第23話田中家の秘密

火曜日の朝、ふだんはアルバイトの昼勤の時以外は昼頃まで寝過ごすはずなのに、なぜか眼が覚めて眠れない。

昨日も同じだった。こんな事は20代からこの方、毎日ダラダラと言えなくもない生活を送ってきたことみにとって、初めての事である。


理由は明らかだ。おとといの日曜日の夜、幕張のEDMフェスティバル《アルティマジャパン》の興奮がまだ覚めやらないからなのだ。

今まで目にしたことのない、数万人が押し寄せたダンスミュージックのイベント。それだけでも驚くべき事なのに、さらに『スーパーVIP』という、モデルや芸能人専用の超セレブな観客席に招待されてしまった。

そこでは、美しくてファッショナブルなギャルモデルや、みずから会社を経営するハンサムな若い男性たちが、気のおけない仲間として受け入れてくれた。それはそれは夢のような時間だった。

とくに『gogoダンサー』と呼ばれるセクシーでプロフェッショナルな女性たちには、惚れ惚れするほどの感動を覚えた。同じ女として、あれほどの美を追求するその姿は、憧れを通り越してあっぱれという他はない。


仲良くしているオタクの杉本晴夫と、最近友だちになったばかりのハーフのお嬢さん水戸井ジェニファーと3人で、経験したことのないキラめく時を過ごした。そこで飲んだシャンパンの味は、たぶん一生忘れられない。

そんなありえない体験が出来たのは、間違いなく高城ダニエルのおかげだった。

イベントが終わると、高城はことみと晴夫をそれぞれ家まで送ってくれた。ジェニファーはあらかじめ家の執事に連絡しておいて、迎えにきたロールスロイスで帰っていった。その様子を見ていた高城の仲間たちは、ジェニファーのお嬢様ぶりに度肝をぬかれていたようだ。


そんな高城は、世間から見れば立場に雲泥の差があることみ達に、恩着せがましい態度をとるでもなく、むしろ優しく誠意をもって接してくれていた。華やかな世界に生きる仲間にも同様に、大切な友人として紹介してくれたのである。ことみはそんな彼に、それまでにも増して好意と親しみを覚えた。


地元のCDショップで初めて会った時は、苦手なリア充のイケメンだと敬遠していた。しかし、そのあと偶然も手伝って何度か会ううちに、彼の紳士的な人柄に惹かれていった。

26歳にして恋愛経験のなかったことみは、少しずつではあるが、高城に対して心の扉を開いていったのだ。自分の中に眠っていた、大人の女性としての秘められた魅力を引き出してくれた彼は、ことみにとって退屈だった人生のよりどころとなった。

彼の自分に接する様子に、単なる知り合い以上の感情がある事は、ことみも薄々感じていた。けれど、男性から好意を寄せられることなど一切なかったことみは、高城と男女の間柄になるという事に戸惑いを感じていた。


君といるとあったかい。

ことみさんて素敵だな。


そんな彼の自分に対する言葉は、ことみの心を溶かしていく。

これが恋なのだろうか?

ルックスから何からパーフェクトな男の人が、地味でさえない自分に優しく正直にアプローチしてくれる。人生初体験となる、そんな高城へのことみの想いは紛れもなく恋なのだが、いまだ恋愛を知らないことみには大きな難問だ。はっきり言ってゲームより難易度が高い。


「あー、もう悩ましい!」

ベッドの上で見ていたスマホのYotube画面から顔を上げて、ことみは天井をあおいだ。

「こんな事なら、若い時にもっと男の子と恋愛しとくんだった。自業自得よね〜。あたしったら、引きこもってゲームばっかやってるなんて、何たる人生の無駄。クソっ!」と地団駄を踏んで、起きがけの乱れた髪を両手でクシャクシャとかきむしった。


ところで、いま何時?

「えっ、7時45分‥‥早っ。バイトの時間まで、まだ9時間以上あるじゃん」

仕方がないので、とりあえずベッドからおりて重い腰を上げた。あくびをしながら、パジャのままで洗面所へ向かう。

歯を磨いてから、フェイシャルソープで顔を洗い終わると、目の前の鏡に映る自分の顔をマジマジと見つめた。

「う〜ん、自分で言うのも何だが、ブサイクだわ」とうなだれた。ちなみにに『自分で言うのも‥‥』の後には本来、褒め言葉がくるのだが、そこに頭が回らないほど、ことみは自分に対してネガティブなのである。


洗顔を終えると、廊下の先のリビングへ歩いていった。部屋の片隅には、そこそこ大きめの黒い仏壇が設けられている。

ことみは仏壇の前に正座すると、線香を一本取り上げて火をつけ、ツボの中の灰に刺した。目の前の男性の顔を拝んでから、遺影に向かって手を合わせた。こうべをたれて、しばし幼かった頃の思い出を振り返っていた。


警察官だったことみの父親『田中京介』は、18年前、ことみがまだ8歳の幼かった時にこの世を去った。

当時、TVでもさかんに報道された、東京八王子の立てこもり強盗犯との銃撃戦で、流れ弾が大腿部の大動脈を引き裂いた。京介はすぐさま病院に搬送されたが、医師の必死の手当てもむなしく死亡した。原因は失血死だった。あっけない最後だった。

想像すらしなかった突然の訃報を知らされた妻のキヨは、病院のICUで娘達をかき抱いてて呆然としていた。愛する妻と2人の娘を残して逝ってしまった夫。彼の無念を思うと涙も出なかった。

" この子たちと3人、これからどう生きていけばいいの?あなたのいない人生‥‥こんな不幸がよりによって私たちに降りかかるなんて、神様は何を考えているのよ、あんまりだわ‥‥ "

思いもしなかったいきなりの悲劇に、それから1週間キヨは深い絶望に沈んだ。

しかし彼女は、幼い娘たちを抱える親として、傷ついた心に蓋をして、現実主義者の自分を奮い立たせて家業の美容室を再開した。

不幸中の幸いというべきか、娘たちはまだ思春期にも達しない年齢だった。母親ほどには、これから待ち受ける生活難を思い描く事はなかったのである。


キヨは、本業の美容室とパートの介護の仕事を掛け持ちして、生活費を懸命に稼いだ。店の定休日には、美容学校の恩師から紹介してもらって、実習生の講師の仕事もつとめた。

その後10年以上に渡ってキヨは、店の家賃を払い、子供たちを学校へ通わせ、困難に負けずに、世間に恥じない家庭生活を築いていった。

やがて娘たちは成長し、それぞれが高校入学と同時にアルバイトを始めた。苦労する母の後ろ姿を見て育った2人は、キヨをしっかりと支えた。父親のいない女3人の家族は、深い絆で結ばれていたのだ。

今でこそわがままもキヨに逆らうことも珍しくない姉妹であるが、母親に対する愛情が途絶える事はない。


話が暗くなってしまったので、先へ進めよう。


朝の日課を終えたことみは、コーヒーを作ってリビングのソファーに腰掛けた。カップから熱いカフェラテを口に運びながら、あらぬ考えにふけった。

「お父さん、もし生きてたらどんなだろうなあ?亡くなった時はまだ小学校2年生だったから、記憶に残るお父さんの姿は断片的にしか覚えてないもんね」

あ、いけない。あたしったらまた余計なこと考えちゃった。お母さんにこんな姿見られたら大変。お父さんのこと忘れた日はないけど、お母さんの前ではその話はタブーだからね。


ことみは気を取り直して、腰を上げると、部屋を横切ってタンスの前にひざまずいた。一階の様子に耳をそばだてる。大丈夫、お母さんは店の準備に忙しい。上から2番目の小さい引き出しを開けて、中からアルバムを取り出した。再びソファーに腰を下ろすと、コーヒーを飲みながら、アルバムのページをめくった。

20年も前の家族写真や、お母さんとあたしと妹の3人の写真。色あせたものから最近のものまで、たくさんの家族の記録が詰まっていた。あたしの頭にあるお父さんの姿のほとんどは、このアルバムの中にある。ことみはいつも、写真のシルエットを指でなぞりながら、今は亡き父への想いを心に蘇らせる。

父親がいなくなってからの家族3人の写真は、それ以前のものより数倍も多く撮られていた。中には、妹の小学校入学時や卒業写真、そして有名な私立女学校の試験結果発表の写真。

何よ〜これ。圧倒的に妹の記念写真の方が多いじゃんか。もう何度もアルバムを見てるけど、そのたびに愚痴が口をついて出る。お母さんたら、自分が苦労したから下の娘には甘いのよね。不自由させたくないって。

長女のあたしはしっかり者だから、放っておいていいわけ?あたしだって、甘えたい時もあるし自分に見栄を張りたい事もある。そりゃまあ、最近は部屋に閉じこもってゲームばっかしてるけど、名門校に行けなかったあたしはアルバイトで稼ぐのが精一杯。我が家の格差だわ!断固反対!


その時、手にしたアルバムから写真が一枚こぼれて、床に落ちた。


ん、何これ。


ページからはがれたのかな?ことみはかがんでその写真を拾い上げた。見ると、幸せそうな顔をしたカップルの姿が写っている。2人の年齢は、おそらく50歳前後か。バックには、どこかの湖の水面と、遠景に滝が写り込んでいる。2人ともサングラスをかけて、女性の髪は風に吹かれてたなびいていた。これは船の上で取られた写真だ。たぶん観光地なんじゃないか。何でこんな写真がうちのアルバムにあるんだろう?その謎に、ことみは好奇心を抱いた。

写真をじっと見つめていたその時、そ女性の顔を見て、ことみは驚いた。これってお母さんじゃない?サングラスをかけてるけど、たぶんそう。家ではロングヘアをいつもひっつめにしているけれど、髪を解けばこんな感じじゃないかしら。それに、整った鼻筋と唇、卵型の顔と細い顎のラインは、見れば見るほど母親のキヨそのものだった。その表情は、普段見たことのない明るい笑顔に満ちていた。お母さんたら、どこでこんな写真撮ったんだろう。

それにしても、隣にいるこの男性は誰だろう?

初老で髪には白いものが混じっている。身長は180センチくらいで、隣のキヨより頭ひとつぶん高い。茶色の皮のジャケットの下に、タートルネックのニットのセーターを着込んでいる。母親の肩に手を回して、右手を船の手すりにかけている。全体的に、裕福でリラックスした紳士という印象だ。要するに男前である。

その男の存在は、大いなる謎に満ちていた。

ふと思いついて、写真を裏返してみた。予想した通り、下のほうに何か書き付けてあった。


" 2016年9月18日。

日光水禅子湖にて "


えっ、待って。めっちゃ最近じゃん!どういう事?お母さんが男の人と、仲良く観光‥‥?ことみは想像もつかなかったその母親の姿に、目を奪われていた。時が止まったようだった。


しばし間をおいて、ようやく現実を受け止めると、再び好奇心が湧き出てきた。そりゃまあ、お母さんだって独り身だし、お父さんと生き別れてから20年近くなるんだから、新しい男性が見つかっても不思議じゃない。それが事実なら、むしろ娘としては喜ぶべき事なのでは?つらい時代を苦労してきたんだから、幸せになってもらいたい。

ただ、突然目の前に現れた証拠(?)を前にして、心を乱された事も事実だ。う〜ん、大事件。これはわが田中家にとって、大いなる秘密ね。真相を知りたいと思う一方で、この写真のことには決して触れてはいけない気もした。


その時、自分の部屋でスマホの呼び出し音が鳴った。われに帰ったことみは、写真をアルバムに挟んで閉じると、タンスの引き出しにしまった。急いで部屋に戻ってGalaxyの画面を見る。あっ、ダニエルさんからだ!ドキドキ。謎の写真のことは、あっという間に頭から忘れ去られた。

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