんなダニエルの言葉は耳に入らない。母親の衝撃的な変わりように、心を奪われてしまっていたのだ。

「あ、ダニエルさん。すみません、かけ直します。ちょっと今立て込んでて‥‥」と言って、ことみはダニエルの返事も聞かずに電話を切った。


ごめんなさいダニエルさん。でも、今のあたしはそれどころじゃないの。う〜ん‥‥。ことみは考え込んだ。そして、悩んだ末に行動に出ることにした。

よしっ、決めた!このままにしておけない。お母さんの行動たしかかめなくっちゃ。ことみはそう決めると、2階へかけ上がった。部屋に入って急いで着がえると、ダッシュで階段を降りていき、店を出て、扉に鍵をかけた。くるみは鍵を持ってるから心配ない。


商店街を走って、駅の南口へ向かった。今ならお母さんに追いつけるはず。50メートル走っただけで息が切れてきた。あ〜しんど。スニーカー履いてきて正解。

駅前のロータリーに差し掛かったところで、改札に向かう階段を上るキヨの姿をとらえた。よし、みっけ。ことみは左右を確かめてから横断歩道を渡って、キヨの後を追った。


階段を駆け上がると、ちょうどキヨがSuicaを使って改札を抜けようとしていた。そこで気づいた。おっと、あんまり近づくと尾行がバレてしまう。ことみは少しタイミングを置いて、キヨとの間に距離をあけた。

母親が中央線の新宿方面の階段を降りるのを確かめてから、改札を抜けて後を追った。

少しだけ早足で階段を降りながら、キヨの後ろ姿を視野に入れて尾行を続けた。キヨはハンカチで額の汗を拭いながら、4番線の中野・新宿方面ホームを歩いていく。前から3両目あたりで足を止めた。ケリーバッグから扇子を取り出して、パタパタと顔を仰いでいる。

確かに今日は、9月後半の残暑が厳しい。朝の10時前なのに、すでに気温は30度を超えているだろう。ことみは同じホームの4両目あたりで足を止めた。ちょうど自動販売機で視界をさえぎる具合に、手前のベンチに後ろ向きに座った。あっちい〜。走ってきたから汗ダラダラだわ。急いで手ぶらで出てきたので、ハンカチない。ことみはTシャツをバタバタ仰いで湿気を逃した。あっ、そうだ。席を立って販売機まで行くと、140円でファンタグレープを買った。この自販機は何度も使ったことあるから、あたしの好きなファンタあるの分かってるもんね〜。ことみは対して自慢にもならない事をつぶやいて、ベンチに戻ってファンタをぐびぐび喉に流し込んだ。うまっ。生き返るわあ〜。ふう‥‥おっといけない。尾行のこと忘れてた。ことみは顔を傾けて、メガネごしにキヨの姿を確認する。

それにしても、今さらながら母親の美人ぶりには感心させられる。常連のお客さんは、みんな口をそろえて言ったものだ。「若い頃のキヨさん、本当に男性の憧れの的だったのよ。芸能界から何度もスカウトされたけれど、この人堅実だからかたくなに断り続けたって。もったいないわよね〜」

確かに娘のあたしから見ても、もう50歳を過ぎているのに肌は艶やかだし、顔にはしわひとつない。目鼻立ちが良くて口の口角が上がりめなので、女らしさが際立っている。額の広さも程よいし、顔の輪郭は典型的な卵型。可愛い。綺麗だ。あたしの顔ってお母さん似かしら、とか言って、ぷはは!なわけないか。

そんなくだらない事を考えている時、ホームにアナウンスが流れた。

「まもなく4番線に、中央線特別快速、中野・新宿方面行きが参ります。黄色い線から下がってお待ちください」


おっけー、お母さん尾行大作戦の開始〜。ことみは勢いよくベンチから立ち上がった。

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